一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「原発低濃度汚染水飲マシ」と「日本軍内務班の私的制裁/便器ナメ」に共通する「悪魔の論理」

もう何日か前の話になりますが、このニュース↓を見て、気分が悪くなってしまいました。

■フリーの記者から要望、処理した汚染水ゴクリ

まさか「ある異常体験者の偏見」の中で山本七平が指摘した「悪魔の論理」そのままの行為が記者会見上で繰り広げられることになるとは…!

「低濃度処理水を飲め!」と強要した記者本人は、単に「安全だと言うなら飲んでみろ!」という軽い気持ちだったのかも知れない。

ただ、「安全」と「飲食可」はまったくの別物だし、「飲め!」と強要している記者は、たとえ科学的に安全であろうが、生体実験が済んでいようが、自分では決して飲もうとはしないだろう。

つまり、飲まなければ「安全だとは言えない」という印象を与える事が出来るし、たとえ飲んだとしても単なるパフォーマンスだと非難の矛先を変えることもできるし、それで安全が証明できた訳でもないと開き直る事が出来る。
いずれに転んでも、相手を責めることが出来る訳だ。

結局のところ、この記者は「本当に心の底から安全を気にしている」訳ではなく、単に相手を非難する為の方便として使っているに過ぎないのだ。
真実を追求する為の行為ではなく、相手を追い詰める為の「虚偽」の行為。

なぜ虚偽であるのか。
それは(ここでは「安全=飲食する」という)基準を相手に強要しながら、自らはその基準に従うつもりが全くないから。
要はダブスタなんですよね。
それでありながら相手に反省を強要する。

そしてこの手法は、戦前より現在に至るまで相手に反省を強要する為の「手段」として愛用されてきました。
今日はその手段である「悪魔の論理」について、書かれた山本七平の記述を紹介していきたいと思います。


ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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■悪魔の論理

(~前略)

日本軍は去った。
しかし商業軍国主義者は残った

そして彼らは、その時その時に「時の勝者」を追い、自らを律する思想は常に皆無で、ただただ「時の勝者」を絶対化し、それによって自らをも絶対化し、その言葉の絶対視を強要することによって自らの言葉を絶対化し、それで他を規制し、規制に応じない者には反省を強要しつづけてきた

そして、この「時の勝者」を絶対視し、勝者を善、敗者を悪、と規定しつづけた「商業軍国主義」、そして虚報とアントニーの詐術の編集の詐術(註)で、常に勝者を正義化し美化し美談で飾り立て、それを基に常に「時の敗者」を糾弾しつづけてきたという図式は、自分の体験で判断する限り、この三十数年間、全く変化がないように思う。

(註)…拙記事「アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~」を参照のこと。

自己絶対化とそれに基づく反省の強要は、前述のように、相手を、自らのうちに自らの尺度をもつ独立した人間、すなわち対等の人間と認めないことだから、一種の実験動物視となり、従って精神への「生体実験」をしているに等しくなる

従ってこれがすぐに、肉体への生体実験へと転化しても不思議でない

生体実験とか、生体実験の強制といえば人は驚くであろうが、この「時の勝者の絶対化」に依拠する自己絶対化がつづく限り、そしてその媒体である商業軍国主義が存在する限り、過去に行われたごとく今後も起るであろうと私は思う。

軍隊の私的制裁に次のようなものがあった。

キサマ、これをきれいと思うか
ハイ
本当にそう思うんだな
ハイ
間違いないな
ハイ
じゃ、ナメてみろ」。

編上靴ナメ、タンツボナメ、便器ナメといわれた私的制裁だが、一種の生体実験である。

もし「いやだ」といえば、きれいでないものをきれいだと嘘をついたことを自認したことになる。
従って制裁をうけるのが当然ということになり「キサマア、ペロリしやがったな」となる。

その後は説明の必要があるまい。
そして制裁をうけるのは、受ける方が悪いのだから、制裁をうけた後なお「反省」しなければならない

それがいやならナメなければならない

最近ある人から、これに非常によく似た例を聞いた。

ある人たちが、ある会社の従業員に、カドミウム入りと称する水をコップに入れてつきつけ「飲メ」と迫ったという。

事実かどうか知らぬが、これも便器ナメと非常によく似た発想の生体実験の強要である

言うまでもないことだが、その便器がきれいかきたないか、あるいはその水が有毒か無毒かということ自体には、生体実験の必要ははじめから存在しないのである。

従って生体実験へと進む考え方の基本は、実験の試料――すなわち便器や水そのものとは別のところにあるはずである。

それはどこにあるのか。

それはある対象を絶対化し、それによって自己を絶対化し、従って自己の言葉を他を律する絶対の権威とする者が、その絶対性が、またそれに基づく反省の強要が、人命にも人体にも優先する絶対的なものであること、および、自分の言葉が前述の二重の裏切りとも言うべき虚構であることを隠して、これを誤りなき絶対の真実であると立証しようとする場合に用いられるのである。

従って、生体実験を強要する側には、必ず虚偽がひそんでいるといってよい。

これが非常に明確に出ているのが、本多勝一氏の『雑音でいじめられる側の眼』(イザヤ・ベンダサン著『日本教について』所収)であって、これは聖書に出てくる有名な『荒野のこころみ』といわれる寓話の中の、俗に、「悪魔の論理」といわれるものと全く同じ構造になっているから、両者を並べて少し検討してみたいと思う。

これは創作記事『殺人ゲーム=百人斬り競争』が、物理的にはじめから不可能なことではないかというベンダサン氏の問いに対して、本多勝一氏が非常に用心した言い方ではあるが、生体実験という発想で次のように応酬しているところである。

……このように当人たち(向井・野田両少尉)が死刑になったあとでは、なんとでも憶測や詭弁をろうすることもできますよ、いくら名刀でも、いくら剣道の大達人でも、百人もの人間が切れるかどうか。実験してみますか、ナチスや日本軍のように人間をつかって?

