以前の記事『
聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』の続き。
今回ご紹介する部分はちょっと長めです。
当時の国立衛生試験所食品部長が発表した
PCBの毒性に関する論文が、世間の常識と違っていたために当時の国会で問題視されたことを例に挙げて、二重の虚偽が軍人的断言法と結びつき、どのような結果をもたらすかについて解説していきます。
(前回のつづき)
事実を事実でないと嘘を言えという。
次に嘘を言いましたという第二の嘘をついて、第一の嘘の責任をとってやめろという、そしてやめると与野党も新聞も、これで事件が落着したという。
しかし、これは本質的には今回の事件は事件の終りでなく、ここが事件のはじまりであろう。
そこで私は『百人斬り競争』の扱い方でも今回のこの扱い方でも、みなが終ったとしたところを出発点にしたい。
そしてこの人びとが「終った」とするところを出発点とすると、これらと非常によく似たことが常に行われているように見える。
たとえば次のような記事がある。
「『PCB危険でない』国立衛試の部長が論文発表――国会で追及、厚相平謝り――国民の健康を守るための研究、検査を担当している国立衛生試験所の部長がポリ塩化ビフェニール(PCB)の食品汚染について危険性を否定するような論文を発表していることが、九日の衆院予算委員会でとりあげられた。
答弁に立った斎藤厚相は『まことに不謹慎。わたくし自身も憤慨している。申し訳ない』とひらあやまり。
野党席からは『あやまるだけではすまない、責任をとれ』と激しいヤジが飛んだ。
論文を書いたのは田辺弘也国立衛生試験所食品部長。
委員会では、細谷治嘉氏(社会)が一月二十二日付週刊新聞『月曜評論』に載った田辺部長の『PCB汚染食品の安全性』という論文を中心に質問を展開した」
以下の記事のつづく部分は同氏の論文の内容だが、新聞記事を読んても私などにはさっぱり要領を得ないので、『月曜評論』を取りよせて田辺弘也氏の論文を見てみた。
まず最初に感じたことは、論文の表題は『PCB汚染食品の安全性』であって、内容のどこを見ても氏は「PCB危険でない」とは一言もいっていないことである。
一体、なぜこういう表題をつけたのだろう。
またどうしてこの論文が問題になるのであろう。
斎藤厚相は何を憤慨しているのか、なぜ申訳ないのか、なぜ「あやまるだけではすまない、責任をとれ」なのか、私にはさっぱり理解できない。
田辺氏が、ここでのべているのは国産PCBに聞する「国立衛生試験所毒性部」の実験成果の中間的報告で、「完全な慢性毒性の成果を得るには三年の日時が必要」で「最終結論は未だ得られていない」とまず書いてある。
ただ「幸い米国で、PCBの慢性毒性及び次世代に及ぼす影響に間するかなり詳細な動物実験結果が最近発表され」たので、今までの日本の研究を手がかりに「米国の実験結果を検討」したのが、この論文である、と。
ここには、ある一定の条件の下に行われた「自国と他国の実験の成果」という一つの事実と、DDTの資料を基にした推定か書かれているにすぎない。
しかしその「実験の成果」は、今のマスコミの論評や社会の通念とは非常に違う。
しかし、マスコミの論評や社会の通念と違うからといって、それに適合するように「事実」を曲げて発表したら、それこそ非難されて然るべきことであり、学者とは思えぬ「曲学阿世」と言わねばなるまい。
この場合、その結果が――もちろんこれは最終的結論ではないが――たとえ、PCBは無害と出ようと、PCBは今の通念の百倍も有害と出ようと、実験の現段階の成果という「事実」は「事実」であって、その「事実」を「事実」のまま発表するのが当然であって、それをしてはならない、という理由は全くない。
しかし、「最終結論は未だ得られていない」ので「PCBの如く、慢性毒性に関する知見の乏しい物質では危険なことが起らないとも限らないという心配も当然に起ってくる」。
だがそれは「最終結論」が出るまてはだれにもわからないのだから、一応、「化学構造の似ている点からDDTを初めとする有機塩素系殺虫剤」の人体に及ばす影響、これはすでに多くのデータが出ているから、これを基にして類推してみる、と。
確かに、新しい問題が起きたときは、それの実態はだれにもわからないのだから、一応、類似したものの過去のデータから類推する以外に、方法がないはずである。
これによるとPCBの「人体脂訪中の蓄積量は、一定濃度で止まるに違いないと考えられ、マスコミで報道されている如く、無限に加算蓄積されて行くとは科学的に信じ難い」と。
私は化学者でないから、氏の論文のうちの化学的専門的なことはわからない。
わからないから私には何もいう資格はない。
