一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「斜め上」の記事を読んで「嫌韓感情」について考える

ちょっと古いニュース↓だが、如何にも韓国らしい行動だと思ったので、今回はこのニュースを素材にして、いわゆる嫌韓感情について考えてみたい。

「文科省、韓国人初の国際宇宙ステーション滞在に難色」

国際宇宙ステーション運営の理事国として微生物「独島」実験に反対
広報を縮小することで「手打ち」

日本の文部科学省がイ・ソヨン博士の国際宇宙ステーション(ISS)滞在に反対し、韓国初の宇宙飛行士輩出が霧散するかもしれなかったことが明らかになった。日本がイ博士のISS滞在に反対した理由は独島(日本名:竹島)問題にあると考えられ、日本による独島領有権確保の努力が全方位で繰り広げられていることを示している。

韓国政府は、イ・ソヨン博士が微生物「東海独島」(学名トンヘアナ・ドクトネンシス)の遺伝子変異実験をはじめとする各種科学実験をISSで行うという発表を行った。東海独島は2004年に独島近海で採取され、それまで知られていない新しい微生物と判定されたことにより、2006年に国際学会に公式登録された。

韓国政府消息筋によると、東海独島実験計画を知った日本の文部科学省は、韓国政府に実験計画の撤回を要求した。そうしなければイ博士のISS滞在を許すつもりはない、というのが日本の文部科学省からの通報だった。

韓国の宇宙科学専門家らは、「ISSに数兆ウォン(数千億円)を投資した日本には、米国・ロシアと共に理事国として特定のプロジェクトを拒否できる権限がある。このため、事実上ISS運営は満場一致で行われる」と語った。

韓国政府としても、「東海独島」実験の取り消しを要求する日本の文部科学省の立場に対抗する策はない状況だったわけだ。このため、イ博士が宇宙に滞在するスペースがなくなり、8年間で250億ウォン(現在のレートで約18億7000万円)を投資した宇宙飛行士輩出事業が一瞬で霧散する危機に直面することになった。

複数の政府関係者は、「宇宙飛行士輩出事業の後すぐに、3年ぶりとなる両国の首脳会談が予定されていたが、突如として悪材料が発生したことは首脳会談に大きな負担として作用していた。韓国政府が日本の外務省に対し文部科学省を説得するよう要求し、イ博士のISS滞在が可能になり、宇宙飛行士輩出事業も成功した」と語った。

その代わり韓国政府は、韓国初の宇宙飛行士イ・ソヨン博士が「東海独島」微生物実験を宇宙で行うという事実を大々的に広報しようとした当初の立場から、消極的な姿勢に変更するという折衷案を日本政府に提示したことが分かった。

チョ・ホジン記者
朝鮮日報朝鮮日報日本語版


こういう記事を見るにつけ、岸田秀の「世界は医者のいない巨大な精神病院であり、歴史とは狂った個人、狂った民族、狂った国家がつくってき、つくりつづけているものである」という主張は、実に的を得た指摘だなぁ…と感心せざるを得ない。

アメリカや日本も相当狂っているが、中でも一番狂っているのは、韓国でしょう。

自国のプライドを守る為に偽りの歴史を叩き込まれ、自国内に閉じこもっている分には問題ないが、外部と接触すれば否が応でも、現実とのギャップに苦しみ、精神的に病んだ行動を起こすことになる。

上記の韓国の行動なども、実に典型的。

そもそも、竹島(独島)を実効支配しているのは韓国であって、日本ではありません。
また、日本は武力で奪い返そうとする姿勢がまったくないことも、冷静な眼で観察すれば誰の眼にも明らかですよね。

そのような状況下で、日本が竹島キャンペーンを展開するのであれば、(その主張の正当性は脇においておくとして)いわば物を強奪された被害者が声を挙げるようなものだから、その行動は誰にでも理解できます。

しかし、ことあるごとに騒ぎ立てるのは韓国サイドなんですよねぇ。

冷静に考えてみれば、韓国側の対応というのはとてもおかしい(心理学的にみればおかしくはないけれど)。

第一、既に竹島(独島)は手中にあり、日本が戦争を決意でもしない限り、奪い返される恐れは無いはず。

私がもし韓国人の立場なら、日本人相手に領土論論争はせず、一切日本側の抗議を当然のように無視するに留め、実効支配を継続すればよいと思うのですが。

しかし、ことあるごとに騒ぎ立てるのは、やはり韓国人にとっても、竹島(独島)領有の正当性に自信が持てないと心の底ではやましく思っているから…としか思えません。

例えてみれば「盗人が自分の盗んだ物を一生懸命盗んだものではない」と言い訳しているようなもので、そうせざるを得ない心理はわかるものの、結果としては、日本とトラブルにならざるを得なくなる。

上記のニュースも、そうした意識の現われの一つだと思うが、わざわざ宇宙を舞台にしてまでそうした行動を平気でやらかすというのは、やっぱり相当神経的にヒドイ状況じゃないでしょうか。

私が韓国をうっとおしく思うのも、いわばそうした神経症の重病患者に付き合ってやらねばならないからですが、日本人なら私と同じようにうっとおしく思う人も多いんじゃないだろうか。

ただ、ここで一つ気をつけなければいけないことがあると思う。

というのは、韓国人の行動が狂っているように見えるからと言って、韓国人を馬鹿だとか劣等民族だと見なすのは間違っていると思うし、そうした見方は、人種差別的であって日本人自身にとってもマイナスでしかないということに。

神経症の患者として見るという「視点」を持てば、韓国人の行動と言うのは実に”人間くさい”ものであって、それにどう対処していくのがよいか、冷静に判断できるのではないだろうか。

なぜそんなことを思ったのかといえば、最近のネットの嫌韓ぶりをみるにつけ、日本人の反応にもちょっと危ういものを感じたからなんですが。

一部の反応が、非常に人種差別的というか何と言うか。

韓国人の行動に嫌悪を抱くのは仕方ないにしても、韓国人自身を嫌悪するのはやめるべきではないかと思うんですよ。
(そうは言ってもなかなか峻別するのが難しいですけどね。自分自身それができているかと自問してみても怪しいものですし…。ただ、そうした意識を持つ、自覚することが大事じゃないかな?と)


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あらためて自分の一知半解ぶりを反省する。

以前のエントリになるが、『サンヘドリン規定「全員一致の議決は無効」一考/~浅見定雄の山本批判に妥当性はあるか?~』なるエントリをUPした。

この記事は、Apemanさんの「コピペされ続ける間違い」という記事を参考に書いたものだが、この記事について国家鮟鱇という方から「お詫び」という記事のトラックバックを頂いた。

トラックバックを頂いてつくづく考えさせられたのが、己自身の一知半解ぶりと思考の粗雑さ。

そもそも、考えてみれば、Apemanさんのブログ記事を読んだだけで、浅見説を理解したと勘違いし、論破できると思ってしまった点からして、どうしようもないほど愚かな判断でした…Orz

やっぱり批判するなら、少なくとも原典にあたって、本人の記述を読み、その真意を測ってからでないといけない、ということを改めて痛感した次第。

浅見説が粗雑であると、指摘している本人のほうが遥かに粗雑だったわけで、これはもう言い訳不可能なレベルだと自覚しました。

そんなわけで、本来なら当該記事まるごと削除して、穴にでも入りたい気分ですが、己の一知半解ぶりを自戒するため、当該記事をそのまま残し、このエントリを新たにUPしておくことにします。
(当該記事には、前置きとしてこのエントリのリンクを貼り、あらかじめ後の経過がわかるよう措置しておきます)

しかし、サンヘドリンの規定が、まさか弁護にまわる人間を「役割演技」的に必ずつけないと、その裁判自体が成立しないという「仕組み」だとは気がつかなかったです。
国家鮟鱇さんの記事を読んで始めて理解できました。
(残念ながら私の頭では、Apemanさんの記事及びコメントから読み取れなかったです。申し訳ない。)

