一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

書評/笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』…を斬る【その1】

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ
(2008/06)
笠原 十九司

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そもそもこの本を読むことになったのは、「Apes!Not Monkeys!はてな別館」のブログ主Apemanさんとの論争がきっかけでした。

Apemanさん曰く、

被告の本多勝一氏を含む研究者らは両少尉の「百人斬り」の多くが実態としては「据物斬り」であって白兵戦での成果ではない、ということを明らかにしてきた。

【引用元】産経新聞の「捏造」


とご自分のブログで主張していたので、”本多勝一氏を含む研究者ら”によって明らかにされたという内容を教えて欲しいとコメントしたところ、教えてもらったのがこの本でした。

なぜそうしたコメントを入れたかといえば、理由が二つ。

まず、向井・野田両少尉による「百人斬り」競争の事件については、山本七平が「私の中の日本軍」で取り上げ、様々な角度から徹底的に分析しており、この事件が新聞記者の虚報による虚偽であることを既に明らかにしていたはずだ…と考えていたこと。

二つ目には、百人斬り競争が虚偽ではなく「据え物斬り」であったなどという事実が”いつ”明らかになったのか知らなかったからでもあります。

上記の理由からこのような質問したところ、まぁ、いろいろとやり取りがあったのですが、つまるところ、Apemanさんらが、「百人斬り競争が据え物斬りであって、百人近い捕虜を斬殺した虐殺行為」が”明らか”だとした自信満々に断定した根拠は、この本にあったわけです。

そこで早速地元の図書館でこの本を借りてきました。

初版が2008年6月。著者は笠原十九司氏。都留文科大学教授だそうです。
章立ては次のとおり。

はじめに
第一章 「百人斬り競争」を生み出した戦争社会
第二章 「百人斬り競争」の傍証――日本刀と軍国美談と国民
第三章 「百人斬り競争」の証明(1)
第四章 「百人斬り競争」の証明(2)
補論  「百人斬り競争」はなぜ南京軍事裁判で裁かれたのか
おわりに
あとがき


前書きを読むと、笠原氏が本著を著した動機は、次の二つだそうです。

・中国では南京大虐殺を象徴する残虐行為である「百人斬り競争」が、日本においては教えられることもなく忘れ去られつつあること。

・南京事件否定派が起こした「百人斬り競争」名誉毀損裁判において原告敗訴したのにも関わらず、マスメディアによりその後も「百人斬り」競争が否定され続けていること。


そして笠原氏自身の筆を借りると、「百人斬り競争」の史実の確定に挑戦し、”歴史学の立場”から一つの決着をつけておきたい…との目的でこの本を書かれたそうです。

そこまで言うからには、さぞかし文句の付けようのない新事実でもあるのだろう、と思ったんですが……。
その期待は見事に裏切られました。

結論から申しますと、新事実など目新しいものはまったくないと言ってよいと思います。
都合のよい資料を集めて組み合わせ、とにかく「百人斬り」が可能であったということを証明しようと努力しているだけなのです。

まず、驚かされるのが、笠原氏が戦前の新聞報道を全く疑っていない姿勢を取っていることです。

戦前報道された「OO人斬り」という記事をたくさん提示して、こういう報道が山のようにあったのだから、現実にもそれに等しい行為があったに違いない…と決め付け、ツユほども疑っていないのです。

笠原氏は、当時の新聞報道が(事実を報道するのを目的としていたのではなく)戦意高揚・宣伝宣撫を目的としていたことを全く無視しています。

そもそも「OO人斬った」という表現は、戦果を示すだけのマスコミならではの表記(ものの例え)にすぎないと考えるのが妥当です。

当時の戦場の実態に照らせば、銃撃や銃剣による攻撃で敵を倒したものが殆どであって、日本刀でバッタバッタと戦場で敵兵を斬り倒したなどということは有り得ません。
(このあたりの「報道表現」については、過去記事↓にて、山本七平の解説を紹介しているので参照されたし。)

【参考記事】
・名文章ご紹介シリーズ【その9】~百人斬りが通用する背景には~

しかしながら、笠原氏はそれを真に受けて、次のように結論付けます。

前述したが、日本刀は「使い手を得て真価を発揮する」「名刀と使い手の技が一体となって斬れ味が冴える」などといわれ、「使い手の腕」が物をいう武器でもある。そのために、剣道、それも真剣を使っての藁や竹の「試し斬り」の技を習得していた軍人が、「OO人斬り」を得意になっておこない、それを軍功として賞賛する風潮が強かったことが読みとれる【引用:P41】

中国戦場に「何百・何千の野田・向井」がいて無数の「百人斬り」をおこない、膨大な中国の軍民に残酷な死をもたらしたということが、決して誇張ではないことが推察されよう。【引用:P48】

【引用元:「百人斬り競争」と南京事件】


兵士の勇猛さを讃えるのが「目的」だけの記事報道を以って、実際に「OO人斬り」があったと断定する。
(例えていえば、東スポの記事が報道されたから、事実に間違いないというようなものだろう。)

それどころか、この新聞報道を以って、当時の日本人がこうした報道を喜んでいたなどと指摘する始末。
「戦時風潮のせいもあった」と言い訳をしながらも、当時の日本人が残虐記事を喜ぶ”野蛮”であったように匂わす処などは読んでいて怒りがこみ上げてきました。

笠原氏は、「残虐記事を、果たして当時の日本人が喜んで読むだろうか?」という当然の疑問が頭に浮かばないんでしょうか?