しかし、一つの成果が出たなら、その成果は率直に発表すべきで、発表してこそはじめて、学問上に誤りがあれば他の学者がこれを指摘できるのだから、発表しないで隠すことが最も悪いと思う。
この論文に誤りがあるなら、それは発表してこそはじめてわかる。
発表しなければわからない。
となると国立衛生試験所食品部長が誤った考え方をしていてもだれにもわからないということになる。
それが最も危険なことだから、マスコミの論評や世の通念と違うなら、違えば違うほど発表すべきである。
したがって発表は当然のことだと思う。
では一体全体、細谷氏は何を憤慨しているのか、また、斎藤厚相は、何を「不謹慎」と考え、「わたくし自身」も何を「憤慨し」、一体全体何か「申訳ない」のか。
田辺弘也氏はさらに「このように規制値以下ならば、PCBの検出された食品でも、心配のないことは明らかなわけであるが」しかし「β−BHC等、他の有機塩素剤との、互に毒性を強め合ういわゆる相乗作用の有無やその程度」という問題があり、それについての研究も進められている、と書かれている。
相乗作用などということは、私のような素人には全く注意が向かないことで、PCB、PCBといわれると何となく他のことは念頭になくなってしまうので「なるほど、そういう研究も必要なわけだな。するとPCBの規制だけてなく、それと関連してDDTの各人の自主規制といったことも念頭におく必要もあるわけかな」と認識を新たにする面もあった。
私は田辺氏が「科学的な事実にもとづいた論文で、内容に間違いはない。いま論文を打消したり否定することはできない」と新聞に発表されたのは当然だと思う。
すると斎藤厚相が最後に「『……不謹慎のきわみで誠に申訳ない。十分に注意する』と述べ、かろうじて責任問題についての明言を避けた」というのは一体全体どういうことなのであろうか。
何と注意したのか、うかがいたいものである。
「そういうものは発表してはならん」と注意したのであろうか、それはこまる。
そんな注意をされては、もしかりに食品部長が誤った考え方をしていても、だれにもそれがわからなくなる。
では、マスコミの論評や世の通念に適合するよう論文の内容を曲げろといったのか、それはもっとこまる。
では「あったこと」を「なかったこと」にする与野党共同「二重の虚偽の増原方式(註1)」ですべてをおさめろというのか、それが一番こまる。
(註1)…拙記事『聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』参照のこと。
そうされることが、一番危険なはずである。
「事実論」は思想・信条・是非・善悪に関係がない。
一つの実験成果と資料とから、中間段階で一つの判断を下した際、その判断自体に「停止」を命じたところで意味がない。
というのは「停止」を命じてもその判断の基礎になった「事実」がなくなってしまうわけではないからである。
また「なかったこと」を「あったこと」にしても事実が生れるわけでなく、「あったこと」を「なかったこと」にしても事実が消えるわけでもない。
従って、田辺食品部長が、前記のような資料とそれに基づく判断を、何らかの理由で、逆に、故意に隠していたのなら、これは徹底的に追及さるべきだし、その際こそ厚相は「不謹慎のきわみで誠に申訳ない。十分に注意する」というべきであり、これは増原長官の場合も同じはずである。
以上、大分前置きが長くなったが、私がこの「PCB危険でない」という記事に興味をもったのは、実はPCBそのものに対してでなく、これこそまさに典型的な「軍人的断言法(註2)」の一例だったからである。
(註2)…判断を規制していって命令同様の一種の強制力を発揮する言い方。拙記事「アントニーの詐術【その1】〜日本軍に「命令」はあったのか?〜」参照のこと。
細谷議員は、だれかれかまわずトッツキ・カミツク参謀、俗にいうトッツキ参謀に似ており、斎藤厚相は、本心では地位と昇進と無難と無風状態しか念頭にない腰抜部隊長、そして田辺部長はさしずめ、資料その他を握っている部付というところであろう。
参謀に指揮権がない如く、国会議員も行政上の指揮権はない。
従ってこの場合、もちろん、田辺部長に命令が下せるのは斎藤厚相だけであり、細谷議員は、斎藤厚相に対しても田辺部長に対しても命令権があるわけではない。
しかし、もし、上記の問題で、実質的には細谷議員の指示をうけた斎藤厚相が、田辺部長に「十分に注意」して、その資料への彼の判断に対して、学問的に何らの理由も根拠もなしに、それを停止させれば、そしてあらゆる判断を次から次へと停止させて、一つの判断しか残らないように規制していけば、結局は細谷議員による一種の「命令」になってくるのである。
しかし、その結果何か重要な誤りが生じても、細谷議員には「命令権」はないから一切責任はない、ということになる。