ということで、以下のことについて、現時点での私の認識を記しておきます。

・浅見説が、粗雑な批判に過ぎないという批難を完全撤回する。

・ベンダサン説の記述が、サンヘドリンの規定の解釈としては適切でないことを認める。
(ベンダサンの記述は、どんな場合でも「全員一致」=「無効」と受け取られかねない記述であり、誤解を招きかねないものであることを認める。)

・浅見説の正当性については、判断を留保する。
(浅見説が正しいのかどうなのか原典を調べる語学能力が無い為。つまり、この件に関しては自らが判断する能力がないことを自認する。)


まあ、それでも、ベンダサンが「全員一致」→「誤判・無効」の危険性があるということを、「全員一致」=「絶対正義」と考えがちな日本人に示したことは、十分に意義があることだったと私自身は考えております。
(そんなこと言っても、所詮は、引かれ者の小唄ですが…Orz)

そうした判断が正しいか否かは、「日本人とユダヤ人」と「似せユダヤ人と日本人」を読み比べていただいた上で下していただければ幸いです。
読み比べれば、少なくとも私のように恥を晒すようなことはないでしょう。

この件に関して、Apemanさんとは、かなり感情的な応酬をしてしまいました。今回の応酬部分については、行き過ぎ・不適切な発言があったことを認め、お詫びしたいと思います。

そして最後に、今回そうしたことを気付かさせてくれた国家鮟鱇さんにはお礼を申し上げたい。

国家鮟鱇さんの分析は、私のような粗雑な考えと違って、しっかり分析されたもので非常に参考になりました。最低でもここまで調べなければ、こうした問題は論じられないものだなぁと痛感いたしました。

今回の一件で、岡目八目とでもいいましょうか、「第三者の意見というのは本当に大切だなぁ」と改めて感じた次第です。
当人同士では、感情的になることもあり、なかなか気付けないもんなぁ。

大恥は掻いたけど、それでも自分の間違いに気付くことができたのは良かったです。
国家鮟鱇さん、本当にありがとうございました。


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「日本は恥ずかしい」という民主党幹事長

いくら「国民の生活が第一」とか言われたって、こういうニュース↓をみると、やっぱり民主党に投票するのは躊躇してしまう。

痛いニュース】より
民主・鳩山幹事長「日本列島は日本人だけの所有物ではない」「定住外国人への参政権付与は当然。韓国は既に認めている」

【鳩山幹事長の発言要旨】
・定住外国人の参政権ぐらい 当然、付与されるべき。
・日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから。
・今の日本でほんとに居心地がいいんですかね、私は必ずしもそうは思わない。
・オバマ大統領を生んだアメリカはすごい、絶対に日本では起こりえない。
・韓国だって参政権を与えてる、日本は恥ずかしい。


本当にこの程度の考えで、外国人に地方参政権を与えようと考えているならかなりヤヴァイ。
ニコニコ動画のコメントもほとんど批難一色だったが、これじゃ当たり前だろう。

こういうニュースを聞くたび、痛感するんだけど、日本の不幸というのは、安心して任せるに足る野党が存在しないことなんだよな。

まず、生活の基盤である安全保障の問題もそうだけど、やっぱり一番問題なのは、野党というのは、日本の共同体の基盤である伝統的・文化的規範を崩すような政策を取りかねない、という危惧がぬぐえない。

その点、自民党というのは、どうしようもない利権政党だけど、伝統的・文化的規範を崩すような政策を取る恐れがあんまりないと思う。

昔、民主党が出来たときは、期待したものだけれど、最近は幻滅するばかり。

なんで昔の社会党みたいになってしまうのか??
勿論、旧社会党の面々が、民主党に鞍替えしているのは知っているけど、だからって本卦帰りしなくても…。やっぱり地金なのかなぁ…。

以前にもこのブログで紹介したことがあるけど、今回のニュースを見て、山本七平と岸田秀の対談の記述↓を改めて思い出した。

(~前略)

山本 だいたい、人間の信頼関係というのは、マイナス的なものでして、「彼はこれだけは絶対しない」というところから始まるわけです。

汝、殺すなかれ、盗むなかれと同じで、あの人はここへ来ても私を殺さない、私から物を盗まない、私に対して偽証しない、というそこから始まるわけでしょう。

だから個人が神との契約の形でそういう規範をきちんと持っていることによって、信頼関係が成り立つわけで、これが彼らがいう個人主義の理想型なんですね。

岸田 そして日本人にはその形がない。

山本 でね、私は人々がなぜ自民党を支持するのだろうかと考えたんです。

すると、やっぱり信頼関係というのは、日本人の場合も、最終的に何かをしないということなんですね。

あいつは飲む・打つ・買うのとんでもない奴だけど、こういうことはしないという信頼の仕方がありますね。(笑)

自民党への支持というのはこれなんだな
とんでもない奴だけど何かをしないと信じてる。

つまり、自分たちが自覚していない伝統的な文化的規範に触れるようなことはしない、という信頼があるんですよ。

自民党は伝統的な政治文化の上に乗っかってるだけでしょう。ところが野党はそうじゃないですね。

前に話に出た栃木県の市会議員の一家心中の場合の新聞記事みたいな日本の伝統的行動規範に根ざさない論理ばかり言ってるから、最終的に何かを托するかとなると、そういう気にならないということでしょう。

岸田 日本共産党が私有財産を認める用意があると言ってみたり、公明党が日米安保の意味を見直すと言ったりするのも、「何かをしない」という信頼性をかもし出したいわけですね。

(後略~)

【引用元:日本人と「日本病」について/個人的な自我/P72~】


山本七平の指摘どおり、自民党の支持って、そのほとんどが消極的・消去法的支持なんじゃないかな。だけど、そうした信頼だけは勝ち得ているから、支持が思ったより根強い。

民主党もそうした信頼を獲得しようとしているのかもしれないけれど、一皮むけば旧社会党の地金が現われてしまっている。
民主党には、是非、次の山本七平の言葉の意味を良く考えてもらいたいですね。

国家は確かに運命共同体であり、それなるがゆえに絶えず対立する政策を要請するが、運命共同体そのものに敵対してこれを根底から破壊するもの、ないしはそう誤解されたり、そういう印象を与えたりするものは、はっきり自覚しなくても本能的に拒否するようになる

【引用元:「常識」の非常識/P207~】


民主党も、早く単なる選挙互助会的組織を抜け出して、信頼するに足る野党になって欲しいのだが…。あまり期待できそうにないなぁ。

【関連記事】
・なぜ日本の野党は「反国家」なのか?~占領軍の検閲が残した影響とは~
・日本で個人主義が嫌われる理由とは?~神の歯止めを持たない日本人~


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自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】

最近、精神分析に詳しい岸田秀の著作を読み始めているのだけれど、彼の提唱する「史的唯幻論」というものに非常に共感を覚え始めています。

そこでまず、彼本人の記述から「史的唯幻論」とは一体どういうものなのかを紹介してみます。

二十世紀を精神分析する (文春文庫)二十世紀を精神分析する (文春文庫)
(1999/10)
岸田 秀

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■一 史的唯幻論

わたしは史的唯幻論という説を唱えている。

ソ連の崩壊などで今や放棄されたかに見える史的唯物論がまだ多くの人たちに普遍的真理であるかのように信じられていた頃、物質的経済的条件で歴史を説明していたこの理論に対抗して、歴史を動かす最大の要因は幻想であるというわたしの考えをいくらかふざけて、そして実は大まじめにそのように命名したのである。

今回の連載では、この史的唯幻論にもとづいて二十世紀のいろいろな事件や現象を考察してみるつもりである。

その前にまずこの説を簡単に説明しておこう。

そもそも歴史をもっているのは人間だけである。

それはなぜかと言うと、人間だけが過去を気にする動物だからである。
なぜ過去を気にするかと言うと、一つには、人間には行動選択の自由があり、あのときああすればよかった、こうすればよかったといろいろ後悔するからである。

