一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

名曲紹介:ショスタコーヴィチ交響曲第6番第二楽章

今日は、久しぶりに音楽ネタを。
最近、久しぶりに聴き直して、やっぱりいいなぁ…と思ったのが、ショスタコーヴィッチの交響曲第6番。
ショスタコの代表作といえば、やっぱり第5番なんだろうけど、この第6番は通好みが気に入る曲のような気がします。

不協和音的な響きが多いので、なかなか最初はとっつきにくいのですが、聴き込むとその躍動的なリズム感のとりこになるんです。

特に第二楽章の張り詰めた感じで盛り上がっていく感じがたまらない。
youtubeで検索したら、下記の動画↓があったのでご紹介。
結構、テンポの良い指揮ぶりだったので気に入りました。
◆D. Shostakovich - (3/4) Symphony No. 6 in B minor, Op. 54 - II. Allegro



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ある異常体験者の偏見【その6】~「確定要素」だけでは戦争できない日本~

だいぶ遅くなってしまいましたが、以前の記事『ある異常体験者の偏見【その5】~「精神力」対「武器」という発想→「地獄の責め苦」~』の続き。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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前回のつづき)

もちろん不確定要素の皆無な対象はないし、最初にのべたように精神力といった一種の力の存在は否定できない。

しかしそれは極力正確に確定要素に換算しなおすべき対象である。

マッカーサーが「天皇は十二個師団に相当する」と言ったそうだが、私はこの言葉を他の人のように解さない。

彼はただ、天皇という不確定要素を一応十二個師団という確定要素に換算しただけだと思う。
この換算は正しいかどうか知らない。

しかし、日本と戦う場合、その総兵力を計算するにあたって、天皇という不確定要素を十二個師団に換算して、それをプラスして計画をたてるべきだという事実をのべたにすぎないと思う。

これが不確定要素の確定要素への換算と組み入れということで、この場合の問題はただ、この計算が正しいかどうかということだけである。

だが天皇や精神力をこのように師団数に換算した日本の軍人を私は知らない。

彼らにはそういう発想は全くなかった

またスターリンが「法皇は何個師団もっていますか」と質問したのも、おそらくその趣旨は、その影響力を師団に換算すれば何個師団ですか、の意味だと思う。

そして毛沢東にもこの発想が絶えず出てくるのである。
そしてそれが当然だと私は思う。

彼らは絶対に「不確定要素」対「確定要素」などという無意味なバランスシートを作りはしない

しかし昭和十七年、私か陸軍二等兵であったころ、こういう発想は、全くなかった。

不確定要素を極力、確定要素に換算しようなどという考えは文字通り皆無で、すべての人が「精神力」対「武器」、「民衆のもえたぎるエネルギー」対「武器」という発想を、当然自明のこととしていた。

もちろん新聞人とて例外でない。
内心おかしいと思った人は確かにいたであろう。

しかし前述のように、この発想とそれに基づく思考図式は、議論の対象たりえないから、何とも出来ないのである。

一体なぜこの発想がこんなに完全に浸透し定着したのだろう。

多くの人は日露戦争の影響をあげている。
日露戦争の”勝利”を「精神力」対「強大な武器」という安易な形で捕え、戦勝に酔って厳密な検討を忘れ、それをそのままズルズルと太平洋戦争までひっぱって来たからだという。

確かに日本軍は、日露戦争から日華事変まで、実質的には戦争をしていないから、そういえるかも知れない。

さらに徴兵制度によって軍隊が一種の教育機関=成人学校のようになり、また在郷軍人の影響などもあって、この思考図式が全日本人に浸透して、他の考え方をさせないまでになった、ともいわれる。

しかし理由はそれだけではあるまい

日本は、確定要素だけで正確に計算したら、昔も今も、絶対に戦争が不可能な国のはずである。

従って戦争を考える場合、不可避的にこの発想の中にはまり込んでしまうからだろう。

そして、そのため日中の戦争を考えた場合も、知らず知らずにこの思考図式を裏返して日中にあてはめてしまうのである。

しかし私は、この発想は非常に危険だと思う。

というのは、日本人に再び戦争をさせる思考図式があるとすれば、それは、この発想からしか生れないからであり、こう考えない限り、「いくさはデケン」からである。

この裏返したものをまた裏返せば、日本の「民衆のもえたぎるエネルギー」が、どこかの国の「強大な武器」を圧倒しうると考えることが可能になるからである。

従ってこの思考図式を、どこの国にあてはめようと、日本対ロシアであろうと、中国対日本であろうと、北ヴェトナム対アメリカであろうと、その図式は、いつしか自らにあてはまるであろう。

というのは、この図式はもともと日本人のものであり、日本人が勝手にその図式を他国にあてはめているにすぎないからである。

いわば、どこかの国に日本を仮託しているにすぎないから、いずれは自らに帰ってくるはずである。

そのとき一体どうなるか――

それは無駄な心配といわれるなら大変に結構だし、体験者の「偏見」ならそれはそれでよい、「飛行機はそう落ちるもんじゃありませんよ」かも知れぬ。

しかし、全くそれと意識せずに冷戦を予告していた場合があったように、それを口にしている人がそれと知らずに熱戦を予告している場合があっても、それは私にとっては不思議ではない

そして勝手に仮託したり、裏返しにして投影したりした国々の発想自体は、日本人のこの発想とはおそらく別だと思う。

新井氏は「深い反省からこそ多くのものが生れる」と言っておられる。
心から賛成する。

しかしそれは、日本を戦争にと向わせた基本的発想とそれに基づく思考図式を徹底的に検討すると共に、そういう思考図式を現実にあてはめて強行されるとどのような恐るべき惨劇を引き起したかをあらゆる面で調べあげることであっても、この思考図式を裏返して日中関係にあてはめることではないと思う。