これは実に不思議な発想である。
便器がきれいかきたないかを調べてみるのに、生体実験という発想は全く不要であると同様に百人斬り競争』が事実か虚報かを調べるにあたって、生体実験などという発想は、はじめから出てくる必要も必然性もないのである。

事実、この疑問を提示したベンダサン氏であれ、この虚報を徹底的に調査した鈴木明氏であれ、二人を弁護した中国人弁護人隆文元氏であれ、生体実験などという発想ははじめから全く皆無であリ無縁であり、そんな発想がありうるということ自体が、想像に絶する実に奇怪なことなのである。

生体実験という発想があり、これをやれと強要しているのは、はじめから終りまで、実に、本多勝一氏だけなのである。

これは言うまでもなく「私の言うことを嘘だ、そんなことは出来るはずがない、と言うならブッタ斬ってごらんなさい――『ナチスや日本軍のように人間をつかって』できないでしょう。できないのは、あなたは自分か嘘をついていると自ら認めたことなのですよ。そうでないというならやってごらんなさい」という論理であり、前述の便器ナメとほぼ同じ論法である。

できない」といえば「それ見ろ、お前は嘘をついた、おれの言うことは絶対正しい、反省しろ」ということになる。

こうなれば自らは虚偽者として断罪されるだけでなく、虚報を事実と認め、従って二少尉の処刑を正当と認めることになる。

これは虚偽を事実と認証し、殺人に加担するに等しくなる

では「できる」「じゃやってみろ」となったらどうなるか、言われた者は生体実験という恐るべき罪をおかす――すなわち、どちらにころんでもその人間がおそるべき罪に陥らざるを得ないように追い込んでいく論法なので、古くから「悪魔の論理」といわれる有名な論理そのままである。

聖書において、この論理を解明した「寓話」を現代的に翻案すれば次のようになるであろう。

荒野のイエスに悪魔が言った。お前は神の救いを信ずるというがそれは嘘だろう。本当はオレの言うことが正しいと思っているんだろう。そうでないと言うなら、神殿の屋根からとび下りてみよ。神の救いがお前を支えてくれて、絶対に墜死もせず足も折れないはずだから。なぜしない、しないのは内心ではオレの言葉を絶対に正しいとし、それに従っている証拠だ

いうまでもなくこれは、それが正しいというなら自らの体で生体実験をしてみろ、しないならば、おれの言葉を正しいとした証拠だという論法である。

二千年の昔から、この言葉は、さまざまに外形を変えながら、自己を絶対化して、自己の基準で他を律し、それに基づいて反省を強要する者が、絶えず口にして来た言葉である。

便器ナメから汚水ノマシから、本多勝一氏の「実験してみますか……人間をつかって」まで。

それは民族により、宗教により、文化様式により、絶えず外形を変えながらも、言われつづけてきた言葉であった。
もちろんこれを口にしたという点では、キリスト教徒も例外ではない。

ただ彼らの言い方が、外形的には日本人とは違うことは事実である。
そして日本の場合は、これがほぼ常に、その時々の「時の勝者」を絶対化し、これを無条件で神格化し、その神格化によって自らを絶対化して反省を売る「商業軍国主義者」によって言われつづけて来たことに特徴があるであろう。

そして彼らの背後にあるのが、判断を規制して命令同様の力をもつ「軍人的断言法の直接話法」の「沈黙の話法」であった

すなわち、自らを本当に律している基準は絶対に口にせず、完全な一方的沈黙の中にあって、相手を、規定しようとする基準に合致するまで「反省しろ」「反省しろ」「反省しろ」……とせめたてていき、その精神の生体実験から肉体の生体実験へと進み、最終的には悪魔の論理で、人を否応なしにある状態――結局これは命令されたに等しい状態――に追いこんでいく方法であった。

そしてそれは昔も今も、新井宝雄氏の「反省が見られない」にはじまり、本多勝一氏の「実験してみますか……人間を使って」へと進んで行ったのである。

戦争中の生体実験の話を聞いたとて、それが特別に異状なことであったと考えてはならない。

またNHKのように「侵略戦争が人間を荒廃させたのデス」などといって、あれは、今の自分とは関係がない別の人間がやったことだという顔をしてはならない。

現にそれは堂々と口にされ、平然と活字になっているではないか――そして別にだれも、それを不思議としていないではないか。

否それどころか、それに、喝采を送っている人すらいるではないか。

それに喝采を送っていてどうして戦場の兵士を「獣兵」などといえるのか。
彼らは立派なデスクを前にした快適な落着いた雰囲気にいたのではない。

こういう恵まれた環境にいて平気で生体実験がロにできる者に、またそれに喝采を送るものに、彼らを批判する資格があるであろうか

【引用元:ある異常体験者の偏見/悪魔の論理/P126~】


先日、大学の友人と飲んで原発論議をした際に、「お前は福島に住んでみろ!」というセリフを散々言われましたが、こうした発想というのは、単に相手を倫理的に難詰したいが為の論法なんですよね。