なぜ人間に行動選択の自由があるかと言うと、本能にもとづいて自然のなかで調和的に生きている動物と違って、人間は本能が壊れ、その行動が本能によって決定されないからである。

本能とは行動規範であるが、本能が壊れた人間は本能に代る行動規範をもたねばならない。

それが自我であり、人間は自我にもとづいて、たとえば自分は男であるとか、社長であるとか、日本人であるとかの自己規定にもとづいて行動を決定する。

ここに、人間が過去を気にする第二の理由がある。

自我というものを構築した以上、人間は自我の起源を説明し、自我の存在を価値づけ正当化する物語を必要とするが、この物語をつくるためには過去を気にせざるを得ない。

ところで、人間はいろいろ罪深い、不安な、恥ずかしい、あるいは屈辱的な経験をせざるを得ないが、そうした経験は自我の物語にとって好ましくなく、できれば、そのようなことは起こらなかったと思いたい種類のものである。

そこで人間は現実の経験を隠蔽し、偽りの自我の物語をつくることになる

この偽りの物語でうまくやってゆければ好都合であるが、そうは問屋が卸さない。

偽りの物語にもとづいて行動すれば、それが偽りであることを知っている人たちとの関係、それが偽りであることを知っている自分の別の面との関係、現実との関係が障害され、当人は精神的に病むことになる。

このメカニズムは、個人の場合も、民族や国家などの集団の場合も同じである。
個人も集団も何らかの不都合な経験を隠蔽しているから、多かれ少なかれ病んでいる。

狂い方はそれぞれ異なるが、日本もアメリカもフランスもロシアもみんな狂っている。

要するに、すでにどこかで述べたことがあるが、世界は医者のいない巨大な精神病院であり、歴史とは狂った個人、狂った民族、狂った国家がつくってき、つくりつづけているものである。

したがって、世界の歴史は合理的現象としてでなく、病的現象として理解する必要がある。この観点から現代を解読してみたい。

(後略~)

【引用元:二十世紀を精神分析する/一 史的唯幻論 /P12~】


岸田秀の著作を読んでいると、よく「人間は本能が壊れた生き物」とのフレーズがでてきますが、実にうまく人間の特徴を言い得ているなぁと思います。

そしてまた、「個人も集団も『偽りの自我』を形成し、それと現実とのギャップとの間で精神的に病んでいる病人である」という精神分析的な指摘にも、実に面白い切り口だなぁと感心してしまいました。

確かに、国家も「精神病患者」として捉えてみると、なぜ当時そのような行動を取ったのかうまく説明することが出来るようになると考えられるし、精神分析的に自らを分析できれば、なぜそのように行動してしまうのか把握することが出来、過去の失敗を教訓とすることが出来るようになると思います。

さて、本日はそのような視点から、「なぜ日本人の一部に、やたらと戦前の日本を悪者扱いにし、糾弾する人たちがいるのか」について、精神分析の観点から分析した岸田秀の記述を紹介してみたいと思います。

引用した本はこちら↓
日本がアメリカを赦す日日本がアメリカを赦す日
(2001/02)
岸田 秀

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■第九章 侵略と謝罪

言うまでもないことですが、現実の国家は、現実の人間と同じように、100%善でも100%悪でもあり得ません。

相対的に言えば、他国、他民族を侵略したり、植民地化したりしたことのない、比較的に善良な国と、かつてのモンゴルや、近代のスペイン、イギリス、ポルトガル、フランス、オランダ、ロシア、アメリカなどのように他国、他民族を虐殺し、搾取した悪い国とがありますが、悪い国でも、よい面が全然ないわけではありません。

中国は侵略したり(チベットなどを)侵略されたり(イギリスや日本などに)した歴史をもつ国ですが、日本の近代史も、加害者の面と被害者の面があります。

その両方をバランスよく見るべきです。

日本がアメリカに脅迫されて屈したのも事実ですし、アジアを侵略して多くの人を殺して威張りくさっていたのも事実です。

他方、アジアは欧米にほとんど植民地化されていて、日本が戦争したことが、欧米を撃退する一つのきっかけになったということも事実です。

日本の行動も、当然のことながら、100%悪でも100%善でもありません。
そこをもっと冷静に見たほうがいいのではないかと思います。

■偽りの謝罪論

近代日本は悪いことばかりしていた侵略国家だと、日本をひたすら罪悪視する見方がありますね。

これは、東京裁判でアメリカが取った立場です。
だから、東京裁判史観と呼ばれています。

アメリカが日本をそのように見るのはわからないでもありませんが、日本人の一部にそのような見方をする人がいるのは非常に興味深い現象ですね。

彼らは、近代日本を100%悪みたいなことを言うでしょう。

日本が犯した悪事を反省し、事実を直視しているつもりかもしれないけど、やはり一面的で極端だと思いますよ。

日本人だからといって、日本の悪いところに目をつむって、ありもしない非現実的な立派な日本像をもっていなければならないことはなく、これまた逆の極端な間違いですが、日本の悪いところしか見ないというのも同じく間違いでしょう。

どうして彼らは日本の悪いところしか見ないのでしょうか。

彼らを観察してみると、彼らは、日本人の一人であるにもかかわらず、あたかも自分が日本という国とまったく関係がないかのような視点に立っているように思えます。

そして、第三者の立場から、日本の犯したさまざまな悪事を並べ立て、日本を全面的に悪だと決めつけるのですが、そうすることによって、自分は道徳的に非常に高い視点に立っているかのように錯覚しているんじやないでしょうか。

そうとしか思えないんだけれどね。
日本非難は自分の無罪証明なのです。

罪穢れのない清らかな自分と、罪と悪にまみれた醜い日本とがはっきりしたコントラストを成しています

彼らは自国である日本の罪悪や欠陥を責め立て悪口を言って喜んでいるのだから、マゾヒストではないかという説があります。

彼らをマゾヒストと見ると、いろいろ思い当たる点がないではありませんが、マゾヒストというより、むしろナルチシストではないかと思いますね。

いちばん大事なのは自分の清らかなイメージで、そういう清らかな自分が罪深く劣等な日本とかかわりがあるとは思いたくなくて、必死に日本を自分から引き離し、遠くへ追いやろうとして、日本を非難攻撃するのだと思います。

日本を非難攻撃しているとき、彼らは、みんなに向かって「俺はこいつとは関係ないんだ」と叫んでいるのです。

たとえば、社会的に成功し、お金持ちになり、白人の妻を娶って白人の社交界に入り、自分は黒人ではないかのごとく、貧しく薄汚い他の黒人たちを軽蔑する黒人がいるとしますね。

彼らはこの種の黒人と同類ではないでしょうか。

あるいは、あるグループが糾弾されたとき、いち早くそこから抜け出して、あたかも自分はそこに属したことはなかったかのように、外部の糾弾者以上に厳しくそのグループを糾弾する人がいますね。

そういう人と似ているように思うんですが、どうでしょうか。

もちろん、心から日本の犯した罪を悔い、被害を受けた人々にすまないと思っている人、真に悔悟していて、謝罪すべきだと思っている人もいます。

そういう人は、自分が直接、手を下したことはなかったとしても、日本が犯した罪を、赤の他人ではなく、あたかも自分の分身が犯したかのように感じて心を痛めています。

真に悔悟している人と、清らかな自分のイメージが大事な彼らとはとこが違うのでしょうか。

どこで区別できるでしょうか。

人間は自己欺瞞が巧みな動物なので、本人の主観は当てになりません

彼らだって、自分では心から日本の犯した罪を悔いていると思っているでしょう。

要するに、ことは簡単であって、ある人の意見が本物かどうかの基準となるのは行動だけです。
その人の現実の行動がその意見を裏付けているかどうかを見ればいいのです。

たとえば、日本から被害を受けた国の人たちのために、私財を擲っているとか、多大の時間とエネルギーを捧げているとかのことがあれば、その人の謝罪論は本物でしょう。

要するに、被害を受けた人々のために現実に役立つことをどれほどしているか、そのために自分が現実にどれほどのマイナスを引き受けているかということです。

有名な文学者とか評論家としてどれほど聞こえのいい立派な謝罪論をよっていようが(それで原稿料が稼げるし、良心的な人として有名になることもできます)、被害を受けた人々への日本国家の補償をどれほど強く主張していようが(自分の懐は痛みませんから)、そういう裏づけのない人たちの謝罪論は偽りではないかと疑っていいでしょう。