私には、この裏返しあてはめのケースが非常に多いように思われるので、いずれ個々に例をあげて、その発想と思考図式を検討してみたいと思うが、その前に、新井氏の反論の中で、もう一つ検討しておかねばならぬ点は、氏のあげている確定要素すら果して事実かどうかという問題である。

氏のバランスシートは、「強大な武器をもった日本」という確定要素と、「民衆のもえたぎるエネルギー」という不確定要素との対比という形になっているが、この「強大な武器をもった日本」という前提は正しいのか。

戦争中、新聞は確かに「強大な武器をもつ、無敵の精鋭日本軍」という虚像を作りあげた。

しかし虚像はあくまでも虚像であって事実ではない

この自らが勝手に作りあげた虚像をあくまでも事実で押し通し、それを一方的に「確定要素」にしてしまっては、そのバランスシートがいかに帳尻が合っていても、それは所詮恣意的に帳尻を合わせた「虚像」と「不確定要素」の対比にすぎない。

それは無意味である。

そこでまず次に、日本軍なるものの中で「精神力」という一種の力をもっていたはずの人とその人がもっていた「強大な武器」の実体が実際はどういうものであったかを順次に検討していきたいと思う。

が、その前にまず虚像と実像を簡単に分別しておきたいと思う。
これをしておかないと、おそらく何の話も通じないであろうから。

(ある異常体験者の偏見の章/終了)

【引用元:ある異常体験者の偏見/ある異常体験者の偏見/P24~】


私は上記の記述を読むと、いつも自主独立とか反米を気安く叫ぶ人たちを連想します。

果たしてこの人たちは、確定要素を計算できる能力があるのか?非常に疑問に思うのです。

特に、左翼と言うのは反米がデフォルトですから、必然的に「自主独立」とならざるを得ないと思うのですが、彼らの「自主独立」とは、何の覚悟も痛みも伴わない「お友達みんなとお手手つないで仲良くしましょ」というだけの”オママゴト”レベルなんですよね。これでは、確定要素なぞ最初から計算外であるのでしょうけど。

そういう人たちほど「平和」を叫ぶのだから、支離滅裂もいいところです。

日本の確定要素を無視して平和を叫ぶことは、再び日本に戦争させる「思考図式」のひとつといえるのではないでしょうか。

一方、右翼の側にも、反米的な人がいますが、そうした人たちほど「自主独立・核武装」を安易に唱えます。

こうした人たちも、日本の確定要素を正しく把握しているとはとても思えない。

いくら核武装しようが、海外との交易路が断たれたら日本は干上がるという前提には変わりが無いのに…。

それと、自主独立とは周り全てを敵に廻す覚悟が無ければ到底かなわないものですが、それを唱えている当人にその覚悟があるとはとても思えないところも不安ですね。

結局のところ、日本が生きていく道は唯一つ、現在の自由貿易体制を維持発展させていくしかないはずなのです。

そのためには、過去記事「鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。」において山本七平の記述を紹介したように、米国の矛盾極まりない無理難題な要求をある程度は受け入れる”覚悟”をしておく必要がどうしても出てきます。

以下、その記述(引用元:危機の日本人)を抜粋引用して終わります。

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◆一貫性のないアメリカの主張

確かに、アメリカはアメリカの債務国で赤字国である国に対しては「お前の責任だから何とかしろ」と要求しつつ、一方、アメリカの債権国で黒字国である日本に対して、「お前の方でこの黒字を何とか解消しろ」という。

これはまことに得手勝手な話であって、その態度には論理的な一貫性はない。

だが、この矛盾を徹底的に追究したらどうなるであろうか。

もちろん双方にさまざまな言い分があるであろうが、要約すればそのときの相手の言い分は、「そう主張するなら、お前は自由主義世界の安全と秩序に全責任を負う『御威光国』になれ」ということ、簡単にいえばアメリカの肩がわりをせよということである。

だが日本はその責任を負う気はないし、負うことも不可能である。

まことに残念なことだが、「今の掟」では、経済力だけでは御威光国にはなれず、軍事力を持つことを要請される。

では日本はアメリカの軍事力を肩がわりする気はあるのか。

全然ないし、第一それは不可能であり、そんなことをすれば経済的に破綻して、元も子もなくしてしまう。

ということは、自らの責任において秩序を保持し、それをあたかも自然的環境のように自分の責任で守る意志は日本にないということである。

その場合は「御無理、御もっとも」として、御威光国の秩序維持に協力すること以外に、方法がない

日本は決して過去の失敗を繰り返してはならない

「御威光国」は経済力と軍事力のみならず科学技術をも含めた総合的国力を要請される。
過去の日本は経済力なしに、軍事力だけで「御威光国」になれると夢想した。

否、妄想をしたと言ってよい。

現在もしその逆、すなわち軍事力なく経済力だけで「御威光国」になれると妄想したら、同じ失敗をくりかえすであろう。

もちろん、そんな妄想は今の日本人には毛頭ない、という人もあろうし、事実、ないのかも知れない。

しかし、経済力は持っても政治には一切無関係といいうるのは個人のみであって、国家はそうはいかない。

というのは、自らにその意志がなくても、日本の経済力がアメリカの御威光を損ずる結果になれば、日本がまるで自然的環境のように依存している現在の体制を崩壊させる恐れがあるからである。

もちろん、崩壊させて、自らの意志に基づく新しい体制を樹立する意志と計画があるなら別だが、そうでないなら、自らも発展しつつ同時に、その発展を可能にしている政治的・経済的環境を維持していくにはどうすべきかを考えるべきで、そのためには、実に矛盾した相手の要求を受け入れる覚悟をしておくことが必要であろう。