前述したように当時の報道が、戦果を「OO人斬り」で表現していたに過ぎないこと、つまり、華々しい戦果を報道するのが目的で、内容は荒唐無稽であっても何ら問題視されなかったことを全く理解していません。

これで”歴史学の立場から云々~”とのたまうのだから本当に呆れてしまう。

第一、当時の報道は、軍部によって検閲されており、残虐記事が載ることは絶対ありませんし、これらの報道を残虐だと受け止める読者もいません。

そうした戦意高揚記事を、残虐記事と読み変えようとする「意図」があまりにもあからさますぎます。

笠原氏は、当時の「OO人斬り」という中国人殺害自体については、無条件に事実だと決め付けるくせに、当時の報道(敵陣に突撃して何十人も叩っ斬ったというような)内容については否定するのです。

そして彼は、これら荒唐無稽な新聞報道が、実は捕虜や市民など無抵抗な者の「据え物斬り」であったと主張することで、これら戦意高揚記事が「虚報」ではないと強弁しているのです。

要するに、「荒唐無稽な信憑性に乏しい戦意高揚記事」を、「実際に行なうことが可能な残虐記事」へと改変しようとしているわけです。

これは、山本七平が指摘した「結局、虚報の武勇伝は残虐記事にならざるを得ないという一つの図式」そのものです。
(このことについては、過去記事↓にて詳しく引用しているので参照されたし。)

【参考記事】
・いまだに日中の相互理解を阻む「虚報」の害悪について

そして、こうした記事の紹介の狭間狭間に、向井・野田両少尉が、剣道の達人だった…とか、こうした行動も取れる環境にあった…とか挿入していくわけです。
下記のように。

「百人斬り」の向井少尉は、銃剣道三段の腕前であったから、日本刀だけではなく、銃剣の刺突で殺害して人数を増やした可能性も考えられる。【引用:P44】

野田大隊副官も、向井歩兵砲小隊長も戦況により、臨機応変にそうした作戦に参加することができた。とすれば、「百人斬り」をおこなうことを、はじめから「不可能だった」と断定することはできない。【引用:P56】

注目されるのは、歩兵でない砲兵でも日本刀を携帯して、中国兵を斬り殺していたことである。これも向井少尉が歩兵砲小隊長であっても「百人斬り」はできたことを示唆する「傍証」といえる。
以上の記事から、歩兵砲小隊長であった向井少尉が名刀「関の孫六」を持ってどのような場面で「百人斬り」をおこないえたのかを、想定することができた…【引用:P73】

このような戦況になれば、向井歩兵砲小隊長の「独断をもって」、投降兵や敗残兵、捕虜の「百人斬り」をおこなうことが状況的には可能だったのである。【引用:P95】

常州付近ではこのような状況であったから、向井、野田両少尉が記事に書かれていたような数の中国兵を日本刀で斬り殺せた可能性はあったといえよう。【引用:P122】

向井少尉も野田少尉も部下を連れての偵察が重要な任務であったから、望月五三郎『私の支那事変』に記述されていたように、迂回戦術行軍の偵察活動の最中に、農民を捕まえて「据え物斬り」をする機会が十分にあったと考えてよいだろう。【引用:P165】

【引用元:「百人斬り競争」と南京事件】


でも、上記の指摘ってみんな「可能であったに”過ぎない”」だけなんです。いわば笠原氏の願望に過ぎないんですね。
印象付けにより読者を誘導しようという魂胆がみえみえで、ある意味失笑を禁じえません。

長くなったので今日はここまで。
次回は、笠原氏が論拠とする「志々目証言」などについて取り上げていきます。

【関連記事】
・書評/笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』…を斬る【その2】
・書評/笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件」…を斬る【その3】《追記あり》

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谷亮子ネタで大笑い。

あまりに、秀逸な記事↓なので取り上げてみる。

・20年後くらいの五輪に大朗報!谷亮子さんが第2子を華麗に妊娠の巻。

人気ブログランキングでも常に上位をキープする「スポーツ見るもの語る者~フモフモコラム」の記事からです。

いや、このブログは面白いので常にチェックしていたのですが、今回のあまりの妄想ぶりに笑った。
これもひとつの才能ですね。
この記事のコメント欄見ても、ブログ主を讃えるコメントが並んでるし…。

このくらい文才があると、アフィリエイトで結構稼げるのかな…?