敗戦後の日本にこういう偽りの謝罪論が出てきたのには、それだけの理由があると思います。

偽りの謝罪論を唱える人たちは確かに偽善者ですが、彼らが個人として偽善者であるということだけでは説明がつきません。

それは、敗戦後の日本が、軍国主義時代の日本を、傲慢かつ愚劣な軍部に脅され強制されたとか、一時の熱に浮かされて狂っていたとかの、説明にもならぬ説明でかたづけて、あたかも現在の日本には責任がなく、現在の日本とは無関係であるかのように遠くへ押しやり、それなりの歴史的背景から生じてきた日本という国の、無視することは許されない不可欠の一部として真剣に検討することなく、敗戦前の日本と敗戦後の日本とのつながりを否定し、戦争に負けたことによって間違った過去との縁が切れ、清く正しい日本として新しく出発したなどという大いなる自己欺瞞に走ったことと関係があります。

偽りの謝罪論を唱える人たちの個人的偽善、自己欺瞞は、敗戦後の日本の大掛かりな集団的自己欺瞞の一環なのです。

だからこそ、彼らの自己欺瞞は自己欺瞞と気づかれにくいし、彼らが人気のある有名な文学者や評論家だったりし得るのです。

次回につづく)

【引用元:日本がアメリカを赦す日/第九章 侵略と謝罪/P178~】


私は昔から、「なぜ日本ばかり糾弾している日本人がいる」のか不思議に思っていました。
そしてまた、そうした連中にいかがわしさや嫌悪感を感じざるを得なかったのですが、上記の岸田秀の分析に出会って、なるほどと得心が行きました。

つまり、そういう連中というのは一種のナルシストであり、彼らの行動パターンというのは、自己欺瞞的行き方の結果現われた現象だったのであって、そのほとんどが偽物に過ぎないということです。

そうした連中の自己欺瞞や偽りの謝罪を指摘し続けた山本七平が、彼らから執拗かつヒステリックに中傷攻撃を受けたのも、こう考えてみると当然の成り行きでしたね。

とにかく山本七平のことを完全否定したがるのも、彼ら自身の(自己欺瞞に基づく)自我の崩壊を恐れる「心的防衛」に他ならないからだ…としか思えません。だから理屈が通用しないわけですが。
(そう考えるキッカケを与えてくれたのは、もちろんApeman先生なのですが…。)

そういう人間の行動を見ると、あれは在日だとか、日本人じゃないとかよく言われますが、それは短絡的な決め付けに過ぎないのではないかと。

今日はこの辺でオシマイ。次回もこの続きを紹介して行きます。


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感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~

日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)
(2005/01)
イザヤ・ベンダサン

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前回【その1】【その2】【その3】までのつづき。

前回、戦前の日本は軍国主義以下であったことを紹介しましたが、今回は、日本は戦前戦後通じて「感情国家」であること、そして、そのことが一体どのような結末をもたらすのか、ベンダサンの記述を紹介していきたいと思います。

(~前回のつづき)

確かに大本営は十二月一日に南京総攻撃の許可を現地軍に与えていた。
しかし許可は命令ではない。

さらに十二月八日に、広田〔弘毅〕外相が中国政府による日本の提案の受諾を天皇に奏上している。奏上は当時の日本では最終的決定である。

従って連絡不備のはずがない。
第一、両者とも東京にあり電話ですぐ話は通ずるはずである。

さらに軍の横暴というのもおかしい。

政府が、中国による提案受諾とこれに基づく停戦を発表したのに、軍がこれを無視して総攻撃したのなら、これは軍の横暴といいうるし世界もそう解釈する。

しかし、日本政府が、中国の提案受諾を受けとってそれを了承しておきながら、総攻撃へと向かう日本軍をそのまま放置しておいたのなら、これは日本政府の中国政府への裏切りであっても、軍部の横暴という言いわけは通らない

これが近衛・広田両氏への責任追及となるわけだが、一体これはどういうことだったのか。


■決断を下した者が、実はどこにもいない

この間の実情を最も良く知っていた近衛・広田両氏は、この問題について殆ど何も語らず世を去った。また当時の資料、新聞、その他を徹底的に分析しても、この驚くべき事件の真の原因は、何一つ出てこない。

一見原因らしく見えるもの、またこれが原因だと主張しているものも、それを更に調べれば一種の自己弁護か責任の転嫁にすぎない。

この分析の経過は余り長くなるから除くが、「提案を受諾しかつ総攻撃を開始せよ」という最も重大でかつ日本の運命を決定した決断を下した者は、実は、どこにもいないという驚くべき事実に逢着するのである。

そしてその内容は、実は「市民感情が条約に優先した」のであった。

「市民感情が許さないから、契約は無視された。感情が批准しない条約は無効であった」。

従って提案は受諾され総攻撃は開始された。
小規模なら、今も同じことが起こっている

そしてこのことを、最も正しく分析したのはおそらく周恩来であった。
彼の対日政策は、非常に的確に「まず、感情による批准」へと進められてきた
みごとである。〈注1-9〉

〈注1-9〉田中首相訪中時の会談一つとっても、外務省の高島益郎条約局長が、原則に基づいて論じようとすると、周恩来は高島局長を「法匪」呼ばわりまでして「法律論でやろうというのは間違い」と非難した。

”大事なのは心情・大義”との空気づくりをしたわけである。

この方法が成功したことは、田中首相が帰国記者会見で問題点を突かれたとき、「そこまで考えると、法匪と言われているように、すべてがピシーッと合っていないと気がすまんような……世の中はそんなものじやないですよ」と、つまり原則と”合っていなくともかまわない”旨答えたことにも現われている。


さてここでもう一度同じ意味のことを繰りかえしておかねばならない。

戦争の倫理的・道徳的責任を追及しその罪悪を告発することは、戦争の政治的原因と政治的責任とを追及してはならない、ということではない。

わかりやすくいえば、「泥棒は悪い」ということは、泥棒なるものが発生する社会的原因を追究してはならないということではない。

泥棒発生の社会的原因を追究するということは、泥棒を弁護することでもなければ、泥棒という行為を是認することでもない。

逆であって、泥棒の発生を防ぎ、かつ泥棒を捕えるために行なっているわけである。

とすると、少なくとも蒋介石による「トラウトマン斡旋案受諾」「広田外相の内奏」までは、一人の人間が泥棒という行為に至った経過、およびその直接的な原因を追究できるように、この戦争、乃至は軍事的示威の直接的な原因およびその経過と結果は追究できる。

だが、ここですべてはわからなくなる。


■南京陥落を報する新聞の狂態ぶり

なぜわからなくなるか。

その理由は「日本側の提案を受諾することを、日本側が許さなかった」という考えられぬ図式になるからである。

しかもこの提案は、ドイツ政府が、すなわち第三国が、大使の斡旋という形で、仲介者としてまた証人として、一種の保証をしていた提案なのである。

従って秘密交渉ではなく、日本は全世界の目の前で、公然と、この世にも不思議な行動をしたわけである。

一体全体日本は何を考え、何を計画し、何を目的としているのか。
この不可解さに輪をかけたものが、南京陥落直後に日本の提示した和平案である。

両案を比較すると、実質的には差がないが、驚くべきことに「賠償要求」の一項目が入っている。以後の交渉、宇垣〔一成〕・孔和平折衝、近衛三原則、これらは詳述する必要はあるまい。