そういえば、ちょっと前にも、プルトニウムの危険性は塩とさほど変わらないと主張した北海道大学の奈良林直教授がネットで散々叩かれていましたよね。

■【動画】坂本龍一氏「プルトニウム食べても大丈夫とか塩みたいなもんだとか言ってるけど、自分でまず食えよ!自分の子どもに食べさせてみろ!」

これ↑なんかも典型的な「生体実験の強要」ですよね。
確かに誰でもこのような反論が反射的に頭に思い浮かぶのはある意味仕方が無いのかもしれない。

ただ、山本七平も指摘しているように、科学的に安全か安全でないか調べるのに、人の生体実験は必要でない筈。過去のデータや動物実験等を通じて十分知見を得られる筈なのです。

したがって、そういった知見を全て無視して奈良林直教授を「御用学者」呼ばわりし、「プルトニウムを飲め!」と強要することには、「相手を倫理的に難詰する」以外に何の意味もありません。

こうやって専門家の意見を感情的に潰してきた結果が、第二次世界大戦のみじめな敗北につながった訳です。

少しでも戦前の愚行から教訓を得ようと思うならば「生体実験を強要する」思考様式が如何に危険であるかを認識し、そうした思考様式に陥らないよう努めるべきでしょう。

しかしながら、気安く「生体実験」を口にする者に、そうした過去の事実認識は全くありません。

そうした者達が口にする「反省」。

原発事故を契機として、頻出する「生体実験の強要」を見るにつけ、山本七平の「反省と言う語はあっても反省力なきこと」という指摘を改めて思い浮かべざるを得ないのです。


【関連記事】
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「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界、になりつつある日本

最近、ネット上においてデマや流言蜚語が飛び交っているなぁ…と思うことしきりなのですが、何故なのか、考えていてふと思い出したのが、山本七平の「ある異常体験者の偏見」の中の一節。

デマや流言蜚語に簡単に引っかからない為にも、その該当部分を紹介していきたいと思います。


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(~前略)

簡単にいえば、われわれは「社会的通念」というものを信じていれば、それで生きていける社会にいるわけである。

従って「世の中なぞ絶対に信じない」という人は本当には存在しないわけである。

なぜなら、そういう言葉をロにする人は、その言葉が相手に通ずることを、絶対に疑っていないし、この言葉には、みなが信じている「世の中」すなわち社会的通念が確固として存在していることを前提にしているからである。

ところが「戦場という『世の中』」は、何一つこういうものはない

特に分断され寸断されてジャングルにこもった小集団などには、基準とすべき通念などは全くなくなっている。

こうならなくとも、戦場では、「社会的通念」がないから通常の社会で使われている言葉が、使えなくなってしまうのである。

世の中が信じられないとは、本当はこういうことであろう。

簡単にいうと、われわれは「女の人が来た」という。

これに対して、「いやその言葉は正しくない。君が見たのは一つの形象であり、『女の人』というのは君の判断にすぎない。相手は女装した男性かも知れぬ。君がどう判断しようと相手の実体はそれと関係なく存在する。

また『来た』というのは君の推定であって、そう思った瞬間、相手は回れ右をして行ってしまうかも知れぬ。従って、そういう不正確な言葉は使うべきでない
」などといえば、全く閑人の無意味な屁理屈である。

しかし戦場では否応なしに、そういう言い方にならざるを得ないので、ここに本当に「世の中が信じられない」状態の言葉が発生するのである。

先日Aさんが遊びに来た。彼は時々戦争映画を見たり、戦争小説を読んだりして憤慨する。

憤慨するぐらいなら見たり読んだりしなければよいのだが、彼の場合は、憤慨するのが一種の道楽になっているような面もある。もっともこういう道楽の人は案外多い。

何でも彼が見た映画(だったと思う)では「敵が来た」と報告する場面があったのだそうである。

バカにしてやがる、そんな報告するわけネージャネーカ」といつものように彼は憤慨した。

確かにその通りで、こういう場合は「敵影らしきもの発見、当地へ向けて進撃中の模様」という。

確かに彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応「敵影」らしいと判断し、こちらへ来ると推定したにすぎないわけである。

そして対象はこの判断とは関係がないから、味方かも知れないし、別方向へ行くのかも知れない。

しかし、だからといって一般の社会で、「女の人が来た」といわずに「女影らしきもの発見、当方へむけて歩行中と判断さる」などといえば、それは、逆に頭がおかしいと判断されることになろう。

そしてそのことは逆に「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界とはどんな世界なのか、さらに現実にその世界に生きるとは、一体どういう状態なのかが、今の人には全く理解できなくなったことを示しているといえよう

しかし少なくとも外国で何かを判断する場合、また外国を判断する場合は、この心構えが必要であろう。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の偏見/鉄格子と自動小銃/P177~】


今まで信じられてきた社会体制が崩れて、価値観が乱れて混乱した社会においてデマや流言蜚語が飛び交うのは、やはりこの「社会的通念」がなくなってしまうからなのでしょう。

そういう意味では、今の現状はかなり憂慮すべき危うい状態ではないかと思います。

山本七平は「外国を判断する場合はこの心構えが必要」と説いていますが、いまや日本国内の事象を判断する場合も必要とされるのではないでしょうか?

そう思えてならない今日この頃なのです。


【関連記事】
◆「事実の認定」を政治的立場で歪める人たちがもたらす「害悪」とは?
◆日本的思考の欠点【番外】~日本陸軍の特徴と「虚報」作成の一例紹介~
◆日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~

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「事実の認定」を政治的立場で歪める人たちがもたらす「害悪」とは?