かくいう私も、誘惑に負けて、よくこのブログの左側アフィ欄のヌードグラビアをクリックしてしまうのですが…(爆)


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韓日友好を唱える韓国人の認識はこんなもん。

今日の赤旗を読んでいて、何気に気にかかった記事をご紹介。
「ひと」という題名のコラム↓です。

■韓日友好を掲げて27年、韓国書専門店代表

李慈勲さん(67)
李慈勲さん
(画像↑追加しました。)

コリアタウン大阪・鶴橋の「ソウル書林」は原書が並び、研究室のようです。
「韓日のありのままの歴史を伝えることで、誠の友好関係を築きたい」。一九八二年の開店以来の熱い思い。

出版も手掛け、韓国語講座を開くなど書店は日韓交流の場ともなってきました。

「韓日のほとんどは善隣友好の歴史です。鎖国の江戸時代でも朝鮮には門戸を開き、十二回も朝鮮から通信使が送られた。そんな日本が武力で朝鮮を支配した」。

柔らかな物腰と強いまなざしです。

土地を奪われ、おびただしい餓死者を出した強制連行や生活のために敗戦時、二百数十万人も在日がいたほど」

韓国金屋南道麗水市生まれ。六一年から三年間、民主化闘争で学生の中心を担って独裁政権とたたかいました。

「命あったのは幸せ。捕まって殺され、あるいは拷問の後遺症に苦しんでいる仲間が韓国に大勢いる。しかも何の補償もなく…」。

逃れるように海を渡ってたどりついた日本。
異文化・異民族を排除する鎖国のような国に思えました。

「溶け込むには、しんどかった」

今の韓流ブームに及ぶと笑みが浮かびます。
「軍事独裁政権によって抑圧されていた民衆のエネルギーが民主化によって花開き、のびのびと素晴らしい作品を生み出した。それが日本人の心をもとらえた」。

自らのたたかいと重ねます。
時代の激流の中の人生。

「自分の生きてきたことが一つの歴史をつくる」と、揺るがぬ思想です。

文・写真 小林信治

【引用元:平成21年2月26日付しんぶん赤旗より】


韓国書専門ということだから、ウリナラマンセーの本ばかり読んでいるせいもあるのかも知れないけど。

「ありのままの歴史」って、どこが「ありのまま」なんだよ(苦笑)

こんな認識で、韓日友好を掲げているのだから、韓日友好も道遠し…ですなぁ。

またそれを真に受けて、記事にしている赤旗も、人が好いというかなんというか。
ま、ある意味、赤旗らしいと言えば、それまでなのだが…。


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春の味覚/葉たまねぎのキムチを味わう

今日は、軽くグルメネタでも。

義理の母がこの時期よく作ってくれるのが、葉たまねぎのキムチ。

あまりに美味しいので、嫁にも作り方を教えてやってくれ、と頼んだほどです。

この時期しか作れないというので、なぜだか聞いたところ、材料の葉たまねぎというのがこの時期しか八百屋に並ばないから…とのこと。

作り方を嫁さんと一緒に教わったが、至極かんたん。

まず、必要なのが旬の素材、葉たまねぎ
長生の葉たまねぎ

ちなみに、使った葉たまねぎは、千葉県の長生(ちょうせい)村産でした。
ググッてみたら下記HP↓を発見。(写真データはここから拝借しました)

・春の香り「ながいき葉玉」

次に必要なのは、キムチの素。ちなみに使ったのはCOOPの「キムチの素」でした。

あと塩もみ用の塩少々。

以上、用意できたら、てきとーに葉たまねぎを切って、ビニール袋に根っこの白いところだけ、軽く塩もみする。それができたら青い部分の葉たまねぎも入れ、キムチの素をぶちまける。

すこし揉んだあと袋の口を閉じて、冷蔵庫へ放り込んで終了。
かんたんでしょ(笑)

このキムチ↓は、少し冷やして食べるとより美味く感じる。
葉たまねぎのキムチ

普通の長ねぎより葉が柔らかく、内側には白いヌメリがたっぷりあるせいか、口当たりもやさしく、ねぎ本来の辛さもマイルドでグーですね。

ネットで調べてみると、どうやら葉たまねぎは、「ぬた」にしていただくのが王道らしいのだが…。

でも、このキムチもいいですよ~。
ビールも進むし、白いご飯と一緒に食べても美味い。

この季節しか味わえないのが少し残念です。
それと、もう一つ残念なのが、あまりスーパーなどで売っていないこと。かなりマイナーな食材みたいです。

そんなマイナーな葉たまねぎですが、皆さんも、見かけたらキムチにしてみたらいかがですか?
春の味覚を味わえますよ、きっと!


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「日本の友好/世界の友好」~その違いとは?~

最近、某所で捕鯨問題について議論したり、また、ガザ紛争を巡る議論を見たりしていて、つくづく思うのが、多くの日本人の考える相互理解とか、友好とかが世界のそれと全く違うのではないか…ということ。

今日は、そのことについて、『日本人と「日本病」について (文春文庫)』の中から山本七平岸田秀が対談で端的に説明している箇所を引用していきます。

■「断章取義」

岸田 ぼくはずっと以前から山本さんのご本はほとんど読んでいるつもりなんてすが、そうして感じたことは、そのお考えが、あるいは失礼かもしれませんが、ぼくの考えていることときわめて共通する点がある、という気がしたんです。

つまり、日本人は自分の行動を規定している規範というか、原理というか、そういうものに対して無自覚的である。

そして、意識していないがゆえに、太平洋戦争をその典型として、他民族と接したときにいろいろな摩擦が起こってくるわけですね。

その問題を解決するためには、まず、自分たちを真に動かしているものを意識化すること、知ることであるということを、山本さんはあちこちで述べていらっしゃるわけです。

この考え方というのは、実は、私のほうの仕事である精神分析そのものなんですね。

山本さんは日本の現代史の数々の局面を分析するのに、「空気」という言葉を用いておられるわけで、その発想にぼくが「共同幻想」と呼ぶところのものと大きな共通性を感じました。