自らの提案を自ら破棄した者に、交渉の資格はない

つづいて一九三九年五月十二日のノモンハンにおける日本軍の敗退、日本の対ソ軍事力を見限ったナチス・ドイツの、八月二十三日の独ソ不可侵条約調印と事態は進んで行く。

だが当時の新聞その他を見ると、日本人の、こういう事態への批判的分析力は皆無で、ただ感情的反発だけが増していく

上記の事態へのただ一つの解明点は、実は「感情」なのである

近衛公の手記に「とかく我国の外交論には感情論が多い」という嘆息がある。
公は有能な政治家ではないが、相当的確な見通しをもった「評論家」ではあった。

ところが「評論家」であるべきはずの新聞が、逆に「感情」の代弁者となった
それは南京陥落を報ずる新聞の狂態ぶりによく表われている。

ある新聞は「蒋さんどこへ行く」という嘲笑的見出しをかかけ、また祝賀提灯行列の大きな漫画を掲載している。

これらを見ていくと、「トラウトマン斡旋日本案」を蒋介石が受諾することによって南京直前で停戦することは「市民感情が許さなかった」ことが、よくわかる。

「一切の条約は市民感情が許さない限り無効である」。

従って、政府がどういう契約を結んでいようと、諸機関はそれを無視してかまわない――これが当時、言論機関を含めた全日本人が当然とする考え方であったとしか思えない。

そしてこれは今も同じであり、そのことを周恩来はすべて的確に見抜いていたことは、彼の政策で立証されている。


南京事件に関する「虚報」と、事件の本質との関係

最初、日本と中国との戦争に最も深い関心をもっていたのは、実はナチス・ドイツであった。
日中共倒れがソビエトの「漁夫の利」であることぐらいは、子供にでもわかることである。

そしてそれは必然的にソビエトによる東欧一帯への圧力加重となっていく。
一方「半睡の大国」アメリカは、最初は何ら実質的関心を示さなかった。

しかし「竜の髭を引き抜く」のが趣味の日本人は、南京でパネー号撃沈、レディバード号砲撃という非常に奇妙な事件を起こした。

どこの国の国民でも、自国の軍艦が撃沈されたとなれば、その方へ全国民の注意が集中する。

それだけではない、全世界もこれに注目する。
集中したとなれば当然、新聞・ラジオはこれの解説をする。

解説するとなれば、日本がなぜ南京を攻撃したかを解説しなければならない。

だがこの解説はだれにも出来ない、出来なければ「日本人は天性戦争が好きな好戦民族で、彼らは好きだからやっているのだ」としか言いようがない

そこへ「南京虐殺」のニュース〔日本軍の南京入城は十二月十三日〕が入る。

一方、これと合わせて日本の新聞の狂態的報道ぷりを見れば、全日本人が血に狂って狂喜しているとしか見えない

この三つが重なって描き出した像は、余りにもグロテスクであった。

戦争中、連合国側が描いた日本人像とは、ほぼこれから生まれた像である。

確かに「南京事件」には虚報が多い。
戦時中私がアメリカで調べたものの中にもその例がある。

たとえばニュース映画の中に、ぱっと一枚の写真が入る。”かくしカメラでとった恐るべき虐殺の現場”と説明がつき、黒こげの屍体が累々と横たわっている。そしてすぐ消える。

このフィルムを拡大して仔細に調べてみると、関東大震災のときの被服廠跡の惨状の写真の一部を拡大したものであったりする。

この写真は今でも「証拠」として日本の新聞に載っているかもしれない。

これらの「虚報」や虚報を事実だと強弁した記事は、事実を詳細に調査すれば自ずと明らかになることだが、しかし、たとえ事実が明らかになっても、「南京事件というのは何だあの程度のことだったのか」と言ってはならない。              

私が『諸君!』の「本多勝一様への返書」で「虚構を事実と強弁してはならない」といった理由の一つはこれである。

氏の「中国の旅」は、典型的な悪しき意味の黙示文学なのである。
黙示文学の精細な描写はすべて、実は虚構なのである。

その虚構を事実と強弁し誇大数字を並べて感情に訴えていくと、逆に、この事件の背後にある真の問題点、何度も言うようだが「ポツダム宣言に等しきものを提示しておいて、相手がそれを受諾すると通告したら、提示した本人がいきなり総攻撃を開始した」というこの問題の「核」ともいうべき事実を逆に隠蔽してしまうからである。

黙示文学から偽メシア運動へという図式は、中世にはキリスト教社会にもユダヤ教社会にも常に見られたことだが、こうなってしまうと、もう事実の真相の究明はできなくなる

事実が究明できなければ責任は追及はできない

そしてこの責任を逆に兵士すなわち民衆に転嫁し、民衆の罪だとして謝罪を命じ、命じた「自分の手は汚れていない」と暗に主張する結果になる

これが偽メシアの常套手段であって、彼らは常に民衆への責任転嫁を計り、そしてそれによって事件の「核」すなわちその実態を隠し、これによって責任を回避しつつ、しかし自分は民衆の側に立つ救世主であるような顔をする

これの例は、歴史には枚挙にいとまがない。

だが日本人ぐらい、いわばこれにだまされやすい民族も少ない――なぜか。

感情がすべてにおいて批准権をもち、黙示文学が歴史とされ、そのため簡単に宗教的暗示にかかるからである。

だが「感情」そのものの責任は追及できない。

事実、ある人が何かに対して何らかの感情を抱いたところで、「感情を抱くこと」自体には何ら責任はない。同時にこのことは、一定の感情を他に強制することも許されないということである。

というのは、この感情から行為が生じた場合、その行為はあくまで責任追及の対象たりうるからである。

だがこの場合は「感情」そのものの責任を、行為から論理的に追及することは不可能だから、ここに「純粋人の行動は責任を追及されない」という考え方が生まれ、また、いわゆる「天皇制無責任体制」という形も出てくるのである。

だが、この問題は三百年前までさかのぼらねばならないので、別の機会に譲ろう。

(後略~)

【引用元:日本人と中国人/一章 感情国家・日本の宿痾/P40~】


以下、私の雑感になりますが…。

感情に流された結果、

「提案を受諾しかつ総攻撃を開始せよ」という最も重大でかつ日本の運命を決定した決断を下した者は、実は、どこにもいない

という事態に陥ってしまう。
まさに総無責任体制そのものですね。

しかし、本当に恐れるべきは、そうした「総無責任体制」に陥った事実すら自覚できない、そしてその原因を追究することもできない、という状況に現在もあることではないでしょうか。

戦後、本多勝一を始めとする左翼が行なった「日本国民に懺悔を要求する」行為は、まさに「原因追及を妨げ、反省の意味すらわからなくさせる愚かな所業」だったわけですが、いまだにそのような懺悔を繰り返すことが反省だと勘違いしている左翼も、(Apeman氏をみればわかるように)相変わらず存在しています。

ただ、最近は潮目が変わったようで、こうした左翼の活動に反発する人たち(いわゆるネット右翼)が世の中の大勢になってきました。
田母神さんなんか、いい例です。

ただ、こうした人たちも、その反発の源になっているのは、左翼の活動に対する「感情」に過ぎず、本当に原因を追究しようとする気はまず見受けられません。

結局、「日本は良かった、悪かった」の善悪論に陥ってしまい、不毛な論議が繰り返されているように思います。

ある意味、こうした状況を許しているのも、「感情が全てに優先する国民性」だからなのかも知れません。

「感情」に拘泥しているかぎり、真の原因に迫ることは出来ないし、責任追及もできない。

このことに気が付かない限り、その時の時流に便乗した偽メシアが跋扈することは当たり前だし、戦前同様の過ちを今後も繰り返す羽目になることは間違いないでしょう。

「感情」に拘泥することの恐ろしさは、他にもあります。

それは「純粋人の行動は責任を追及されない」という考え方が是認されてしまうことです。
つまり、目的が純粋ならば、どのような手段も認められてしまう危険性にブレーキをかけることが難しくなってしまい、それが突き進めば、責任を負わすことすら不可能になってしまう。