最近の原発を巡る論争を眺めてて、非常に気になるのが「自分の主張に不都合な事実は認めない」という態度ですね。
実はこれが、どれだけ深刻な問題を惹起しているのか。

今日は、それを判り易く指摘した山本七平の記述を紹介していきたいと思いますが、ご紹介する部分の記述の前段を、過去記事でご紹介していますので、まずはこちら↓をお読みいただいてからの方が判り易いかも知れません。

◆「神話」が「事実」とされる背景


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■横井さんと戦後神話

(~前略)

神話というものは、それくらい強力な浸透力をもつものなのである。
そしてひとたびそれが浸透してしまうと、もう動かせなくなる。

すべての人は、自己のうちなる神話に抵触しまいとして、どうしても触れねばならぬときは、「われらのうちなる横井さん」のように語るか、大体そこは避けてふれない。
そしてその神話が事実でないことを知っている人自身が、率先して、その神話を事実だと証言する

どうしてこうなるのか。
否これは人事ではない。

私自身が、やはり、「戦後神話」に抵触するときは、それをロにするとき何か「決心」のようなものがいるのである――全く戦前と同じように。

「決心」がいるということ自体が、私の中にも「われらのうちなる横井さん」がいて私を制止しており、私がそれを振り切っているはずなのである。

なぜそうなるのか。
いまは軍部が言論統制しているわけではあるまい。
それならなにが私にそういう「自主規制」を強いるのか。

戦争中日本軍が行ったさまざまの残虐行為は、ほぼだれの耳にも入らなかった。
だれもロにしなかった。


それを知っているはずの人が真先に否定して神話を事実だといった
これは言論統制のゆえであろうか。
軍部の横暴のゆえであろうか。

「軍部」とするのはおそらく「戦後神話」であって、事実は、このことを口にさせないために、何らかの「権力」が介入する必要はなく、おそらく介入の余地もなかっただろうと私は思う。

というのは、そんなことはしなくても、その事実を知っている人間が、真先に神話を事実だと言って、逆に事実を否定したに相違ないからである。

というのは、横井さんの発言の背後にだれかがいて、あのように語れと統制しているわけではないからである。

私にそのことを考えさせたのは、『海外評論通信』という定期刊行物のある記述であった。
この社は元来は版権代理店であって、海外の出版社の「新刊情報」を知らせてくれる、いわば私の取引先である。
従って新刊情報以外にあまり興昧はないのだが、何気なく通読しているうちに、思いもよらぬ記事につきあたった。

それは南ヴェトナムのビン・ディン州北部三地区を、北ヴェトナム軍とヴェトコンが占領している間に、どのようなことが行われたかを、アメリカ・南ヴェトナムの合同調査班が、六十七名の男女に長時間面接調査し、うち四十四名の談話をテープに記録したその記録の一部である。

公開処刑・大量虐殺、恐ろしい虐殺死体の下で血のため窒息しそうになりながらかろうじて逃げ出して来たゴンという男の話――私はこの記述が事実かどうか知らない。

いま私か問題にしたいのは、そのことてなく、この記述への私自身の態度である。

このことは日本の新聞には一切出ないであろう

それはそれでよい、戦争中も、日本軍による同じような事件は一切出なかったのだから、今さらそれを異とする必要はあるまい。

また現地の実情を知っている人は、これを「事実」だと判断したらその瞬間に逆にこれを否定し、神話を事実だというであろう。
それもそれでよい、今さら、そうしてほしくないなどとは言わない。

私か問題にしたいのは人事ではない。
私自身のことなのである。

私自身がこのことに触れるのに、一種の「決心」がいるのである。

何かが、いや何かではない、「われらのうちなる横井さん」が私に、「それには触れるな。それは『戦後神話』に抵触する。神話に抵触すると、どんな大変なことになるか、戦前の体験でお前はよく知っているはずではないか」と囁くのである。

今は確かに民主主義の時代なのである。
言論は自由なはずである。
そしてこれは外国の事件にすぎない。

それですら一種の「決心」が必要とあっては、これが日本軍のことで、しかもそれが戦時中であれば、統制などはしなくてもだれも触れまい――触れろと言われても触れまい。

今ですら「神話の軍隊」なら、それが何をしようと絶対にだれも触れないのだから。
否、他人のことはどうでもよい、私白身が触れたくないのだから。

一体なぜか。
何かこわいのか。

これらのことは一体何に起因するのであろうか。
一体なぜ「われらのうちなる横井さん」が絶えず私に囁くのだろう。

いろいろな理由があると思うが、その一つと思われることを記したい。

前に私は、日本が満州事変から太平洋戦争に道んだ道程にも、新井宝雄氏の考え方にも「是・非」と「可能・不可能」の判別がつかない点に問題があるとのべた(註)

(註…過去記事「日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~」参照のこと。)

同じような視点で今の問題を取りあげれば、それは「事実の認定」と「思想・信条」とは関係ないということ。
これが理解されていないということであろう。

ロマン・ロランの『群狼』は、この問題をも取りあげている(と私は思う)が、たとえ自分が断固たる共和党員であり、陥れられたのがにくむべき王党員で、陥れたのが自分の同志の共和党員で、しかもそれが戦闘中で、その共和党員が戦勝のため不可欠な人間であり、さらにもし事実を証言してその共和党員を告発すれば逆に自分が孤立するとわかっていても、「事実は事実だ」と断言できるかどうか、という問題であろう。

こういう戯曲が書かれたということ自作が、この問題はわれわれだけの問題でなく、私などには到底論じ切れない人類永遠の問題なのかも知れない。

だがそういうむずかしいことは一まず措くとして、非常に浅薄な面でこの問題を取りあげるとすれば、過去において日本を誤らした最も大きな問題点は、ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とみた点であろう。

だがそうすると、事実を歪曲することが、正しい人間の正しい態度だという、実に奇妙なことになってしまい、これを避けることができず、そしてそれを重ねて行くと対象がつかめなくなるという結果に陥ってしまうことである。