一度お会いして日本人論と日本の近代史の分析について、大いにお互いの考えをぶつけ合ってみたかったんです。今日ははからずもこういう機会が持てて、非常に喜んでおります。


山本 それはどうも、光栄です。

岸田 神経症の患者は、一応ちゃんと主観的動機というものを持っていて、意識面ではさまざまな正当化を行っているんです。ただし、それは彼を真に動かしているものとは達う

これは一神経症患者にとどまらず、人間の集団というか、民族についても言えるんですね。

そもそも人間の精神発達の過程でいうと、まずはじめは自閉的、自己中心的なんです。
すべて自分を中心にして世界は回っていると思っている。

この自己中心性から脱却するには、他者との衝突しかないんですね。他者と衝突することによってはじめて、自分の見方が普遍的なものではなくて自分にしか通用しないんだということがわかってくる。

これなくして精神発達はあり得ないんです。

これは個人についてだけではなく、国家という集団についても言えるのであって、日本の鎖国というのは、一種の幼児期だった。

その期間中も長崎でオランダとつき合っていたとはいっても、あれは言わばこっちの勝手になるつき合いで、やめようと思えばいつでもやめることができる。

これでは本当の意味の他者との衝突は起こってこないわけで、国家的なレベルで日本が自己中心的だった時代なんでしょうね。


山本 そうですね。

岸田 ただ、他者との衝突というのはで両刃の剣なんでしてね、それが全然なければ精神は発達しないけれども、あまりにも強い衝突が起こると、こっちの人格が混乱しちゃう。

ペリーの来航は実はそのひど過ぎるショックだった。
そこで日本人の精神構造が狂ったんじゃないか、というのがぼくの考えなんです。

たとえば、家の中で両親に可愛がられて何一つ不自由なく育つ。下男、下女がいたといってもそれは他人じゃない。ところが、ある時突然、両親が死に、家が破産して、冷たい世間に放り出された。

さてどうしたらいいかわからない、と一生懸命にあがいたのが、明治以来の日本なんじゃないか。


山本 ええ。たしかに日本は文化的な衝突というものを最も経験していない国です。それがなぜか、こうも巧みに近代化らしきことができてしまったところが、実に不思議ですね。

たとえば、仏教が来たといっても、都合のいいところしか取り入れてない。
儒教にしても、さかんに唱えるわりに本格的儒教体制をつくる気はない。
革命をやって、日本を解体して、ちゃんと科挙の試験をして士大夫を作るという気はないんですね。

徳川時代の町人学者の行き方は「断章取義」と言われています。
章を断って義を取る、つまり原典の文脈をバラバラにして、自分に必要なものだけを取るんですね。

石田梅巌(一六八五~一七四四、江戸中期石門心学の祖)などはその典型で、彼は町人で商家の一番頭で権威がありませんから、聖人の教えにこうあるという形で表現する。

いわば、自分の体系を聖人の片言隻句の引用ですべてつないでしまう
原典は仏教だろうと儒教だろうとかまわんわけで、これはつまり思想を取り入れたということではなく、表現を採用して権威化したに過ぎないんです。

そのため真の思想的対決には決してならない。

面白いことに朱子学の受容もそうなんです。
確かに朱子の正統論は日本に大きな影響を与えて、これから天皇の絶対化が生まれてくる。
同時に浅見絅斎(一六五二~一七一一江戸中期の朱子学者)の『靖献遺言(※)』のようなそれに基づく個人の絶対的規範もできる。

(※註)…中国思想の殉教者の殉教記録および遺言集。収録されているのは屈原『離騒懐沙賦』、諸葛亮『出師表』、陶淵明『読史述夷斉章』、顔真卿『移蔡帖』、文天祥『衣帯中賛』、謝枋得『初到建寧賦詩』、劉因『燕歌行』、方孝儒『絶命辞』

しかしその両者を組織的体系的につなぐことはせず、それに基づく新しい体制に関しては全く考えていないわけです。

明治以降も大体においてそうでしてね、今度は朱子学的天皇絶対と個人の絶対的規範はそのままにして、その中間に西欧の組織を入れてしまう。

いわば和魂洋才と称して、才だけもらっておく。
これが伝統的な手法なんですよ。

いまの日本のキリスト教会にしても、「断章取義」です。
聖書の思想体系は問題にせずに、自分たちの精神構造に合う句だけをもってきて組み立ててしまう。

そうでないなら、たとえば旧約聖書の「列王妃」と『資治通鑑』の歴史観の異同などは最も気になる問題のはずです。

今度、私は、説教集などで、聖書からの引用の実態を調べてみようと思うんです。
どういうところだけ引用しているか。

それによって日本のキリスト教会を通じて、その精神構造がどうなっているか、逆にわかるでしょう。

で、私は冗談に、日本文化は「サザエ」である、というんです。
中は背骨なしでグチャグチャしてていいんです。外をきちんと閉じておき、必要に応じて蓋を少しあける。

ヨーロッパ人は脊椎動物ですから、日本人には背骨(バックボーン)がない、という。
確かにそうでしょう。

そのかわり貝がちゃんとある。(笑)