というのはその矛盾は、実は日本に内在しているからである。

だがこういっただけで反発を生ずるかも知れぬ。
というのはこういう考え方は、日本人の伝統的な機能至上主義的発想とは相容れない。

というのは、機能すること自体に価値を置くから、最大限に機能を発揮してきたことを一転して否定され、その成果も努力も無にされることに日本人は耐えられない。

それまで高く評価されていたことが、一転して罪悪視されるという結果を招くことを、日本人は理解しないし、しようともしない。

また、相手のきわめて非論理的な態度に、強者の圧力を感じて釈然としないが、それに変る自らの提案もしない。

確かにベン=アミ・シロニー教授の指摘するように、アメリカの態度はまことに論理的に一貫しないのである。

ではそれに応ずるのはなぜか。

過去において似たような問題はしばしば出て来ているが、その間、戦前・戦後を通じて一貫しているのが、次の言葉であろう。

政府の弱腰、アメリカベったり、対米媚態外交、等々々

だがそういいながら多くの場合、日本は屈伏する
すると屈伏の連続が屈辱感となり、それがある程度たまって来ると、どこかで爆発する。

これは簡単にいえば、そのとき自分がなぜそれをしなければならないかを明確に意識せずに、「無理難題に屈伏させられた」「外圧に敗れた」と受けとっても「自分がそれによって発展して来た環境を、その発展のゆえに破壊することがあってはならない」と考えないからである。

ではそう考えずに、屈伏・屈伏の屈辱感から、あくまでも屈伏せず、外圧をはねのけたらどうなるか。

自らがそれに即応することによって維持・発展してきた環境を自ら破壊して、自らも崩壊する結果になってしまうことになる。

◆論争をしない日本

もっとも現代の日本にはまだその徴候は現われていない。
現われていないから安心だと言えるであろうか。

実はそれが言えないのである。

ベン=アミ・シロニー教授の言う通りアメリカの主張は理不尽である。

こういう場合ユダヤ人なら徹底して相手に論争を挑むであろう。
そして一つでも譲歩すれば、別の面で相手に何かを譲歩さす。

だが日本人はそれをしない。
またはっきり言って出来ない。

シロニー教授のように、相手の理不尽を相手の論理でつかむという術にたけていないからである。
彼らはこれを反射的に行いうるが、それは伝統の違いであって、日本人にこのまねはできない。

しかし日本人は、言葉にはならなくてもカンは鋭いから、何となく、納得できないという気持は抱いている。
だが、それがしだいに蓄積して来ると、いつかは爆発する。

日本人がよく口にする「今度という今度はがまんならない」が出てくるのである。

これが出てくるのは非常に危険だから、以上のように整理して、日本が何が故に理不尽な要求に従わねばならぬかを、はっきり納得しておく必要があるであろう。

【引用元:危機の日本人/第四章 未来への課題/P200~】



【関連記事】
◆ある異常体験者の偏見【その1】~日本を破滅に追い込んだ「思考図式」~
◆ある異常体験者の偏見【その2】~二通りある「負けるべくして負けた日本」~
◆ある異常体験者の偏見【その3】~戦争を引き起こす『確定要素』対『不確定要素』という構図~
◆ある異常体験者の偏見【その4】~砲兵が予告した「冷戦時代」の到来~
◆ある異常体験者の偏見【その5】~「精神力」対「武器」という発想→「地獄の責め苦」~

◆鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。


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尖閣デモ報道に思う/~日本のマスコミは報道機関ではなく「宣撫」機関~

ええと、もうだいぶ前の話題になってしまいましたが、たしか10月2日に最初の尖閣デモがありましたよね。
その後のマスコミ報道に注視していたのですが、そのデモをまったく報じない大手マスコミ(全国紙・主要テレビ局)の姿勢には、(予期はしていたものの)ちょっとショックを覚えました。
第2回目の尖閣デモ(10月18日)の時にも、1面で取り上げたのは産経新聞(しかも、デモ参加者人数が水増しならぬ間引きされ矮小化されていた)だけだったみたいです。

こういう状況をみると、改めて日本には、「報道の自由」が存在しないこと。及び、日本のマスコミが報道機関ではなく「宣撫機関」である事を痛感した次第です。

今回の現象は、果して何らかの報道協定があって報道しなかったのか、それとも、マスコミ各々が自主規制した結果、こうなったのか?
素人には何とも判断がつきませんが、いずれにしろ、結果として、大手マスコミが一致する行動を取ったというのは、日本のマスコミが持つ一つの大きな特徴、「附和雷同性」というものを浮き彫りにしたと思います。

そんなマスコミの附和雷同性について、先日不帰の人となった小室直樹の言葉をちょっと紹介しておきましょう。

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(~前略)

日本のマスコミほど、デモクラシー諸国のマスコミからほど違いものはあり得ないからである。
日本のマスコミの附和雷同性は世界に冠たるところ

全体主義国家だって及びもつかない。
かの中国報道についてはまだ記憶している人もあろう。

日本のマスコミはよく、『世論はこうだ』『世論によれば……』なんていう。
しかしこれぞ、デモクラシー国家においてあり得べからざる表現である。

このことを真に理解するためにクイズをひとつ。
『世論』を英訳してごらんなさい。

The public opinion
いや、これは全体主義国家です。
日本人はたいがい、こう思いこんでいるからこそ、右のような表現が出来るのです。

デモクラシー諸国における世論は、常に複数 public opinionsでなければならない。
大賛成から大反対まで、さまざまなヴァリエーションがあり、どの少数意見も尊重されなければならない。
それゆえ、『世論はこうだ』という表現はあり得ないのである。

(後略~)

【引用元:「派閥」の研究/納得治国家・日本/P55】


上記記述を一つ読んでみても、昔から中国報道については、マスコミの自主規制というのが働いていたということがよくわかりますね。
ネットが普及した現在、今回のように「マスコミの自主規制」が露わになったことは、国民がマスコミの洗脳から逃れる良いキッカケになったと思います。

ところで、小室直樹が指摘しているマスコミの「附和雷同性」と日本人が『世論はこうだ』という”思い込み”には、少なからず関連があるのではないでしょうか。
よく考えてみる必要がありそうです。