ロランの指摘の通り、王制を糾弾することは、ある事実を曲げて故意に誤認を強要し偽証せよということではない。
それをすれば、自らが糾弾さるべき王制以下になってしまう。

そういう倫理的な問題は別としても、ある事実は目前につきつけられてもこれを認めず、それに対立する事実は針小棒大にし、そうすることを、一種の正しい態度乃至はその人間の思想・信条の表白としていくと、最終的には自らの目をつぶし、自ら進んでめくらになるという結果になってしまうのである。

その態度を外部から見れば、ただただ異常というほかはないであろう。

在米の藤島泰輔氏はアメリカにいてある日本の週刊誌を読んだ読後感を『諸君!』に次のように記している。

最近、ある日本の週刊誌が『現代アメリカのすべて』という増刊号を出したが、それを一読したとき、私は腹を立てるよりも先に呆然としてしまった。
その中に銀座三越前で街頭録音をした『アメリカってなんだろう』というページがあった。

答えている通行人はほとんどがアメリカを知らないのだろう。

「生産性のない国、といえるんじゃないの(25歳、会社員)」
「最近は何となくイメージかわりましたねエ。昔は富める国だったのに、今では日本の鼻息うかがってるんてすってねエ(35歳、主婦)」
「破滅寸前の国じゃないか。ヴェトナム戦争の終結ぶりを見たってわかる。なにも日本はノコノコ追随して行くことはないよ(21歳、早大生)」
「めちゃくちゃな国ですね。日本をもっとひどくするとあんな感じになるんじゃないかな(20歳、立大生)」


生産性がなく、日本の鼻息をうかがっている、破滅寸前の、めちゃくちゃな国、と、この四人の日本人のいっていることを要約するとそうなる。
日本は言論自由の国だから、何をいうのも勝手なのだろうが、これは少々行き過ぎではないか。

現在の日本と比べたら落ちるだろうが、アメリカの生産性はなお世界有数である。
日本の鼻息をうかがっているなどといったら、ワシントンの大統領側近は抱腹絶倒するだろう。

破滅寸前、めちゃくちゃな国に至っては、アメリカを知らぬにもほどがあり、こんなことをいう人間が最高学府に籍を置いているとは何としても信じがたい。


「信じがたい」ことが常に起るのである。
私はその昔、この「怒るより呆然」とした顔を何度も見た。

私のいた学校では、多くの教師や講師がアメリカに留学していた。
そして日米関係悪化とともに続々と帰って来たが、故国日本の人びとの対米認識を見て、みなただただ「呆然」としていた

F教授が、勇敢にも全校生徒を集めて、講演をした。
しかし一回でやめた。

私はその理由をきいた。

同教授はさびしそうに「何をいっても『アイツ、カブレて来やがった』でおしまいになるなら話っても無意味だ」と。
そしてそのことは、今では、横暴な軍部の言論統制のゆえだとされている。

では一体全体、今でもどこかに軍部がいて、それが言論統制をしているが故に、藤島氏がかつてのF教授たちのように「怒るより呆然」として「信じがたい」と言っているのであろうか。

昔も今もそうではあるまい

では、新井宝雄氏のいわゆる「一握りの軍国主義者」が昔も今も全日本人をだましているのか。
これもまた、そうではあるまい。

ヴェトナム戦争におけるアメリカを非難するということは「アメリカ弱体グロテスク神話」を事実だとすることではない
戦前の日本人はこれをやった

そして「われらのうちなる横井さん」は、すぐさまその神話を事実にした。

そのためにアメリカという対象は歪曲に歪曲を重ねられ、ついに、正確にこれを把握することがだれにも出来なくなった
おそらく今と同じような状態で、そこで「破滅寸前の国」だから、真珠湾を叩けばつぶれてしまうであろう、というわけだったのだろう。

事実を知っている人はいた。

しかし神話と抵触する事実をロにすれば、それは、「米帝の手先」ということになり「億八分」になるから、「事実」を知っているものの方が、前述の「嫌疑」をうけないため、横井さんのように率先して「アメリカ破滅寸前国神話」を口にしたのである。

アメリカ留学が長く、同地を実によく知っているがゆえに、戦後「教職追放」になったある教授を見ていると、私は「われらのうちなる横井さん」を思い浮べないわけにはいかない。

そして、そうならない人は沈黙していたのである。

「事実の認定」を政治的立場で歪めることをロマン・ロランは最大の不正の一つとした
確かにその通りであろう。

そしてこの不正を重ねていくと、対象をゆがめることによって、前述のようにいつしか逆に自分が盲目になり、破滅へと進んでいく
われわれはまた相当に、その方向へと進んだようである。

一度踏みとどまってみよう、問題はおそらく、簡単なことにあるのだから。

この問題を最も単純な図式にすれば、それは見たことは見たのだ、間いたことは聞いたのだ、白かったら白かったのだ、排尿したら排尿したのだ、――そこにあるのは音と色と形象と生理現象であり、それらはすべて「人間という生物」の営みであり、その人間がどういう思想をもとうと、あったことはあったのであり、それはだれにも消せないという、ただそれだけのことなのである。

われわれはそれを感覚した、感覚し終って過去になってしまったものは、もはやわれわれの力で現実の世界に再構成できるわけはない。
自分の意思通りに世界を再構成できる者がいれば、それは、「神」であって人ではあるまい

そしてこれが出来たと思ったときに、その者は実は自らを盲目にしているのである。
おそらく、基本的には、それだけのことなのである。

(終わり)

【引用元:ある異常体験者の偏見/横井さんと戦後神話/P257~】


上記の記述を読むと、最近の日本の言論空間状況を端的に指摘しているとしか思えませんね。

「事実を事実だ」と述べることに「決心」が必要とされる日本の言論空間。
それはつい最近「100msv以下は健康に問題がない」とアドバイスして叩かれた山下教授の例をみても何ら変わっていないことが明らかです。

なぜ日本には言論の自由がないのか?
なぜ発言に「自主規制が強いられる」のか?