外部を固めて何物も入れず、時折ちょっと口を開けて、必要なものだけ取る。
これをずっとやってきた。

だから、自分はこうであるということが、外へ行くと言えなくなるんですよ。
貝のように口をつぐむか、「相手の立場に立って」となっても「自分の立場に立って」がない

したがって、対決はしない。

だが、徳川時代の尊皇イデオロギストは必ずしもそうでないです。
やはりペリー・ショックの影響は大きいでしょうね。

対決ということを誰もが反射的にいやがる。

ところが、たとえばエルサレムなんていう所は、「相手の立場に立って」といえる場所がなくなるんですよ。三大宗教のどの立場に立っても、ほかの二つから文句が出るでしょう。

岸田 なるほど。

山本 この前テレビでエルサレムを紹介するときに、結局、三大宗教共通の聖所であるという言い方で押し通しちゃったけれども、こんな妙な話はない。

三方から文句がきても不思議はないんでしてね。だいたい彼らは自分の立場を明確に主張してくる。
イスラムはイスラムの、ユダヤはユダヤの立場をね。

だから、つくづく思いましたが、ああいうところへ行って論争しても、これは勝てない

「相手の立場に立つ」人間が一種の内心の決意を経て土俵にのぼるのと、なんらの決意もなく、当然の状態を当然のままで出てくるのとでは、勝負になりませんよ。

日本の対外的な摩擦は、すべてこの問題を抱えているんです。

岸田 結局、他人との友好的な協調のあり方が違うんですね。

山本 違うんです。

岸田 日本人は、自分の主体的判断をお互いに捨ててというか、横にのけておいて仲よくやれば、対決も葛藤もないんだという、一つのフィクションの上に立っている

一方、向こうではお互いに自己を最大限に主張し合って、その主張の間に共通一致点を見出すことが双方の協力友好の基礎ですよね。

友好ということの意味が日本とは初めから違う

だから、日本人が自我を捨てることを前提とした日本的やり方で仲よくしようと思っても、向こうは仲よくなってくれない

日本人が自我を捨てたって、向こうは自我を捨ててはくれませんからね。
すると、日本人の方では、こっちは自我を捨てて譲歩しているのに、おまえは少しも歩み寄ってこないと腹を立てる。

向こうに言わせれば、そこで日本人がなぜ腹を立てるのかがわからない。


山本 そこなんです。「双方互譲の精神をもって」と新聞の社説なんかではよく出ていますね。
しかし、譲れば相手が一歩踏み出して来る社会では、双方徹底的な自己主張をして妥協点を見つける以外にない

いわば、実にしんどい対話が必要になる。これがわかっていないんです。

(後略~)

【引用元:日本人と「日本病」について/「断章取義」/P20~】


上記の対談の中で、非常に重要だと思ったのが次の二つ。

一つ目が、友好について。

日本人の考える友好のアプローチが、世界相手では通用しないということ。
それを、通用すると信じ込んでいること。
通用するとの思い込みが破れた際、裏切られたと感じて一方的に腹を立てること。

これは、戦前から現在に至るまで全然変っていないのではないでしょうか。

左翼の「対話重視」を訴えるナイーヴな主張に、それが通用するとの思い込みを感じてしまう。
ネット右翼の感情的な反発に、裏切られたという感情を感じてしまう。

いずれも、非常に日本人的なんだなぁ…と思いますね。

そして、二つ目が、「日本人が自らの行動規範を自覚していない」という指摘。

このことは、「戦前の反省」というものにも物凄く影響を与えているとおもう。
自らの行動規範を把握していないから、反省が頓珍漢なものになる。

「戦前の日本軍の残虐行為をあげつらう」とか、「9条に縋る」とかすることで反省につながると勘違いしているのも、この「自分たちを真に動かしているものを意識化すること、知ること」という行為を避けているからでしょう。

この点については、二人の対談でまた出てくるので、後日また詳しく紹介していくつもりですのでお楽しみに。


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君が代症候群・・・そんな大げさな!

今日の赤旗には、面白い記事↓が載っていたので軽く取り上げて見る。

■砕かれた教師の倫理 「日の丸・君が代」強制 精神科医が証言

東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制に従わなかったことを理由に処分された都立学校教職員六十六人が、処分取り消しなどを求めた裁判の第四回口頭弁論が十八日、東京地裁(中西茂裁判長)で開かれ、精神科医の野田正彰・関西学院大学教授が原告側証人として証言に立ちました。裁判は第一次分(原告百七十二人)に続くもの。

野田氏は、一次、二次の原告十三人への面接等を通じた鑑定意見書に基づいて「日の丸・君が代」の強制で原告が受けた精神的苦痛について証言しました。

同氏は、強制によって子どもの納得のもとに教育をすすめるという「教師としての職業倫理」が打ち砕かれているとし、「家族や自分の命を失うのと同じぐらいの喪失」だと説明。職業倫理の喪失感は、君が代斉唱時に起立した人も不起立の人も同じだとのべました。