また、ベンダサンがこの記事の中で指摘していることですが、周恩来がうまく成功させたように、日本国民の感情に批准させてしまえば、原則は無視され、相手国の思うがままに操られてしまいかねません。

それと、忘れてはならないのが、感情的に行動した結果生ずるイメージが悪すぎることですね。
南京事件当時の不可解な行動が、いかにマイナスイメージを与え、南京大虐殺というプロパガンタを生み出す背景となったことか。

単に南京大虐殺のプロパガンタに反発するのではなく、そのプロパガンタが通用する素地をつくってしまった原因について考えるべきではないでしょうか。

この点も反省すべきところでしょう。


【関連記事】
・感情国家・日本【その1】~日支事変は世界にどのように受け止められたか~
・感情国家・日本【その2】~トラウトマン和平工作はなぜ成功しなかったのか~
・感情国家・日本【その3】~戦前の日本は軍国主義以下~



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サンヘドリン規定「全員一致の議決は無効」一考/~浅見定雄の山本批判に妥当性はあるか?~

【注意】…H21.4.27追記
この記事を読む前に、こちらの記事をまず参照されたし。



以前から、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を、批判する時に必ず持ち出されるのが、浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人 (朝日文庫)」↓でした。

にせユダヤ人と日本人 (1983年)にせユダヤ人と日本人 (1983年)
(1983/12)
浅見 定雄

商品詳細を見る

私はあいにく未読であるので、浅見氏の主張が正しいかどうか今まで判断することは出来ませんでした。

ただ、アンチ山本七平から必ずと言っていいほどこの本を突きつけられたので、「へぇ~、ベンダサンの主張にも間違いがあったのか。でも、自分は、彼の日本人論の部分を評価しているだけだから、たとえ彼がユダヤ人の規定解釈で間違っていたとしても、それで以って彼の主張を否定しようとは思わないな」…程度に考えておりました。

ところで、この本から必ずといっていいほど引き合いに出される批判が、イエス・キリストが活躍していた時代のユダヤにあったサンヘドリン(国会兼最高裁判所のようなもの)の規定「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」とのベンダサンの記述なんですね。

最近よくコメントを入れてくれるApeman氏もご自分のブログ「Apes! Not Monkeys! 本館」上で、ベンダサンのサンヘドリンの規定解釈が間違っていると批判しています。
(詳細は、本人のブログ↓の下記リンクを参照されたし。)

・コピペされ続ける間違い

このApeman氏の記事を見て、このサンヘドリンの規定を巡る解釈について、浅見氏の主張というものが初めてわかったので、今日はベンダサンと浅見氏の解釈を検証して見たいと思います。

まず、浅見氏の批判の対象となった、ベンダサンの記述部分を引用してみましょう。

(~前略)

サンヘドリンというのはイエス時代のユダヤの国会兼最高裁判所のようなもので、七十人で構成されていた。

当時の法律は、いわばモーセ以来の律法が厳として存在し、問題はその解釈と適用だったから、厳密な意味では立法権はないが、新解釈には「立法」といえる面もあった。

またこの解釈と判例に基づいて判決を下したのだから最高裁判所でもあった。
イエスに死刑の判決を下したのはこのサンヘドリンである。

この判決に(新約聖書の記述が歴史的事実なら)少々問題がある。
いや少々どころではない。実に大きな誤判をやっているのである。

というのは、サンヘドリンには明確な規定があった。
すなわち「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」と。

とすると、新約聖書の記述では、イエスヘの死刑の判決は全員一致だったと記されているから、当然、無効である。

この場合どう処置するかには二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし、としている。

だがイエスの場合、このいずれをも無視して刑が執行されている。

律法の番人を自任していたサンヘドリンにしてはいささか解せぬことだが、これは私の考えではおそらくキリスト教発生時の創作だろうと思う。

というのは当時のキリスト教徒はもちろんその殆どすべてがユダヤ人であったから、彼らは、イエスの処刑は違法だと言いたかったのであろう。

事実彼らはイエスをモーセ、エリヤ、ダビデの正当の後継者と信じ、救いの主と信じていたから、違法に処刑されたと考えるのが当然であったろう。

しかし、それが、時も所も異る日本に来ると、日本人キリスト教徒のように「一人の反対もなかったということは、いかに人間が完全に罪に染まっているかを如実に示している」といった見方にかわってしまう。

(後略~)

【引用元:「日本人とユダヤ人」/六 全員一致の審決は無効/P100~】


上記引用のベンダサンの主張を箇条書きにしてみると次のとおりになるかと。

・サンヘドリンには「全員一致の議決は無効」という規定があった。

・この規定に触れた場合の処置は、次の二通りと解釈されている。
 (1)「全員一致」は偏見に基づくのだから「免訴」にする。
 (2)「全員一致」は興奮による「誤判」である可能性が高いから、一昼夜おいてから「再審」する。

・イエスの処刑は、(新約聖書の記述が正しければ)この規定に違反する。

・しかし、新約聖書の記述は、イエスの処刑を違法だと主張したい後世の人間による創作だろう。


ここで一つ注意しておきたいのが、ベンダサンの主張は、イエス・キリストの処刑(すなわち死刑の判決)を「前提」に展開されていることです。

それを踏まえて、いよいよApeman氏のブログ記事から、彼と浅見氏の記述を引用していきましょう。

まず浅見氏は『日本人とユダヤ人』の当該箇所のネタ元が『イエス時代の日常生活』(ダニエル・ロプス、山本書店!)の「もしサンヘドリンが全員一致で有罪の宣告をしたときは、判決は『繰り越しとなった』」という箇所であると推定する。

そのうえで、タルムード第4章第1節に次のような規定があることを指摘している。


死刑罪でない裁判(直訳すれば「財産の裁判」)はその日のうちに完了してよい。

しかし死刑罪の裁判は、無罪の時にはその日のうちに完了してよいが、有罪のときにはその翌日に(する)。


(『にせユダヤ人と日本人』、69ページ)


このテキストを解釈してみましょう。

タルムード第4章第1節の前段の部分「死刑罪でない裁判(直訳すれば「財産の裁判」)はその日のうちに完了してよい。」ですが、これはつまり、

・財産の裁判なら、全員一致でも決議は「有効」とする。

という解釈をすることができるでしょう。要するに、仮に全員一致で「誤判」であっても、その「誤判」を無効にする必要はない、といったところでしょうか。

続いて、後段の部分「しかし死刑罪の裁判は、無罪の時にはその日のうちに完了してよいが、有罪のときにはその翌日に(する)。」の解釈ですが、これは、次のように解釈されると思います。すなわち、

死刑の裁判が全員一致で「有罪」であったなら、「翌日に裁判をやり直す」。

浅見氏の記述を見ると、どうやら彼の解釈も同じと見て間違いないと思います。
それではここで、ベンダサンの「日本人とユダヤ人」の記述に戻ってみましょう。

この場合どう処置するかには二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし

ということは、ベンダサン説のうちの一つは、「翌日に決議をやり直す」という解釈そのものです。
つまり、サンヘドリンの規定が、翌日の再審を意味するとすれば、(ベンダサンの解釈は)なんら矛盾するものではない、ということになります。

さて、それでは浅見氏は一体「ベンダサン説のどこがいけない」と主張しているのでしょうか?
Apeman氏が引用した浅見氏の記述と思われる部分を引用して見ましょう。

死刑罪でない裁判では、全員が(被告の)有罪を主張しても無罪を主張してもよい。

しかし死刑罪の裁判では、無罪の主張は全員がしてもよいが、有罪の主張は全員でしてはならない。


(『にせユダヤ人と日本人』、71ページ)


上記の浅見氏の主張を、Apeman氏は次のように補足説明しています。

要するに死刑が科されない罪についての裁判は「全員一致」の判決でかまわないし、死刑罪の場合でも「無罪」判決は「全員一致」でかまわない。

死刑を宣告する場合にのみ「全員一致」の判決は回避されることになるが、それは「全員一致は無効だから」ではなく、(浅見氏の解説によれば)「被告人の生死にかかわる場合には必ずだれか弁護をする側に廻るよう義務づけるため」である。