それはさておき、今回の一件で、もう一つ考えられるのが、今回の”現象”には、日本のマスコミが本質的に持つ「宣撫」体質が関係しているのでは…という事です。

山本七平が「ある異常体験者の偏見」の中で、「戦前戦後を通じて日本のマスコミほど優秀な宣撫機関はない」と指摘しているのですが、果たしてこのことに気付いている日本人はどれだけいるのでしょうか?
そこで今日は該当部分を以下、抜粋引用して紹介していきます。


ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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(~前略)

言うまでもなく民主主義の原則は言論の自由である。
そして言論の自由の前提は、多種多様な視点からするさまざまな情報の提供である。

マック(註1)この根本を完全に抑えた
(註1)…GHQ最高司令官マッカーサー(wiki参照)の略称。

戦争直後人びとは言論が自由になったように思い、戦争中のうっぷんを一気に吐き出すことを、言論の自由と錯覚していた。

しかしその背後には、情報の徹底的統制と直接間接の誘導・暗示、報道・論説という形の指示があり、人びとは、それを基本にして声を出しているにすぎなかった

そういう形の言論の自由なら、どこの占領地にもあっただけでなく、大いに奨励された。
これが宣撫工作である。

この方法を言語論から見て行くと非常に興味深い。
パウル=ロナイ教授が『バベルヘの挑戦』の中で、言葉には「伝達能力」があると同時に「隠蔽能力」があることを指摘している。

あることを知らせないために百万言を語る(これも宣撫工作の原則の一つだが)という最近の一例をあげれば「林彪事件(註2)」の報道であろう。
(註2)…1971年9月13日に発生した中華人民共和国の林彪中国共産党副主席による、毛沢東主席暗殺未遂事件及びクーデター未遂、その後の亡命未遂事件のこと。(wiki参照

すなわち「林彪事件の真相」を知らせないために多くの報道がなされた。

これは少しも珍しいことでなく、戦争中もプレスコード(註3)時代も絶えず行われていたことで、現在では外電との対比が可能で外国の新聞も買えるから、その報道の真実性に人びとが疑問をもつだけで、情報源を限定してしまえば、「報道することによって、事実を隠蔽する」ことは、実に簡単にできるのである。
(註3)…大東亜戦争後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(以下GHQ)によって行われた、書物、新聞などを統制するために発せられた規則。これにより検閲が実行された。(wiki参照

従って情報の根元を統一して一定の枠を設け、その中で「言論」を自由にしておくということは、プレスコードというマックの網とタイコの下で「自由」に動いている猿まわしの猿と同じ状態にすぎないわけである。

(~中略~)

プレスコードによって情報源を統制してしまえば、あとは放っておいて「自由」に議論させればよい。
そしてその議論を誘導して宣撫工作を進めればよいわけである。

この点日本の新聞はすでに長い間実質的には「大日本帝国陸海軍・内地宣撫班」(と兵士たちは呼んだ)として、毛沢東が期待したような民衆の反戦蜂起を一度も起させなかったという立派な実績をもっており、宣撫能力はすでに実証ずみであった。

これさえマック宣撫班に改編しておけば、占領軍に対する抵抗運動など起るはずはない、と彼は信じていた。

これは私の想像ではない。
私にはっきりそう明言した米将校がいる
そしてそれはまさに、その通りになった

「史上最も成功した占領政策」という言葉は、非常な皮肉であり、同時にそれは、その体制がマックが来る以前から日本にあり、彼はそれにうまくのっかったことを示している。

(~中略~)

新聞は新しい「権力」だなどといわれるが、「新しい」は誤りで、戦争中から、最高の権力者であった

プレスコードで統制された新聞とは、連合軍最高司令官の機関紙に等しいから、これを批判することは「占領政策批判」であり、そういうことをする者は、抹殺さるべき「好ましからぬ人物」であった。

(~中略~)

そして人びとは、言論の自由があると錯覚させられており、プレスコードの存在すら知らないままでいた。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の偏見/洗脳された日本原住民/P224~】


上記の引用部分を読むと、日本の”宣撫機関”を見事に活用したGHQの宣撫工作と言うのは実に巧みで、敵ながら天晴れとしか言いようがありませんね。
今ですら、こうしたGHQの宣撫工作のコントロール下にいる人も多そうです。

ここでは、宣撫工作についての山本七平の解説を、だいぶ端折って紹介したのでわかりにくい点もあるかもしれません。
いずれこの宣撫工作について詳しく書かれた「洗脳された日本原住民」の章については、改めて取り上げていきたいと思いますが、とりあえず日本における宣撫の手口については、「荒っぽい言論弾圧ではなかった」という点を、記憶に留めておく必要があると思います。

これを見てわかるように、昔から日本のマスコミは「事実の報道」機関ではなく「宣撫」機関的体質を濃厚に持っているわけですね。
国民に知らせる事、知らせない事を、マスコミが取捨選択して報道する。
国民を信頼せず、宣撫して善導すべき対象としてしか見ていないのです。

昔から日本の最高権力であった故の”傲慢さ”が、そういう態度を取らせているのかも知れません。

でもどうして、国民はそうしたマスコミの「宣撫工作」を受け入れてしまうのでしょうか。
私が思うに、情報を受け取る国民の側に根強くある「公平中立純客観的な報道が存在する筈だ」という”思い込み”が作用しているからではないでしょうか。

「人は偏り見るもの」という前提を持っていないから、公平中立を謳い装うマスコミの主張を無批判に受け入れてしまう。
若しくは、マスコミの主張が偏っているのではと感じつつも、どこかに別の(あるはずもない)公平中立な立場のマスコミがあると信じているからではないでしょうか。

また、過去記事『アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~』でも紹介したように、「編集の詐術」について警戒心が薄いことも影響しているのかも知れません。

いろいろと考えて見る必要がありそうですが、その際、ネットというのは非常に手助けになるツールですね。
そう考えると、今後ディジタル・ディバイドをなくしていくことが結構重要になってきそうな気がします。