原告全員にたいするアンケート結果から、卒業式、再発防止研修が極度の精神的重荷となっていると指摘し、それが毎年繰り返されることから原告の精神的苦痛は激しく、「君が代症候群といえる」と語りました。

卒業式祝辞「不適切」
一審判決を踏襲 教諭の請求棄却

前任校の卒業式での祝辞で「いろいろな強制のもとでも自分で判断し、行動できる力を磨いてください」と述べた都立高校教諭(60)が、東京都教育委員会に「不適切」だとされ「指導」の措置を受けたのは言論・表現の自由に反するとして、都に損害賠償を求めた裁判の控訴審で東京高裁(柳田幸三裁判長)は十八日、教諭の主張を退けた一審判決を支持し、請求を棄却しました。

判決は教諭の発言について「卒業式に国旗・国歌をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねない」とした一審判決を踏襲。「以前に同校に勤務していた現職教員の立場での発言であり、校長の監督権限が及ぶ」としました。

報告集会で原告側弁護団は「なぜ監督権限が及ぶのか、表現の自由が制約される法的根拠は何か、まったく答えていない」と批判。原告の教諭は「こちらの主張をまともに検討した形跡がない。本当にひどいと思う。あたりまえの一言をねじまげてとらえている」と述べました。

教諭は二〇〇五年三月、前年度まで勤務していた都立高校の卒業式で来賓として祝辞を述べました。都教委は勤務校の校長を通して「来賓としてふさわしくない」とする「指導」を行いました。

【引用元:2009年2月19日(木)「しんぶん赤旗」より】


あたた・・・、これは痛いなぁと思いながら読んだのだが、本日の痛いニュース↓にさっそく取り上げられておった(笑)。

・【裁判】 「君が代強制が元で、家族を失うのと同じぐらいの喪失感…この苦痛は君が代症候群だ」…砕かれた教師倫理、精神科医が証言

こんな精神科医を引っ張りだして、「被害者です」って強調してもなぁ・・・。
これでは、世間から見れば、ヤヴァイ人たちにしか見られないのに・・・。

ますます、世間の支持を失うことは間違いないですね。


【関連記事】
・日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。


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日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。

日頃、左翼のブログをオチしている私ですが、この度、村野瀬玲奈の秘書課広報室の「国旗、国歌、国家意識(「愛国心」)を考えるリンク集」という記事をつい最近読みました。

これは、日の丸・君が代強制問題について、強制反対の立場から書かれたブログ記事のリンク集なのですが、幾つか拝見していてどうにも違和感を感じてしまったので、今日はそのことについて書いて行きたいと思います。

この問題についての私のスタンスというのは、以下過去記事↓を読んでもらえばわかると思います。

・”当たり屋”してまで表現の自由を守る教師の皆さんへ
・”内心の自由”を「手段」として利用する人たち
・日の丸・君が代を問題にする人々と、かつての元号廃止論者の類似性
・日の丸・君が代「強制」反対を叫ぶ者たちのどこがおかしいのか考えてみた。

今こうやって自分の過去記事を読み返してみると、かなり恥ずかしいものがありますね。かなり感情丸出しですごく攻撃的だし…orz

今でも、彼ら強制反対派に対しては嫌悪感を抱いていないといったら嘘になりますが、彼らの気持ちや主張についてはわからなくもありません。

ただ、やっぱり彼らの主張には、大きな誤解というか認識間違いがあると思うので以下、指摘していこうと思います。

彼らの記事を眺めていて多かったのは、「なぜ、強制しようとするのか?」という疑問や反発でした。

確かに、学校の式典時だけを見てみれば、強制というのが当てはまるように見えるのですが、強制する側も強制したがっているのは、「式典時」だけであって、いつ如何なる場所でも強制しようとしているわけではないのは、賛否いずれの側も認めるところだと思います。

強制に反対する人たちは、この強制自体を問題視し、「思想・信条の自由」と絡めてこの問題に反対しますが、この点が一番の「勘違い」だと思います。

これはおそらく「思想・信条の自由」に係わる問題ではありません。
なぜなら、本当に思想・信条の自由を規制しようとするならば、「式典時」だけを問題視するということは有り得ないからです。

したがって、強制しようとする側には、全く「思想・信条の自由」を侵したという「意識」は皆無でしょう。
(逆に強制されると受け止める側は、百パーセント「思想・信条の自由」を侵されたと感じるでしょう。賛否の間に、物凄い認識のギャップがあるわけです。)

では、なぜ強制しようとするのか?

これは、もともと日本の教育のあり方に原因を求めることができると思います。

例えば、江戸時代の新井白石の「教えて治にいたる」という言葉や、石田梅巌の「形は直に心なりと知るべし」という言葉があります。
また、「守・破・離」という言葉にもあるように、日本の教育というのは、まず「形」から入ります。

なによりも「形」重視なんですね。

ですから、強制を反対する人の中には、「偽物の愛国心」だとか「形だけの愛国心」だという批判をする人もいるわけですが、これは当然のことで仕方のないことなのです。とりあえず「形」から入ることが大事なのですから。

そうした「形」から入るという教育を受けることで、自然と集団になじんでいく。

日本人というのは、口ではなんと言おうと個人主義で行動しておらず、「和」を基にした集団主義の行動原理で動いています。

この辺りの説明については、岸田秀山本七平の対談を参考にしてもらえば、よく理解してもらえると思うので、以下過去記事↓を参照してください。

・日本人の組織とは?