その原因の一つとして、日本人が「事実の認定」を政治的立場で歪め易いからでは…と山本七平は指摘しているのですが、なぜ日本人は歪める傾向が強いと言えるのでしょうか?

空気に支配され易いからかもしれない。
それではなぜ空気が支配してしまうのか?

愚考するに、これは日本人の欠点である「情緒過多」が一因ではないでしょうか。
幾ら冷厳な事実であってもそれが「正視に堪えない」ものであるのなら、それを突きつけるものが「人でなし」とされがちな社会ですからね。
日本社会は「感情優先」で物事が判断される社会であることが作用していることは間違いないでしょう。

このように「情緒過多」になってしまうのも、とにかく純粋であることを良し!とする日本人の「純粋信仰」が大きく影響しているような気がします。
動機さえ純粋であれば過程や結果は問わない傾向が、事実を歪め、白を黒と言わない者を排除する日本社会につながっているのではないかと。

3.11以降、東電や政府の隠ぺい体質が非難され、その原因として原子力ムラとか記者クラブとかが「諸悪の根源」のように槍玉に挙げられていますが、それはおそらく本質を外れた的外れな非難だと思います。

本当の原因はおそらく「ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とする」日本人の傾向そのものにある。
それが時には排除を生み、言論の自由を制し、そのためには隠蔽だろうが口封じだろうが許されてしまう。

それを打破するにはどうしたらいいか?
それはやっぱり、皆が「自分の主張に不利な事実でも、事実として認める」姿勢を取る以外にはないのだろうと思います。

それが出来ずこのまま情緒優先で流されていくのであれば、いずれ第二の敗戦は必至でしょう。
間違いなく、今の日本はその方向に一歩近づいています。

それを止めるには、ホンネが許されるネットがキーになるんじゃないでしょうか。
そういう意味では、私は密かにネットに期待するところ大なのであります。

相変わらずまとまりませんが、この辺で。
ではまた。

【関連記事】
◆感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~
◆「神話」が「事実」とされる背景
◆日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~」


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補給低能の『日本列島改造論』的作戦要綱&「長沼判決式民衆蜂起・竹槍戦術」的発想が日本によみがえる

ちょっと前になってしまいましたが、菅首相の空疎な「脱原発宣言」を聞いて、ひょっとしたら日本は戦前同様の過ちを犯しつつあるのではないか…という不安がよぎりました。

戦前、なぜ日本がアメリカに無謀な戦争を挑んだのか、ちょっとでも鑑みればエネルギー問題がその一因であった事は歴史を少しでも顧みれば高校生でも理解できる筈。

ところがそういった懸念に全く答えず、何の代案も提示しないまま脱原発を唱え出す場当たり的な無責任さにはほとほと呆れ返らざるを得ません。
軽い首相の言動には耐性が付いてきているとはいえ、くらくらと眩暈がします。

ところが「平和を愛する」左翼連中といえば、流石に菅首相に不信感を抱きつつも、脱原発宣言そのものについては歓迎しているご様子。

勿論、彼らの「放射能怖い病」の心情はわからなくもありませんが、やはり脱原発を最優先にしている処を見ると左翼連中に日本は任せてはならないなぁ…と改めて痛感します。

普段あれだけ「平和を守れ」とか「戦前を反省しろ」という左翼が、戦前同様の状況を作りつつある現実。
まさに山本七平が指摘する「反省と言う語はあっても反省力無きこと」がズバリ当てはまりますよね。

さて、そんな日本の状況を見て、思いだした山本七平の記述を今日は紹介していこうと思います。
今の日本の言論空間を見事なまでに言い表している箇所だと私は思ってます。
ある意味、預言的とすら言ってもいいかも知れません。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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■一億人の偏見

この連載をはじめて一年近くになるが、今になってみると、ちょっと奇妙な感慨を抱かざるを得ない。

というのは、日本という国は近代戦を行いうる体質にないとか、食糧・石油が最大の武器で、封鎖でそれをストップさせられれば日本はパニック状態になり、アパリの地獄船(註1)を再現するだろうとか、長沼判決(註2)の「民衆蜂起」などは夢物語で蜂起したくても相手がどこにもいないだろうとか、「是非」以前に「可能・不可能」を考えねばならぬとか、こういったことを、一生懸命言わねばならなかったことが、まことに不思議な気がしてくる。

(註1)…フィリピンで捕虜になった山本七平が戦犯容疑者としてアパリ港からマニラまで回漕された際に乗った船。食糧の配給がなかった為、捕虜達は飢餓に苦しんだ。
(註2)…長沼ナイキ事件(wiki)参照


これはちょうど、太平洋戦争中に、同じようなことを一生懸命言っていたところが、終戦になると、不意にみながケロッとして、「そんなことは、はじめからわかっていた」と言いだした時が、一瞬、再現したような感じである。

なぜこういうことになったか。

いろいろな理由があると思うが、その一つはヴェトナム戦争における報道の歪みであろう。
前にのべたように、アメリカが正しくないということは、戦争の実態を歪曲してよいということではない