尖閣デモを巡る報道を見ながら、そんなことをつらつらと考えた次第。
まとまりませんが今日はこの辺で。ではまた。

【関連記事】
◆違和感のある情報を受け付けようとしない「体質」について考える
◆アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~


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「法」治社会でも、「人」治社会でもない、「納得」治社会にっぽん

最近、小沢擁護派の声が喧しい。
まさにノイジーマイノリティ特有のけたたましさですよね。

彼等の言い分をみていると決まって検察/検審ファッショだの素人による公開リンチだの小沢を排除する為の陰謀だの唱えています。
そして、必ず次のように結論付けます。

今の日本社会は法治社会ではない。人権がいつ踏みにじられるかわからない人治社会なのだ」と。

まぁ、確かにある特定の視点に立てば、彼等の云うような側面は否定出来ません。
事実、起訴イコール罪人と見なされてしまう現象が存在することは過去にもあったことだから。

しかし、彼等の見方はいささかバランスを逸していると思う。
それは彼等の主張のほとんどが、彼等以外の人達が小沢一郎に対して抱いている数多くの疑問に全く答えていないことを見ても明らかでしょう。
それでいながら、検察サイドやマスコミサイドの落ち度を責める事ばかり汲々としている。

小沢擁護派の手にかかっては、小沢一郎の政治資金疑惑など、単なる手続きミス以外の何物ではなく、その主張を見ていると、まるで小沢一郎が全くの善人・無垢の犠牲者であるかのような錯覚さえ抱かざるを得なくなるほど。

もちろん、世の中、ひどい偏見を持った人間は幾らでもいます。
ただ、そうした人間が主張する「日本は法治社会ではない」という主張は果たして妥当なのでしょうか?

確かに彼等の指摘は、ある面では頷くことが出来ます。
ただそれは、多面的な物体のうちの一面を指摘したに過ぎません。

以前にも過去記事「感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~」で、ベンダサンの「日本は感情国家である」という指摘を紹介したように、いくら外国と条約を批准しようと、日本国民の感情に批准させなければ無効とされてしまう一面を、日本社会は持っているのですから、彼等の指摘も当たっていることは当たっているのです。

要するに、感情的に納得できない限り、いくら法的に正当な行為であっても、手続きに落ち度がなくても、その主張は無視され拒絶してしまう特徴を持つ社会なんですよね、日本という国は。

確かにこうした特徴だけをデフォルメして問題視すれば、日本は法治社会に非ず、暗黒の人治社会としか映らないでしょう。

では、一体その「感情」とは、何に基づいて生まれてくるのでしょうか?

私が思うに、その「感情」は「話し合い絶対」という原理に基づいています。
日本社会では、何よりも「問いかけと応答」という”対話姿勢”が重要なのです。

たとえ、全く対話にならない相手だとしても、相手を無視していきなり杓子定規に対応すれば、即座に非民主的・独裁的という批難を浴びることは、日本社会においてはざらです。

つまり、日本人という民族は、対話姿勢を取らない人間には極めて非寛容であるということですね。
そしてそのような人間は感情的に排斥してしまう。
だから日本では、ヒトラーのような独裁者が現れにくいのでしょう。
(その代わり、その感情に逆らう人間は法の保護も受けられなくなるという欠点がありますが)

たとえ主張そのものには納得できなくても、対話の姿勢を取り、「俺とお前」の二人称の関係を構築する/した、と見なされさえすれば、たとえ相手の主張そのものに頭では納得できなくても、感情的には納得しうるのが日本人なのです。
例えば江戸城開城における勝海舟西郷隆盛の会談などは、その一例ではないでしょうか。

そうした「話し合い絶対」社会では、対話姿勢を取らないことは致命的ですね。
即、独裁的・非民主的と見なされてしまうわけですから。

そう考えると、大多数の国民が今回の措置に対して不審に思わず、小沢擁護派の主張に何ら耳を傾けようとしないのは、小沢一郎に対話の姿勢が全く見られない事にその原因を求めることが出来るでしょう。

そうした根本の原因をなおざりにしたままなら、いくら小沢擁護派が声高に検察ファッショだの素人のリンチだの叫ぼうが、国民の共感を呼ぶことは出来ません。
結局のところ、現状を見るに、小沢一郎は排斥されて行く運命にあるように思いますね。

ここまで読んでいただければ、日本社会というのは、「法」治社会であると言い切ることは出来ず、かといって、「人」治社会であるとも言い切れないことはご理解いただけるのではないでしょうか。

それでは、一体どういう社会なのでしょうか?
それは山本七平が著書「派閥の研究」の中で次のように表現しています。

すなわち、日本は「納得」治国家であると。
そしてその「納得」というのは、「人として」納得できればいいのであって、法律は二の次です。

つまり、どんな法律でも、絶対的ではなく、「人として」許容できる程度の違反は大目に見られる社会。
戦後、法律を遵守してヤミ米を摂らず餓死した裁判官がいましたが、日本社会においては法律を百パーセント遵守するのはありえない。
法律より「人間」が優先される社会ですから。
そうした社会では、法律を厳守する人間の方がむしろバカだと思われてしまう。

ですから、いくら法律で決められていようが、「人間性」に反する法律は全く無視されてしまう。
そうした一面だけを見れば、「法」治社会ではない。

かといって、無法社会ではないわけです。
そこには厳然として「人間性」という”あいまいな”規定・判断基準があるわけです。

確かにヤミ米を喰っていかなければやっていけない。
しかし、そんな状況でも「あいつは脱法行為をやりすぎだ!」と思われたら最後、それを罰する法律が探しだされてきて初めて咎められるわけです。