資料を検討し、その結果一つの中間的結論が出てくる。
出てきたらそれはそのまま提示しなければならない。
一切、何も顧慮してはならない。
あらゆる資料を検討したら「日本は必ず戦争に負ける」という結論が出たのなら、それはそのまま発表しなければならない。
あらゆる方面から研究して、イタイイタイ病の原因はカドミウムでなく、従って三井金属は関係がないという結論が出たら、それはそのまま発表しなければならない。
あらゆる資料を調べて『百人斬り競争』という事実はないという結論が出たら、それはそのまま発表しなければならない。
たとえすでに「宣戦布告」がなされていようと裁判所の判決が下っていようと、処刑がすんでいようと、それは隠してはならないし、その発表を妨害してはならない。
こういうことは、きまりきったことのはずである。
だが、いつもそういかない。
資料に基づき検討すると「日本は必ず負ける」という結論が出る。
だが、発表したらどうなっていたか。
いや、それをほんのすこしほのめかしただけで、軍部のお先棒かつぎの議員が「戦線で兵士がお国のために死を賭して戦っているのに、ナニゴトダーッ」という。
すると担当大臣は「政府も国民も総力をあげて戦っているときに、こういうことを発表するとはまことに不謹慎、私自身も憤慨している。厳重に注意する……」というと議員席から「責任をトレーッ」というヤジがとび、同時に「そんなことを発表するやつは非国民の敗戦主義者だ」ということになる。
そして戦争が終ればみんな知らんぷり
「おれの責任じゃないよ、第一指揮権はないしね」
あらゆる面から研究してイタイイタイ病の原因はカドミウムではないのではないか、と学者がいうと「国をあげて公害と戦っているのに何たることをいう。そんなヤツは資本家の手先ダーッ」ということになる。
あらゆる資料を検討すると「百人斬りは事実でないのではないか」というと「日中友好に邁進しているのに何たることをいう、そんなやつは、右翼と軍国主義者の手先ダーッ」ということになる。
いつもそういうことになる。
そして、たとえ誤った公害判決が出ても、無実の人間が処刑されても、これまた常に責任者という者がいない。
確かにいないであろう。
だれ一人、命令権も指揮権もないから。
そしてこれは常に、大は大なり、小は小なり、社会のあらゆる面で見られることであり、この論法で平和論をやると、まさに「軍隊語で語る平和論」になってくる。
(次回へ続く)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P142〜】
昔から、日本の社会って「責任の所在」が曖昧なのではないか…と常々思っていたのですが、
山本七平はそれがなぜ起こるのかを実に見事に解き明かしてくれていると思います。
名目上の責任者と、実質の責任者とが別れているのは往々にしてあることですが、日本の場合はその傾向が特に強いように思います。
それはやはり、話し合いに基づく「和」絶対という”規範”に縛られ、「聖トマスの不信」を表明することが憚られること、そして話し合いの結果、(誰かが命令を下して結論を出したという形ではなく)自然と結論が出たという「形」に拘るために、責任の所在が曖昧になってしまうのではないでしょうか。
そうした傾向に二重の虚偽や軍人的断言法が加わったことが、戦前の日本を誤らせたわけですが、
山本七平が指摘するように戦後も大なり小なり同じような構図が繰り返されているわけですね。
それを避けるには、「聖トマスの不信」を犯してはならないという原則を大切にすることが重要になってくるのでしょう。
次回はその重要性について述べられた部分を紹介していきたいと思います。ではまた。
【関連記事】
・聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い・聖トマスの不信【その2】なぜ日本では、聖トマスが存在しないのか?・聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽・アントニーの詐術【その1】〜日本軍に「命令」はあったのか?〜FC2ブログランキングにコソーリと参加中!

「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:日本人論 - ジャンル:政治・経済
今日は、最近話題となっている大相撲のことについてつらつらと考えていきましょうか。
まず、
朝青龍の引退の件。
これは、まあやむを得ないだろうな…とは思った。
そもそも、日本人の相撲取りなら、もう既にニ・三度は引退に追い込まれていたくらい不祥事を過去にも起こしていたのだ。
しかしながら、今まで処分されずにきてしまった。
結局のところ、甘やかされていたといえる。
なぜ、甘やかされていたのか?