日本の報道で完全に欠落していたものの一つが、北ヴェトナムヘの補給の問題である

今のマスコミも昔の大本営および戦争中の新聞同様「補給低能のわけで、報道だけではまるで北ヴェトナムが無補給かつ「独力」で戦っているかのように見える。

そのために日本軍と比較したさまざまな珍説が現われ、一度それらをまとめて私の「偏見」をのべようと思っていたが、もうその必要はないであろう。

紙不足の折(註3)から余分なことを言わないですむのは、大変に結構なことである。

(註3)…石油ショックの影響による。

戦場への補給、特に制空権なき場合の補給は想像に絶するロスを伴うもので、兵士一人あたり十トンの補給をしても、果してそのうちの1トンが前線までつくかどうか不明である。

先日「大本営はこれが全然わからなかったのだなあ」と会田雄次氏が言われたが、私は「今の新聞も全く同じだなあ」と歎ぜざるをえない。

ソヴィエトがオデッサから喜望峰経由、またシベリア鉄道経由で、いわば地球を半周するような長距離輸送で、火砲・鉄砲弾・ミサイル・ミグ・トラック・ガソリンまでをハノイまで補給するとなると、その負担は、到底長期間耐えうるものではない

しかもそのうち何割が前線につくかわからない。
恐るべき消耗、しかしこれをとめれば前線は崩壊する

日本軍であれ北ヴェトナム軍であれ、ガソリンの一滴は血の一滴である。

人海作戦を「高く評価」し、それで補給問題が本当に解決できると信ずる人は、石油不足が叫ばれている現在の日本は、それを適用する好機のはずである。

すぐに具体的計画を立てて、自分の所属する機構で実施してみていただきたい。
私はその計画を立てさせられた経験がある。
一個師団一万五千人の人海輸送力がトラック(ニトンづみ)二十台の能力に及ばないのである。

私は朝日新聞の昭和三十三年十月二十三日付夕刊の『中共の輸送力』という中国の人海作戦を高く評価したコラムに対して、以上の自分の体験に基づく「偏見」をのべようと思っていたが、その必要ももうないであろう。

私は、「機雷封鎖」は米中ソが事前に打合わせをした芝居だと思っている。
というのは、当時すべての専門家が指摘した通り、本当の機雷原を作ったわけでなく(日本軍の機雷原ですらもっと立派である)、あの程度のことで封鎖できると思っているなら「ニクソンはどうかしている」はずだからである。

結局、ソヴィエトが補給をやめる大義名分を、キッシンジャーがつくってやったわけであろう。
そしてアラブ問題も石油問題も同じようなことであろう。

しかし日本では、新井宝雄氏のように「強力な武器対民衆のエネルギー」式の大本営的・竹ヤリ戦術的図式でヴェトナム戦争を見ていた

そして、結局それを日本にあてはめれば長沼判決的発想となり、

「勝った――度の強いメガネの福島裁判長が『自衛隊は陸海空軍であり違憲である』と静かに読み下したのだ。
札幌地裁の周囲を埋めた約五百人の支援団体の赤い旗、青い旗がゆれた。
平和憲法のいのちがよみがえった喜びだ。
ドッという歓声が秋の訪れを告げる澄みきった七日の北の青空につきぬけた」


となったわけで、これもある一時代の決算書であろう。
もっとも今では、この記事を書いた本人がケロリと忘れているだろう。

ただここで一言だけ言い添えておけば、長沼判決の前文(註4)には恐怖すべき嘘が隠されている。


(註4)…〔長沼事件第一審〕札幌地方裁判所昭和48年09月07日判決HP参照。以下抜粋↓。

■四、自衛権と軍事力によらない自衛行動

(~前略)

しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。すなわち、まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といつた国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立つてはじめてその目的を達成できるものである。

(~中略~)

そしてこのような立場に立つたとき、はじめて国の安全保障の手段として、あたかも、軍事力だけが唯一必要不可欠なものであるかのような、一面的な考え方をぬぐい去ることができるのであつて、わが国の憲法も、このような理念に立脚するものであることは勿論である。

そして、このような見地から、国家の自衛権の行使方法についてみると、つぎのような採ることのできる手段がある。

つまり〔証拠省略〕からは、自衛権の行使は、たんに平和時における外交交渉によつて外国からの侵害を未然に回避する方法のほか、危急の侵害に対し、本来国内の治安維持を目的とする警察をもつてこれを排除する方法、民衆が武器をもつて抵抗する群民蜂起の方法もあり、さらに、侵略国国民の財産没収とか、侵略国国民の国外追放といつた例もそれにあたると認められ、また〔証拠省略〕からは、非軍事的な自衛抵抗には数多くの方法があることも認めることができ、また人類の歴史にはかかる侵略者に対してその国民が、またその民族が、英知をしぼつてこれに抵抗をしてきた数多くの事実を知ることができ、そして、それは、さらに将来ともその時代、その情況に応じて国民の英知と努力によつてよりいつそう数多くの種類と方法が見出されていくべきものである。


それは民衆の自然発生的蜂起とゲリラとははっきり別であり、ゲリラとは最もよく訓練された完全に組織的な軍隊だということを、歪曲している点である

ゲリラを軍隊でないというのは、自衛隊を軍隊でないという以上の脆弁である。
また補給を断たれると急速に壊滅してしまう点でもゲリラはいわゆる正規軍同様である。

そしてゲリラならぬ本当の自然発生的「民衆蜂起」と正規軍との衝突とは、人間の想像しうる最も残虐な地獄絵であり、ナポレオンのいわゆる「榴散弾一発で終る」のである。

これとゲリラをわざと混同して人を欺いてはならない

そしてその地獄絵を出現さすことが、朝日新聞によれば「平和憲法のいのちがよみがえった喜び」だということになるわけだが、これは、新憲法発布時に、われわれが全く想像もしなかった帰結である。