つまり、日本の絶対的基準は「人として、人間として」であって、「法律」ではない
「法律」と「人間性」とが対立すれば、法律は形骸化してしまい易い社会なのです。

上記のヤミ米エピソードについては、過去記事「憲法至上主義者のオ○ニー行為が、憲法を毀損してゆく…(笑)」の記事の中で引用紹介した「日本人とユダヤ人」の記述を参照していただくとわかりやすいかも知れません。

この「人として」という基準は、その時点、その社会情勢に応じて変動しますから、実に曖昧であって、それを「法」治的視点から見れば、全くの「人」治社会にしか見えないのも無理はありません。

しかし、そうした「法」治的視点から見ている人間ですら、普段、自らが行動するときには、「納得」治的視点で動いているのが常なのです。
日頃は、「納得」治社会の人間として振舞っていながら、特定の問題についてはいきなり「法」治社会の人間として振舞う。

問題なのは、この「ダブル・スタンダード(二重基準)の使い分け」を自覚していない日本人が多いことです。

自らが無意識的・無自覚的に従っている行動規範(人間性に基づく話し合い絶対主義/「納得」治社会)に拘束されていながら、何が自分の行動を拘束しているのかわからない。
わからないまま、日本社会が、民主主義と法治の社会だと思い込んでいる。

そしていざ、この思い込みに反する法治とは思えない出来事が起こると、即座に「日本は人治社会だ」と思い込んでしまい、声高に騒ぎ立てるわけです。
今回の小沢擁護派のように。

これは、小沢擁護派だけが陥り易いわけではありません。
この「使い分け」を自覚していない限り、誰でも陥る可能性があると思います。

だから、自らのその時々のポジションに応じて、ある時は「法」治社会の人間として振る舞い、ある時は「納得」治社会の人間として振舞う例が、後を絶たないのだと思います。

そうなってしまうのも、結局は、自らを拘束している行動規範をキチンと自覚していない為です。

その振る舞いが、オポチュニスト(機会主義者)の行動と同じになってしまうのはある意味、当然ですよね。
そして、こうした機会主義者は、自らのそうした振る舞いを咎められると、必ず次のような態度を見せるようになるものです。

1.徹底した応答無視
2.逆切れ
3.話題逸らし
4.揚げ足取り

小沢擁護派には、これらの要素を多分に見いだすことができますね。
反小沢派の民主党の政治家達も同じ傾向が強い。
類は友を呼ぶって奴ですね。

それはさておき、こうした小沢擁護派に「納得治社会」である日本を糾弾する資格があるでしょうか?
私は全く無いと思います。

彼等は「対話の重要性(納得治社会の実現ということ)」とかを普段唱えていながら、いざ自らの立場が悪くなると、都合よく「法治の厳格な実施」を要求する。

いわば、「納得治社会」が生んだ典型的オポチュニストが、自らの社会の特徴もわからずに批判しているだけなのです。
原因もわからないまま、対処しようとしているだけの行為なんですよね。

その結果、起こるのは混乱だけ。
その混乱に乗じて、小沢一郎は延命を画策している。
結局は、扇動者の跋扈を助長するだけなのです。

いい加減、この悪循環を断ち切りましょう。
その一歩として、まず、自らが無意識に従っている行動規範を自覚すること。
これが出来なければ、いつまでたっても日本人はこの泥沼から抜け出せないでしょう。


【関連記事】
◆感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~
◆憲法至上主義者のオ○ニー行為が、憲法を毀損してゆく…(笑)


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隠れた名曲紹介:プロコフィエフ ピアノ協奏曲第4番 第2楽章

たまには、最近軽くハマっているクラッシック曲の紹介をば。
私は寝る時に、(イヤホンで)クラッシック曲を流しながら就寝するのが習慣なのですが、最近のお気に入りはこれ↓

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第4番第2楽章

(以下、wikiより抜粋引用)

セルゲイ・プロコフィエフの《ピアノ協奏曲 第4番 変ロ長調》作品53は、隻腕のピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱作品の1つで、左手のためのピアノ協奏曲。1931年に完成されたが、ヴィトゲンシュタインが理解不能と語って却下したため(真の理由は技術的に至難であったからという説もある)、プロコフィエフのピアノ曲で唯一生前に初演されなかった作品となった。同じくヴィトゲンシュタインのために書かれたラヴェルの《左手のためのピアノ協奏曲》とは異なり、今日でも演奏される機会は多くない。

初演はプロコフィエフ死後の1956年9月5日にドイツのピアニスト、ジークフリート・ラップのピアノ、ベルリン放送交響楽団によって西ベルリンで行われた。ラップは第二次世界大戦でヴィトゲンシュタインと同様に右手を失ったが、やはり同様に左手のみでピアニストとしての活動を続けようとして、レパートリーを探していた。たまたま作品目録でこの協奏曲の存在を知り、プロコフィエフ未亡人ミーラに連絡して楽譜を入手し、初演に至った。

全曲を通して約25分の長さだが、以下の4楽章から成る。

ヴィヴァーチェ (4-5分)
アンダンテ (9-13分)
モデラート (8-9分)
ヴィヴァーチェ (1-2分)

第1楽章は後続楽章の前奏曲として、終楽章は第1楽章を短縮したような短い終曲としての役割をそれぞれ担っている。本作の根幹は中間の2楽章なのである。アンダンテ楽章はより内省的で、ひどくロマンティックなところがある。辛辣なモデラート楽章は、変形されたソナタ形式による。作品の結末が風変わりで、ピアノ独奏がピアニッシモから駆け上がって非常に高い音域で属七(B♭7)の和音を打ち鳴らす。


取っ付きにくい曲だと思うけど、wikiの解説にもあるように、第2楽章は確かにロマンティックなところがある。
左手だけで演奏できるよう作られている所為か、どことなく訥々とつっかえるような曲調で、流麗さというのは無いが、それでいて静かながらもダイナミックな展開であるところが気に入りました。
特に4分過ぎの盛り上がりが良いですね。それでもすぐ盛り下がっちゃうのですけど(笑)。