さて、そのような日本の教育の在り方を当然と考える人たちから、強制反対派の方々の主張を見てみると、ワガママ言っているようにしか見えない。

個人主義が、単なる利己主義に見えてしまうわけです。
そして、その行為が、組織の「和」を乱し、組織やコミュニティを損なうものと受け止める。

大多数の日本人は「形」から入る教育を当然視していますから、強制反対派の主張に反発します。

そしてそのことを、強制反対派の人間は、「右傾化」や「戦前回帰」だと受け止めてしまう。
誤解が誤解を呼んでいるようなものかも知れません。

しかしながら、今まで述べたように、これは「教育のあり方」から発した誤解であって、「思想・信条・内心の自由」の問題ではないことは明らかです。

ましてや、右傾化とか戦前回帰と受け止めることは明らかに間違いで、単なる「利己主義」に対する反発と見るのが妥当でしょう。

結局のところ、私が強制反対派の人たちにお願いしたいのは、「強制」自体を問題視するのではなく、「形」重視の教育のあり方が原因なのだということに気付いて欲しいということですね。

そして、問題視するならばそうした教育方法であって、強制そのものではないということを理解しない限り、この問題はいつまでたっても堂々巡りに終わるのではないでしょうか?

現状のままでは、多分、強制反対派の意見というのは、反発を招くだけの結果に終わるんじゃないかと思います。

【追伸】
以前はこうした視点に気付かず、感情的に攻撃的に鬱憤を晴らすような記事を書いていたのですが、なぜなのか自分で解釈できるようになった今では、昔ほど強制反対派に対する反発を感じなくなりました

これも、そうした視点に気付かせてくれた山本七平岸田秀のおかげですね。


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シー・シェパード問題で気をつけねばならないポイント

忙しいので、今日は思ったことをちょこっと書いていきます。

・シーシェパード vs 日本調査捕鯨船団 高まる大惨事への危機

最近また、南氷洋での捕鯨調査船とシー・シェパードの抗争が報道されている。

危険な南氷洋において、シー・シェパードのようなテロ行為は下手をすれば死者を出しかねない。非常に憂慮すべき状態だと思う。

そのことも心配だが、この抗争がエスカレートして例えばどちらかに死者がでるとかいう状況が起こった時の反応が本当に心配だ。

日本人というのは、穏やかで我慢強いが、その分、切れたときの反応が激しい性向をもっていると思う。

万一、悲惨な出来事が起きたら、それこそ世論は沸騰し、シー・シェパード弾劾の声の前に、冷静な意見は間違いなく封殺されてしまうだろう。

こうした事態に陥れば、もともと感情に流されやすい日本人が暴発したり、おかしな方向に流される危険がある(戦前の対中関係がよい例)。

こうした事態に陥らないよう、政府は事態のコントロールに努めるべきだと思うのですが…。

報道によれば、シー・シェパードが船籍を置くオランダに抗議したりしているらしいが、この環境テロ行為に対しても一段階厳しい態度を取る必要があるのではなかろうか?

そうは言っても、どういった対策が効果的か自分でもわからないのですが…orz

そして、シー・シェパードは欧米の世論を沸騰させることをねらっている。

本来ならばロシアが取るような強攻策(銃撃・拿捕など)をとってもおかしくは無いのだが、あまり強面で対応すればシー・シェパードの思う壺だし、かといって現状のような弱腰でも舐められ、被害を蒙るばかりである。

いったいどのような対策を講じればよいのだろうか…。

双方の世論を沸騰させず、かといってテロにも屈しないという成果を挙げることが政府に求められていると思うのだが…。

難しいですね。


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死刑廃止派の人と議論を交わして思ったこと

すっかり更新が滞ってしまいました。
というのも、他人様のブログにお邪魔し、議論を交わしていたせいなのですが。

何について、議論をしていたかと言うと「死刑廃止の是非」について。

ちょっと前になりますが、社民党福島みずぽタソが死刑執行に対して反対声明を出していたのが、痛いニュースで取り上げられていましたね。

自分も前回の記事で死刑廃止に触れていたので、久しぶりにそれを村野瀬玲奈の秘書課広報室の記事「死刑FAQ」にトラックバックしてみたのですが、やっぱり通らないみたい(昔はすぐ通ったのに…、やっぱり今でもトラバ禁止措置が続いているようです)。

そこに何本も死刑廃止派のトラックバックが載っていたので、そのうちのまともそうなブログに幾つかトラックバックを送りつけてみたが、反応なしだしトラバも通らない。

所詮、異論は受け付けない連中なのだ……と改めて思ったんですが、その中で日本アムネスティ会員の鳥居さんという方のブログは、唯一コメントもトラックバックも受け付けてくれた。

そこで前々から疑問に思っていたことをぶつけてみたのですが、どうも議論がかみあわない。

議論のやり取り・内容は以下リンク先↓をご参照ください。

鳥居正宏のときどきLOGOS
・死刑執行に抗議します


議論して、感じたことを筆の赴くまま書いて行きます。

まず、私が一番聞きたかったことは、「なぜ人を殺した者にまで、(殺されない)権利を与えねばならないのか?」ということなのだが、全くのすれ違いに終わってしまった。
私と鳥居さんのやりとりを簡単にまとめると次のようになると思う。
(Q.は私、A.は鳥居さん)

Q.なぜ犯人に殺されない権利があるの?