新憲法はそういうことが二度と起らないよう、過去の苦しい体験から生み出された締結のはずである。
だが有難いことに、それらは判事と記者の妄想で終るであろう。

幸いその前に、民衆は、トイレットペーパー目かけて蜂起したから――しかし笑いごとではない。
これが食糧だったら一体どうなるのだ

だが前記のような妄想や「アメリカ破滅寸前国神話」を各人の頭から払いのけ、広い意味の補給がなければ、軍隊のみならず日本そのものが生きていけないことを実感させて、奇妙な扇動記事に踊らされることなく、将来を直視しうる醒めた状態をつくり出してくれたという点では、石油危機は大変に有難い警告であった。

だが、有難い警告はしばしば逆作用した
ノモンハン事件もそうであったし、独ソ不可侵条約締結もそうであった。

どうしてそうなるのか。

補給低能」は何もマスコミ・竹ヤリ・民衆エネルギー蜂起派の独占ではなかった。
保守党の政治家も同じである。

日本列島改造論』というのが、これまた大本営の作戦要綱の如くに「補給無視」なのだが、これがわずか四百日前にベストセラーで大喝采をうけていたのだから、ここに保守・革新を問わず、共通的に「ある視点が欠落した」発想があり、共に不可能なことを可能と妄想していたことが明らかになったわけである。

そしてこの二つがいっしょになり、そして前述したような形での歪曲をかさねたため、自らが盲目になって対象が見えなくなると、大体、太平洋戦争勃発時と同じことになるであろう。

奇妙なことに、犬猿のようだったはずの「革新派と財界」または「青年将校と財閥」が、ある一点で、急に「意見の一致」を見ることがある。

すると国内に一切反対はなくなる
そうなると、前にも記したように、その道を進むのが最も「安易な道」なので、政府はその方向その方向へと行く

警告が逆作用したのはおそらくそのためで、ちょうど補給低能の『日本列島改造論』的作戦要綱と「長沼判決式民衆蜂起・竹槍戦術」的発想がいっしょになったような形で進み出すと、とまらなくなる

一切ブレーキがない

何しろこの警告を基にすれば、共に「同罪・同責任」だから、だれもその「警告的状況」を基にして政府を批判する者がなくなるのである。

すると、逆に、その「警告的状況そのもの」が打倒すベき「悪玉」にされてしまい、それと戦うべきで、そう考えない者は「敗戦主義者」だということになってしまうわけである。

すると阻害する「悪玉」はだれか、ということになる。

あるミニコミ紙に「イスラエル悪玉論」がそろそろ出るはずだ、と予測された方がいたが、昔はこれが国外では蒋介石の中国政府で、それが悪玉で「暴支庸懲」となり、ついてそれを支援する英米ということになり、一方国内では、神話を事実だといわない者は全部「悪玉」ということになり、そして戦争が終れば、こんどは軍部または新井宝雄氏のいわゆる「一握りの軍国主義者」が「悪玉」となり、そして常にそれらを悪玉だといわない人間は非国民とされたわけであろう。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の体験/一億人の偏見/P264~】


反原発派の主張が、いわゆる「補給低能・兵站無視」である事は論を待たないと思います。

「原発がなくても電力は足りる」という主張を見れば、その殆どが現時点での資源輸入の条件が不変である事を無言の前提としていますし、自家発電などの電力源がそのままフルに活用できると思い込んでいる処などは、戦前の日本軍の宿痾だった「員数主義」そのものです。
そしてピークをカットすればいいのだという聞こえのいい主張などは、その基底にバックアップの大切さという考えがかけらもない事を示しています。

しかしながら問題の本質は、彼ら左翼だけではなくそれ以外の人達にもこの「補給低能・兵站無視」の傾向が窺えること。
一例を挙げれば、大阪府の橋下知事やソフトバンクの孫社長の言動などを見てもそれは明らかでしょう。

要するに今の日本人は、右も左も押しなべて「補給低能」なのです。
こうなってしまったのも、戦後、日本が日米同盟に頼りきり、自らの「兵站」について真摯な検討を怠ってきたからでしょうね。
戦前を反省するならば、まさにこの点である筈なのですが…。

「補給低能」な日本人によって「脱原発」が日本人の総意となりつつあり、それに異論を唱えることは少なくとも政治家レベルでは落選を覚悟しなくては言えなくなってしまった現状は、山本七平が指摘するところの「一切ブレーキがない」状況に陥りつつある。

誠に憂慮すべきことでしょう。

実際、右も左も「電力危機」そのものが「電力会社による陰謀だ」と非難している様は、まさに「警告的状況そのもの」が打倒すベき「悪玉」にされてしまっている状況。

それに異論を唱えるものは、戦前は「非国民」とされた訳ですが、今ならさしずめ「人でなし・人非人」でしょうか。

私も「プルトニウムを飲め」とか「原発建屋に住め」とか「子供に福島産の農産物を食わせてみろ」とかツイッターで何度かいわれました。その発言の裏には「お前は命よりカネを大事にする人でなしだ」という意図が感じられてなりませんでした。

余談ですが、先日(枝野官房長官の地元後援会に入っている)大学時代の友人と飲んだ際、放射能論議になったのですが、その時も「お前は福島に住んでから言え!」とか、「子供に福島産野菜を食べさせられるのか!」といったテンプレどおりの難詰をされてしまいました…orz。

願わくばこの程度の罵倒や難詰でヒステリーが治まってくれると良いのですが。
警告が逆に作用しないことを祈るのみです。

しかし、日本人の過剰な情緒主義は困り者ですね。
「情緒多過」と「補給低能・兵站無視」というのは密接に結び付いていますが、痛い目に遭う前に、これを分断する方法はないものかなぁ…。


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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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