ちょっとマイナーな曲なので、youtubeで探してみてもコンサート形式のモノはなし。
プロコフィエフのピアノ協奏曲だとやっぱり第3番がメジャーみたいです。)
あったのは、作曲者プロコフィエフと演奏者アシュケナージが並んだ静止画の動画↓ですが、よかったらどうぞご覧ください。

◆prokofiev piano concerto no 4 - mov 2 - ashkenazy





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日本的思考の欠点【その2】~「感情的でひとりよがりでコミュニケーション下手で話し合い絶対」という日本人~

前回の記事『日本的思考の欠点【その1】~尖閣諸島問題と中村大尉事件の類似性~』の続き。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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前回の続き)

そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。

太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合に出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何ができるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。

これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。
奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワ!日米開戦か?」といった緊張感まであった。

一体、こんな危険区域で米艦が何をしていたのか、なぜ日本側がこれを撃沈したのか、今では一つの謎だが、探ってみれば何かの真相が明らかになるかも知れない。

というのは、これも「軍部の暴虐と無軌道ぶり」の一例のはずなのに、なぜか表面に出てこないからである。

話は横道にそれたが、「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。

今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。
金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。

それと等しい事件のはずである。

だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。
これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した

これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。
それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。

従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。

個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。

この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。

といっても私は別に他人を批判しているわけではない。
いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。

「地獄船」という状況を現出した「非」は明らかに相手側にある。
これが事件なら、事件として処理する。

船の責任者に「ジュネーヴ条約第何条によりお前たちはわれわれに一日最低一二〇〇カロリー(だったと思う)の糧食を支給する義務がある」と申し出、あくまでもねばり強く交渉して、その状況下において、相手に、出来る範囲内のことをやらす、という態度に出ることは、激高・興奮・ケロリ型の人間にはできない

また時計等を強奪された場合、「アメリカの陸軍刑法に基づく当該兵への処罰」を要求する、たとえ相手が受け入れても受け入れなくても要求はする、ということもできない。

飛び出すか、泣き寝入りかである。

といってもこれは、今、平静な状態で言っていることであって、餓死寸前の人間には無理なことである。
それはよくわかっている。

しかし、では餓死寸前でないなら、果してお前に以上のことが出来たかどうか、と問われれば、正直にいって、私は自分にも疑問を感じざるを得ない。

というのは、以上のような生き方があるということを、私は、収容所でアメリカ人を見て、はじめて「現実の問題」として知ったからである。

しかし後述するように、日本人にも、方向はやや違うが、実に冷静に事態に対処しえた人もいたのである。

もっとも「飛び出すか、泣き寝入りか」といってもこれは相手が「強い」か「強い」と見たときの態度である。
そしてそのときは自分の言葉は無視されるものときめて、どちらの行動に出ても無言である。

一方相手に「非」があり、しかも相手が弱腰とみればこの逆の態度になり、相手の言い分は全く無視して、「中村大尉事件」のようになる。
また相手が「アクシデントはアクシデントとして処理」すれば、これを相手の屈伏と誤解して居丈高になる

一民族の行き方は、結局は各個人の行き方の公約数のようなものだから、基本的には両者には差はないであろう。
しかしわれわれが、過去において大きな過誤をおかしたと本当に考えているなら、金大中事件の処理は、その過誤を修正する最も良い一つのテストケースであろう。

というのは、この事件は、確かに「主権の侵害」であろうが、日本人はこの事件には関与していない――いわば同じ「主権の侵害」といっても、「中村大尉事件」でもなければ、この逆の「パネー号事件」でもない、あくまでも「他国の政争」が波及して来た結果生じた文字通りのアクシデントである――という点では「事件を事件として処理」するという点で最も処理しやすい事件だと私は思うからである。

従ってこの事件すら冷静に処理できないのならば、過去における日本の行き方を批判する資格は、今の日本人にもないということになるであろう。

話はだいぶ横道にそれたが、それついてにもう少しそれると、私の見た範囲では、金大中事件が日本国憲法との関連において論じられた形跡がないのが全く不思議であった。

「主権の侵害」という言葉が戦後はじめて出てきた、と何かに書かれていた。
これは「主権の侵害」が、戦後はじめて「ジャーナリズム」に取り上げられたということであろう。

多くの戦争の発端が国際間の紛争により主権を侵害された、もしくは侵害されたと感じたときにはじまるわけだから、日本国憲法に定められた通り「国際間の紛争解決の手段として戦争を放棄し」「国の交戦権を認めない」場合、「主権の侵害」という問題の解決はこのようにすべきだ、という議論が当然に出てよいはずだと思ったが、どうもお目にかからなかったように思う。

端的にいってしまえば、この事件は日本側には「パネー号事件」におけるような意味での、いわゆる実害はない。
そして実害がない場合こそ原則通りに行動できるはずである。

従って「平和憲法下における主権侵害問題解決の原則」が何一つ提示されないとしたら、これはずいぶんおかしな話だと思う。

もちろん「経済援助の停止」や「停止」をちらつかせるなどという、過去においてアメリカがさんざん行った愚行、しかも日本のジャーナリズムが常に批判していたその愚行を再演するなら、それは実に滑稽なことたといわねばなるまいし、それが「平和憲法に基づく原則」とはもちろんいえまい。

ではこの問題について、一体われわれに何か明確な原則があるのであろうか
おそらくないであろう

原則がないということは「中立」という概念がないことである。
いうまでもなく中立とは原則の側に立って自己と戦うことであり、この自己自身との戦いぐらい苦しい戦いはあるまい。