このApeman氏の前段の解釈は、そのとおりだろうと私も思います。
問題になるとすれば、後段の解釈。

「全員一致は無効だから」ではなく、(浅見氏の解説によれば)「被告人の生死にかかわる場合には必ずだれか弁護をする側に廻るよう義務づけるため」である。

特に、「だれか弁護をする側に廻るように義務づけるため」という解釈は、一体元の規定のどこをどう読めば、そんな解釈が出てくるのでしょうか。

百歩譲って、そういう解釈が出来るとしても、それはベンダサンのいう「偏見」や「興奮に基づく誤判」への対処法であって、一つの手段に過ぎません。

仮に浅見氏の解釈が正しいとしても、結局、「誤判」を避ける為の措置であることは、変わりありません。違うとすれば、その結論に至る過程が違うだけです。
両者の解釈の違いを、簡潔にまとめてみました。

【ベンダサン説】
・「(死刑判決における)全員一致」の判決は「誤判」の恐れがあるから「無効」にして、翌日「再審」する。

【浅見説】
・「死刑判決」の場合「有罪ならその日のうちに完了してはならない」と規定があるから、「弁護」を義務付けるべく「再審」する。


果たして、両者の結論に違いがあるのでしょうか?結論に至る過程の解釈が違うだけではないでしょうか?

しかしながら、実際、浅見氏は、ベンダサン説を批判しています。
それでは浅見氏が、ベンダサン説を批判する根拠とは一体何なのでしょう。

それは、「財産の裁判」と「死刑の裁判」とで、処置が異なるという点だと思われます。
Apeman氏は次のように述べています。

つまり判決が「繰り越し」となるのは全員一致かどうかによるのではなく、死刑判決であるかどうかによる、ということ。


要するに、浅見氏(Apeman氏)の解釈をまとめると次のとおりになるかと。

・「全員一致」だから、「繰り越し(翌日に再審)」になるのではない。「死刑判決」だから、「繰り越し(翌日に再審)」になるのだ。
    ↓
・なぜなら「財産判決」の場合は繰り越さないと規定されている。
    ↓
・だから、ベンダサン説の「全員一致→無効」というのは誤りである。


しかし、よくよく考えてみるとこれは、単にベンダサン説を「誤読して」批判しているにすぎません。

そもそも「日本人とユダヤ人」の該当箇所を読み直してみればわかることですが、ベンダサンはサンヘドリンの規定を持ち出すにあたって、イエスの”死刑”判決を例に引いているんですね。

つまり、「死刑の判決」のケースを当然の「前提」として話を展開しており、「財産の判決」のケースについては全く言及していません。

ですから、当然、ベンダサン説における「全員一致の判決」というのは、すなわち「死刑の判決」のことと見なすべきです。

この関係をわかりやすく図示してみると次↓のようになると思います。

サンヘドリン規定フローチャート

単に順番どおりに、説明していないから「間違いだ」といっているに過ぎないのがわかりますね。

結論になりますが、浅見氏やApeman氏の批判というのは、ベンダサンの意図を(故意か偶然かわかりませんが)一切無視しており、誤って解釈するという「誤読に基づく」批判であるといっても差し支えないのではないでしょうか。

しかし、アンチ山本七平の論拠の内容を知ることが出来たのは私にとっても収穫でした。

なぜならば、「ベンダサンの主張がウソだ」と高言しているアンチ山本七平の連中の「批判の粗雑さ」を改めて確認することができたわけですから。

そういう意味では、とりあえずはApeman氏に感謝しなければならないんでしょうね。

ただApeman氏による浅見氏の引用が、正確かどうかという問題もあるので、やはり一度原典にあたる必要はあるとは思いますが…。


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【お勧め動画】ストンプ・シリーズ

いやぁ、ほんとyoutubeって、いいですねぇ~(水野晴男風)。

なんていっても、昔劇場に行かなければ見れなかった公演とかがUPされていて見ることが出来ますし。

そんな想いを新たにしたのは、1990年代を風靡したパフォーマンス「STOMP(ストンプ)」の動画を発見したからなんですが。

ちなみにストンプの意味はこちら↓

stompの意味

―【動】 【自】 《口語》 足を踏み鳴らす[して踊る] 〈副(句)〉.
―【名】【C】 ストンプ(踊り) 《激しく足を踏み鳴らしてジャズ音楽に合わせて踊るダンス》.


まあ、このストンプというのは、モップとかゴミ箱とか日常品を打楽器として用い、タップダンス・パフォーマンスを組み合わせたショーみたいなもんですけど。

まじめな日本の打楽器のパフォーマンスもいいけど、それに比べてストンプは遊び心とユーモアに溢れているところが良いですねぇ。

もう記憶も定かでないですが、ストンプの初来日公演(多分1990年代後半だと思う)を見に行ったことがありました。

最前列の席が取れて、ちょっと埃も浴びたけど、ビール缶を使ったパフォーマンスの直後、舞台上の出演者からビール缶(たしかスーパードライだった)を手渡されたのはいい思い出です。

そんなストンプのパフォーマンスを幾つかyoutubeで発見したのでご紹介。必見です。

◆ストンプの原点ともいうべきモップブラシを使ったパフォーマンス↓。これ好きだなぁ。
【Stomp - Brooms】



◆この棒をつかったパフォーマンス↓もシンプルで素晴らしい。
【Stomp - Poles】



◆こういう現場↓を使った作品は、クールで良いねぇ。
【Stomp out Loud - Kitchen】



◆これ↓は舞台で見たことなかった。
【STOMP - Basketball】



◆様々な(日用品の)楽器が楽しめる一品↓です。
【Stomp- Stomp Out Loud】



◆舞台でもやっていたけど、ビルの屋上ってシュチュエーションがいいですねぇ。
【Stomp!】



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ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なくテポドン2ぞ飛ぶ(字余り…orz)

今日はいい天気に恵まれたので、川越水上公園に花見がてら、インラインスケートしてきました。
姪っ子から息子にお下がりのインラインスケートを貰ったので、早速履かせて見たけれど…。

うちの子供ときたら、転んで起き上がるのにも四苦八苦していて、滑るどころじゃなかったなぁ(苦笑)。
結局、お手手つないで引っ張るだけで終わってしまった…

どうも母親に似て、運動神経なさそうで心配だ(つっても、自分もそんなに運動得意じゃないけどね)。



それはさておき、こんな春ののどかな一日なのに、北朝鮮のミサイル騒ぎでTVは喧しかったですね。
ネット上でも、MD論議とか、先制攻撃論議とか盛り上がっているようで。

そうした議論を見ていて思うのは、どうして批判の矛先を日本に向けるのだろうってこと。

そりゃ、社民党の福島みずほたんのような的外れの批難は論外ですが、誤報を槍玉に挙げたり、今更、北朝鮮と対話しないことを責めてみたり…と矛先がちとおかしいような気がします。

日本政府が大騒ぎしているのは、危機を煽って憲法改正しようとか、この危機に乗じて軍需産業が一儲けしようとしているだからだとか、随分と穿ち過ぎじゃないの。
被害妄想というか、日本政府悪玉論を展開するのは、いい加減にして欲しいよ。

そういう風に、どうしても自国政府を責めずにはいられない人たちって、どうも対案を真剣に考えていないような気がしてならないね。そのくせ批難だけはいっちょ前。

そもそも、大騒ぎしているのはマスコミであって、日本政府が煽っているとはとても思えない。

もちろん、これで憲法9条とかに幻想を抱く人間が減ってくれるのはいいことだけど、逆に核武装論とかに走ったりしたら、それはそれで困りものですけどね。

こうした考えのひとは、極端から極端へ走りかねないような気もするし…。


それはさておき、北朝鮮の主張するような「衛星」というのは、軌道に乗らなかったらしいし、日本の本土には落下物がなかったようだし、アメリカに届くには距離が短すぎたようで、とりあえずは良かった。