やっぱりその理由は、外国人力士だったということがあるのではないか。
外国人だから大相撲のしきたりもわからないだろうし、身内(日本人)じゃないから、言っても仕方ない…という意識が背景にあったのだろう。
次に、
大相撲協会の理事選挙の件。
TV報道を見て知ったのだが、今までの理事選挙が、事実上、誰に投票したか明白な公開投票だったことには、ビックリ。まるで旧ソ連の選挙のようである。
さすがに今回の理事選では、世間の注目を浴びた所為か、きちんと秘密投票の形態を整えていたが、おかげで裏切り者が誰かという犯人探し、そして、
安治川親方の引退騒動が起こってしまった。
こういう
大相撲協会の動きをみていると、やはり改革が必要なのではないだろうか。
そこで、改革すべきポイントは何なのか考えてみたい。
一番重要なのは、今まで慣習となっていた「しきたり」「不文律」を、はっきりと明文化することが必要ではないか。
特にこれだけ外国人力士が増えている現状では、過去のように日本人同士の通念というものが通用しない世界になっているのだから、外国人力士でも理解できるように、日本人力士が当然の如く従っている「行動規範」を明文化すべきだろう。
要は、品格、品格と言っているだけでは、通用しないんだな。
どういう行為が、品格があると言うことなのか、具体的に列挙してわからせるしかないんじゃなかろうか。
そのための「行動規範の明文化」なんですね。
そして、外国人力士を雇う際には、その「行動規範」に従うと宣誓させるなり、契約を結ぶこととする。
外国人力士を従わせるには、彼らの「契約」という概念に頼るしかないだろう。
何をすべきか、何をしてはならないのか。
そのことをはっきり明示した上で、それに従うことを承諾しないと力士としない、という風にしないと、また、
朝青龍のような事例が起こってしまうだろうし、厳しい処分が取れなくなってしまう。
明文化という対処を取りもしないで、どうせ身内ではない外国人力士にはわからないだろうから…という”思い込み”が、この問題の背後にあるような気がしてならない。
それが、外国人力士に対する「甘やかし」という状態を生み、今回の事態を招いたのではないだろうか。
これは、「身内」と「よそ者」という差別の一形態かもしれない。
差別はよくないが、そうした差別を潜在化させたままにするのではなく、その差別をはっきりと意識し、それに対応する「行動規範の明文化」という措置を講ずる必要があるんじゃなかろうか。
外国人力士を排除するならそうした措置は必要ないだろうけれど、これだけ国際化が進んだ以上、そうした手当てを講じない限り、今後も同じような問題に悩まされてしまうのではないかな。
余禄として、行動規範を明文化していく作業をすれば、今まで従ってきたしきたりが合理的な理由に基づくのか、単なる因習に基づくのかはっきり意識でき、取捨選択をすることができるようにもなるだろう。
これは何も、日本相撲協会だけに言えることではなく、否応無く国際化を迫られている日本人全体に言えることなのですがね。
今回の一連の騒動を見ていると、そうした問題が縮図として表れているような気がするんですよ。
なんだか、上手くまとまりませんでしたけどこの辺で。
駄文を考えるのにも、疲れますね。ふぅ〜。
今日はこの辺でオシマイ。ではまた。
【追記】
記事を挙げたところ、次のようなコメント↓を頂いた。以下、一部抜粋して引用する。
あなたは知っていますか??
大鵬、柏戸両横綱が拳銃密輸で書類送検されている事を。。
他にも過去の横綱は朝青龍の比にならないくらいの規模のスキャンダルをしていますが。。。 あいにくそうした事例は知らなかったのですが、そうした事例があったことを考えると、
朝青龍の事例は厳しすぎると言えなくもない。
これでは、外国人だから差別したのだ…という見方も否定できなくなってしまう。
今後は、どのような不祥事を起こしたかによって、処分を一律に下せるよう、相撲協会は基準を明確化・明文化する必要があるでしょうね。
そうしないと、やはり差別という指摘から逃れられないのではないだろうか。
FC2ブログランキングにコソーリと参加中!

「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:大相撲 - ジャンル:スポーツ
空自の次期輸送機試作機、岐阜基地で初飛行
1月26日17時29分配信 読売新聞ヤターッ!
まずはめでたい。
今後も順調に開発が進むことを祈って、youtubeを貼っておきましょう。
忙しいので今日はコレでご勘弁。
ではまた。
FC2ブログランキングにコソーリと参加中!