A.いかなる人間も他者を殺す権利はないから。

Q.そんな決まりがあるのか?

A.法は、人が生きる権利を侵害できないからさ。

Q.でも、実際には、法で人の権利を制限してるじゃないか。

.いかなる人間も、他者を殺す権利が与えられてないんだよ。死刑制度は人が人を殺す制度だから、死刑制度という法律そのものが、法の精神に反しているんだ。

Q.なんで、死刑が法の精神に反してるって断言できるの?

A.法は、人が生きる権利を侵害できないからさ。

(以下、無限ループ

上記のようなやりとりをしていたので、疲れた…。
そんな鳥居さんの主張をまとめると次のとおりであるらしい。

1.人権は、天賦の権利であり、絶対不可侵である。
2.日本は近代法治国家である。
3.近代法治国家では、法律(社会権)で「人が生きる権利(自然権)」を奪うことはできない。

そして、この1.2.3がある故に、日本は死刑を廃止すべきである…と。


そりゃ、人権は日本国憲法にも謳われているし、大切だとは思う。
しかし、「絶対不可侵」とはいえないだろう。
ましてや、最初に人権を侵害した殺人犯が、「絶対不可侵」である必要がどこにあるのか?

それを聞くと、「社会権は自然権を侵害できないから」という回答がくる。

私は、「人が生きる権利」が無制限に保護されたら、他人の権利を侵害するのは必至だ。そんなことは性善説でないかぎり成り立たない…と反論したわけですが、これに対する明確な反論はなかったように思う。

その代わり反論としてあったのは、「全ての法律は、社会契約説に則って制定されているから…社会権は自然権を侵害できないんだ。」とループしちゃう。

現実には、西欧だって社会権(法)が、自然権(人権)を制限してるでしょ。西欧では、死刑がキリスト教の背景の下、社会権の一つとして認めないというコンセンサスがあるだけで、日本にはそんなコンセンサスないでしょ?と問い質すと、

「日本にはそういうコンセンサスがないから、得るために運動しているんだ」…との回答が。

結局、日本には「死刑制度は社会権の一つとして認めない」なんていうコンセンサスが出来ていないことを認めているのに、そのコンセンサス抜きのまま、日本においても「死刑制度は法に反する」などと主張するからこんがらがってくる。

つまり、前提が成り立っていないのに、その前提ありきで、結論付けようとしているんですよね。

どうも、決め付けで話を展開しているとしか思えない(逆に鳥居さんから見ると、私が結論ありきの決め付けということになるらしいが…orz)。

確かに人を殺す権利は無いかもしれないけど、現実問題、人は人を殺す能力をもっているわけなんだから、それに対して何らかの対策を講じる必要があるはずなんだよね。

死刑というのは、対策の一つとしてありえる有力なオプションなのに、そこで人を殺す権利は無いという「たてまえ」論をぶたれて反対されてもねぇ。なんだかこれじゃ、殺したもん勝ちって気がしてならないんですが。

それと、議論していて強烈に感じたのが、彼ら死刑廃止派が欧米の価値観を絶対的に信奉していること(これは、欧米の影響が強い日本では仕方のないことかも知れないが)。

とにかく他の価値観を認めたがらない。
西欧の人権思想を万国共通の真理と思い込み、それにそぐわないと見なした者を、野蛮と規定し、矯正すべき対象としてしか扱わない。

彼らがそう思い込むのは勝手で構わないのだが、その価値観を押し付けてくるから困る。
しかも、自らの価値観を押し付けてくる際、必ずと言っていいほど相手を道徳的に劣位に置こうとするから嫌になる。

平気で相手を貶めといて、「差別反対」を標榜しているのだから、あきれてしまう。
結局のところ、自分と価値観を同じくしない人間は、人間扱いされないのではないか…としか思えない。

死刑廃止派の中には、そうでないと思う人もいるだろうと信じたい。

が、しかし、(トラックバックすら受け付けない連中は論外として)議論に応じてくれた鳥居さんですら、「リンチとしての死刑をお前は欲しているのか」と平気で問いかけてくるのを見るにつけ、「ブルータスよ、お前もか!」といった気分に陥ってしまう。

思うんですが、死刑廃止派の大多数は博愛的言辞を振りまくことで、自分は正しいんだ、と周りに吹聴する「自己陶酔」に酔い易い人々なのではないだろうか?

鳥居さんにも言ったけれども、こうした態度を取っている限り、死刑廃止に賛同する人は増えないだろう。
人というのは、価値観の押し付けには反発したくなるものだから。

でもね、そもそもこういう傾向の人って、それがわからないんだよね(だから、押し付けたがるわけなんでしょうが)。

ま、そういう結果に終わったとしたら、彼らの自業自得としか言いようがないのですが。

【関連記事】
・日本人の刑罰観~死刑存置派がマジョリティな理由とは~


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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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