少なくとも、今回の実験で、北朝鮮がアメリカ本土を狙える長距離弾道ミサイルを完成させたということは出来なかったということになるの…かな。

従って、今現在のところは、万が一日本が北朝鮮からミサイル攻撃を受けても、アメリカは自国への反撃を恐れる事無く、日米安保を発動できるってことになるでしょうし。
(その点、中国の場合は、アメリカも実際どう行動するか怪しいと思いますね。そういう意味では、まずアメリカをあてにしない防衛態勢を築きあげるしかないと思うのですが…。)


そんなことをふと考えたわけですが、今日の春の穏やかさと、ミサイル騒動との対比というものが非常に印象的な一日でした。


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感情国家・日本【その3】~戦前の日本は軍国主義以下~

日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)
(2005/01)
イザヤ・ベンダサン

商品詳細を見る

前回【その1】【その2】のつづき。

前回はトラウトマン和平工作について紹介しましたが、日本が自ら依頼した和平工作を自ら蹴ったことが、当時の世界にどのように映ったかについてベンダサンの記述を引用していきます。

前回のつづき)

■世界が首をひねった日本の戦争

ここまでの日本の行動は一応だれにでも理解できる。
もちろん理解できるということは、その行動を是認できるということではない。

簡単にいえば、泥棒が押し入って来て金を出せといった、金を出したらそれを受け取って泥棒は去って行ったのなら、この行動は一応理解できる。

同じように日本軍が押し入って来て「満州国承認を出せ」といった、そこで中国政府がそれを出したら、日本軍はそれを受け取って去って行った、というのなら、その行動は一応理解できるという意味である。

ところが、金を出せというから金を出したところが、相手はいきなりその金を払いのけておどりかかってきたら、この行為はもう「泥棒」とはいえない

さらにそこに坐り込んで動かなかったら、これはもう「泥棒」という概念では律しきれない行為で「狂人」とでも規定する以外にない

従って彼の行為を泥棒と規定しうるのは、相手が「金を差し出した」時までである。ここで泥棒という行為は終わったはずである。

私が、「だれが考えても、これで戦争は終わった」というのはその意味である。
従ってここまでは「戦争」として理解できる、というのはその意味である。

日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片づきそうであった。

中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。
事実、中国政府が承認したのに、非承認を固持することは意味がない。

「シレジア領有確認戦争」と同じように、これで「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。

何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。

これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蒋同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる。

さらに日本の満州領有の列強の確認によるその安定化は、新しい重機械の輸出市場の育成という面でも、彼らにとって大変に魅力あることであった。

満州大豆と重機械の取引は、彼らにとって余程うまみのある商売だったらしく、それから半世紀もたっているのに、エアハルトが訪日の際、ふとこのことを口にしている。

その言葉の奥に「当時のあれはよかった」という感情が見えている。
当時おそらく彼らは、日中停戦後の計画、主として経済計画を練るのに忙しかったであろう。

だがここに、全く、想像に絶する事件が起こった。

ポツダム宣言を受諾する」といったところが、そのとたんに九十九里浜に米軍の大軍が上陸して東京になだれ込んだといった事件である。

一体全体これを、どう解釈すれば良いのであろうか。

この最も不思議な点については、今回の「田中訪中」の前に、日本の新聞・雑誌その他がもう十分に論じつくしていると思っていたのだが。……まあ、参考までに私見をのべておきたい。

この驚くべき背信行為の複雑怪奇さは到底「独ソ不可侵条約」の比ではない。
独ソ不可侵条約」を複雑怪奇というなら、これは一体何と表現したら良いのであろうか。

狂気であろうか。

さまざまな解釈は、すべて私に納得できない。
十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。

しかし日本側は軍事行動を止めない。
それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?

通常こういう場合の解釈は二つしかない。

一つは、日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。

これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは、ほかに解釈の方法がないから)が、どう考えてもこの解釈は成り立たないのである。

もし「欺かねばならぬ側」があるとすれば、それはむしろ中国政府で、「日本の提案を受諾します」と言って相手の進撃をとどめ、その間に軍の再建整備を計った上で、相手に反対提案をし、それを受けつけねば反撃に出る、というのなら、これも一応理解はできる。

日本側が欺いたとすると、昭和十年十月七日の三提案がすでに詐術であり、トラウトマン和平工作なるものも、実は、何らかの隠された目的のための詐術だということになり、トラウトマンもナチス・ドイツ政府も、日本政府に踊らされていた、ということになるが、この解釈はあらゆる面から見て無理である。

さらにもしそうなら、後から振り返って見れば「なるほど、日本はああいう意図を秘めていたのか」という思い当たる節が必ずあるはずなのだが、これが皆無である。

結局、当時の世界の、この事件へのやや感情的な結論は「日本人は好戦民族なのだ」ということであった。

これに対する日本人の反論は、常に「歴史上、日本人ほど戦争しなかった民族はない、だからそうは言えない」ということであった。

しかしこれは反論にならない

戦争は通常、だれでもある程度は理解できる理由がある。

もちろんその理由は「泥棒にも三分の理」に等しい理由で、理由がわかったからといってその行動が是認できるということではないが、少なくとも、理由がわかれば、たとえそれがその場限りの理由にせよ、その理由を除く方法を相互に探究できる。

だが理由が全くわからないと「彼らは、戦争が好きだから戦争をやっているのだ」としか考え得なくなるのである

従ってこれへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。

それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽として、たしなんでいたのだ」という批評は、甘受せねばならない

しかしこういう行為は、通常の意味の「戦争」の概念には入らないと私は思う。


■戦前の日本は、「軍国主義」以下

最近は余り聞かれなくなったが、いわゆる日本における「軍国主義復活論」に、私は一種の不審感をもっている。

戦前の日本に、はたして軍国主義があったのであろうか

少なくとも軍国主義者は、軍事力しか信じないから、彼我の軍事力への冷静な判断と緻密な計算があるはずである。

確かにナチス・ドイツは、ソビエトの軍事力への判断と計算を誤った。
しかし計算を誤ったことは、計算がなかったことではない。

ある意味ではスターリンもすぐれた軍国主義者であった。「法王は何個師団もっていますか」という彼の言葉は、思想の力を全然信ぜず、軍事力だけを信していた彼を示している。

日本はどうであったか。

中国の軍事力を正確に計算したであろうか。
そして正確に計算したつもりで誤算をしたのであろうか。
一体、自らが何個師団を動員して、それを何年持ちこたえうると計算していたのであろうか。

米・英・中・ソの動員力と、自らの動員力の単純な比較計算すら、やったことがないのではないか。
私の調べた限りでは、こういう計算は、はじめから全く無いのである。

否、南京攻略直後の情勢への見通しすら何一つないのである。
否、何のために南京を総攻撃するかという理由すら、だれ一人として、明確に意識していないのである。

これが軍国主義といえるであろうか。いえない

それは軍国主義以下だともいいうる何か別のものである。

恐ろしいものは、実はこの「何か」なのである

(~次回に続く)


日本は軍国主義以下という評価は、概ね妥当な評価だと思います。
当時の日本の行動は、とても軍国主義者の冷徹な計算に基づく行動ではなく、突発事件に対する感情的な反発を基にした「行き当たりばったりの反応」に過ぎなかった印象がぬぐえません。

引用文中に、「私の調べた限りでは、こういう計算は、はじめから全く無い」という記述がありますが、これはいささか誤解を招く表現かもしれないので、私なりの解釈を述べておきます。

もちろん、当時の日本にも冷徹な計算を行なった人間はいたはずです。
ただ、そうした専門家の意見というのが、全く聞き入られなかった。そういう意味で「計算がなかった」という評価になるのだと考えます。

次回は、そうした行動の基になった「感情」についてベンダサンの記述を紹介していこうと思います。

【関連記事】
・感情国家・日本【その1】~日支事変は世界にどのように受け止められたか~
・感情国家・日本【その2】~トラウトマン和平工作はなぜ成功しなかったのか~


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