「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:うれしいニュース♪ - ジャンル:ニュース
以前の記事「
聖トマスの不信【その2】なぜ日本では、聖トマスが存在しないのか?」の続き。
今回ご紹介する箇所は、戦前の議会政治が、どのように天皇利用することによって崩壊したのかについて述べたところです。
(前回の続き)
そしてこの場合は、落ちていくのはもちろん与党だけでなく野党も同じである。
私は実は以前から、戦前、軍部や右翼が天皇を政治に利用したやり方が、この「二重の虚偽」の逆用だと思っていただけに、今回の野党の動き(註1)は、ちょっとショックであった。
(註1)…増原内奏問題(wiki)参照のこと。野党が、田中角栄内閣当時の増原防衛庁長官が天皇に内奏した際の天皇の言葉をマスコミに漏らしたことを咎め、天皇の政治利用を図ったと批判し、辞任に追い込んだ事を指す。
もっとも私は政治学者でないから、これは思い違いかも知れないので、専門の方に御教示いただければ幸いである。
というのは、「天皇を政治に利用してはならない」とは、何も戦後だけでなく、戦前もいわれたことである。
そこで「天皇を政治に利用した」という言いがかりを「政治的に逆用」して右翼と軍部は政治を支配し、その典型的な一例が幣原外相の辞任事件で、これが日本の破滅への第一歩だった。
そして彼らは常にこういう逆手を使いつづけた、と私は考えていたからである。
「天皇を政治に利用してはならない」ということを逆用して「政治に利用する」ことも、天皇を政治に利用するという点では変りがないからであり、ある面では、さらに危険だと思うからである。
従って今回の野党の動きは、かつての右翼や軍部と同じように私には見えた。
そしてそれが「利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽なら、その収拾方法もまた「あったこと」を「なかったこと」にする昔ながらの「二重の虚偽」による方法であった。
私の考えでは、以上のような意味において増原長官はやめるべきでなかったと思う。
そうしないとこれが先例になって、「天皇を政治的に利用した」ということを「政治的に利用」し(言うまでもなく、これも政治的利用である)次々と大臣が実質的に罷免されるのみならず、倒閣さえ可能だというようなことになれば、それは国会自身が、天皇を利用して自らの手で自らの首をしめることになるからである。
私は、戦前の議会は、つぶされたのでなく、上記のような過程で自壊し自滅したのだと思っている。
さらにまた、思い過ごしかも知れぬが、今回のことの背後には「天皇と軍部にはタッチできない」という戦前のタブーが、そのま裏返しになって登場しているように思う。
というのは、天皇との会話の話題がほかのこと(註2)だったら、こういう問題にならなかったと思うからである。――だが、以上は私の「感じ」にすぎない。
(註2)…この増原内奏問題は、昭和天皇の日本の防衛問題に対する発言を政治利用したと野党が攻撃したために起こったので、山本七平としては、天皇の発言が自衛隊以外の話題だったら問題視されなかっただろうと考えていた。
従って私の見方が誤っているのであれば、御教示下されば幸いである。
事実を事実でないと嘘を言えという。
次に嘘を言いましたという第二の嘘をついて、第一の嘘の責任をとってやめろという、そしてやめると与野党も新聞も、これで事件が落着したという。
しかし、これは本質的には今回の事件は事件の終りでなく、ここが事件のはじまりであろう。
そこで私は『百人斬り競争』の扱い方でも今回のこの扱い方でも、みなが終ったとしたところを出発点にしたい。
(次回に続く)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P140〜】
「天皇を政治利用してはならない」ということは、大抵の日本人には共通認識となっていると思いますが、「天皇を政治利用してはならない」ということを逆用して「政治に利用すること」については、それほど警戒していない人も多いのではないでしょうか。
戦前の議会政治を崩壊させる一因となった、この「逆用」について認識をあらため、同じような状態を再現させないよう努めることが重要なのですが、果たして今の議会人にそうした配慮があるかどうか…。
天皇の存在自体が政治的ですので、天皇の政治利用は避けられませんが、その利用にあたっては、伝統やしきたりを重視し、恣意的な利用と見做されないよう気をつけるべきでしょう。
要するに「天皇は政治の世界から敬して遠ざける」という意識を徹底するのが肝要ではないでしょうか。
そういう意味では、
小沢幹事長が引き起こした今回の習副主席との会見騒動は、いささか軽率な政治利用だったと言われても仕方がないでしょう。
次回は、マスコミの動きを例に挙げて、二重の虚偽がどのようなものか解説した箇所を紹介していく予定です。ではまた。
【関連記事】
・聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い・聖トマスの不信【その2】なぜ日本では、聖トマスが存在しないのか?・仮に天皇制が廃止されたとしたら、どのような混乱が起こるか?/フランス革命と第一次ユダヤ戦争を振り返るFC2ブログランキングにコソーリと参加中!

「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:日本人論 - ジャンル:政治・経済