スイスの大統領が第二次大戦直後に消耗のあまり死んだという話を聞いたが、中立というのは、元来、一人間を消耗のあまり殺してしまうほどの苦しい戦いのはずである。

それと比べれば、銃をもってとび出す方が、また自動小銃に体当りをくらわせる方が、はるかに安易である。

自己との戦いを避けて最も安易な道を選んだ
そしてその安易な道は、聖書に記されている通り「滅びへの道」であった

確かに中村大尉事件」の最中に、日露戦争の血の代償といわれた「満州の権益」を全部すてて在満邦人を全部引揚げるという道を選ぶことは、絶対に安易な道ではない

第一、そんなことを一言でも口にしたら、「世論」の袋だたきに会うだけでなく、殺されてしまうだろう。

私は今の日本でも、同じような事態が起きたら、こういった道は到底とれないだけでなく、上記のような発言すら出来ないであろうと、金大中事件でしみじみと感じた。

確かにそういう道をとるより銃をつかんで飛び出す方がずっと安易なのである。
すべてに同じことが見られ、原則との苦闘は常に回避される――。

確かに太平洋戦争は苦難の道だが、その道を選ぶにあたっては、常に、最も苦しい自己との戦いを回避して、その時その時の最も安易な方向へと進んだことは否定できない

そして戦後現われたさまざまの戦争批判の中で、常に欠落しているのは、「戦争とは実は最も安易な道だ」という、戦争というものがもつ実に不思議な要素を見ようとしないことである。

この非常に奇妙な点は、平和憲法ができた当時には、理屈ではなしに、一つの実感として人びとの中に残っていたはずである。
そして金大中事件は、私にとっては、「あの実感が、もう完全に消失したんだな」と思わせた事件でもあった。

次回へ続く)

【引用元:ある異常体験者の偏見/マッカーサーの戦争観/P200~】


上記の記述から、幾つか日本人ならではの”問題点”を把握することができるのではないでしょうか。

まず、一つ目として、「日本の世論が感情”多過”である」事が挙げられます。

過去記事『感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~』でも同様な指摘がありますが、とにかく感情が最優先されるが故に、判断基準が常に「強硬or弱腰」となってしまう。
これでは冷静な判断が出来なくなるのも無理ないですね。

二つ目には、「異民族とのコミュニケーションが下手である」という事ですね。

「飛び出すか、泣き寝入り」するか、若しくは、相手を無視して「居丈高になる」という極端な行動を取ってしまうのは、異民族との応対の拙さゆえでしょうが、それはやはり、歴史的に対外接触経験が乏しかったことが影響しているのは間違いありません。

特に、自らの思考・行動様式を言語化していないせいか、異国人に言葉で伝えるのが苦手であるわけですが、それが行動に出る際、「無言」となる理由でしょう。

そして、なぜこうした2つの特徴があるのかといえば、やはり日本人は、日本人と異なる思考様式・行動規範をもった「人間」が世界には存在していることを認識しようとしていない、若しくは(無意識的に)認識するのを拒否するからではないでしょうか。

自らと同じ価値観をもった人間こそが、「人間」と呼べる存在であり、そうした「人間」が世界に於いてもマジョリティであると思いこんでいるようにさえ思えます。

だから、(今回、菅政権が譲歩することで、中国側も譲歩するだろうと思い込んだように)当然自分が行動するように相手も行動するはずだと思い込み、そのとおりにならなくなると、一方的に「裏切られた」と思い込む。

自らの期待を裏切った外国人の行動が「人として」許せないし、そうした行動をする外国人は「人でなし」であって、それがエスカレートすると「鬼畜」と一方的に規定してしまう。

すると、相手は「人でなし」の「鬼畜」だから、言葉を使ってコミュニケートしようと思わなくなる。
そこで、相手が強ければ、やけくそになって暴発するか、泣き寝入り。
逆に相手が弱ければ、居丈高になって一方的に対応してしまう。
結局は、ひとりよがりな行動となってしまうわけです。

こうなってしまう理由には、やはり自らの思考・行動様式というモノが、異民族のそれと異なるということを全然理解していないからだと私は思いますね。
そしてそれは、自他の行動規範の相違を認識し、自らの行動規範を言語化・客体化する作業を行なわない限り、根本的な解決は無理だと思います。

続いて、三つ目として「原則との苦闘が常に回避されてしまう」事が挙げられます。

なぜ、原則を貫かず、安易な選択を取ってしまうのかといえば、「話し合い絶対」という原則だけがあるからだ、と私は考えています。

過去記事『「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】』において、山本七平の記述を紹介済みですが、とにかく日本は「話し合い」が絶対視されます。

それは「和を尊ぶ」がゆえなのでしょうし、それが対「内」問題解決においては理想的な解決法になりえる場合は多々あります。

しかしながら、対「外」問題である場合、内部の和を保つために話し合い絶対を貫けば、それは問題先送りとなったり、場当たり的な対策しか選択できなくなる。

こう考えると、コインの両面のように、「話し合い」という事にも、マイナス面があるわけですが、日本人自らは、果たしてそのことが、日本を破滅に追いやったこととつながっているという「事実」に気付いているかどうか?
非常に疑わしく思います。

さて、次回は「マッカーサーの戦争観」と「平和憲法」との関連性等に関する箇所を引用紹介していく予定です。

ではまた。


【関連記事】
◆日本的思考の欠点【その1】~尖閣諸島問題と中村大尉事件の類似性~
◆日本的思考の欠点【その3】~敗戦直後の「実感」を消失させた「マックの戦争観」と「平和憲法」~
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◆「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】
◆「自己の絶対化」と「反日感情」の関連性~日本軍が石もて追われたその理由とは~


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日本的思考の欠点【その1】~尖閣諸島問題と中村大尉事件の類似性~

最近の尖閣諸島問題を巡る中国の横暴ぶりには私も怒りを禁じ得ません。
しかしながら、この問題を巡る日本のネットやマスコミでの議論を見ていて、その過熱ぶりにはちょっと危惧の念を感じています。

というのも、山本七平が「ある異常体験者の偏見」において指摘した”日本的思考の欠点”がそっくりそのまま”もろに”表出しているように思われるからなのです。

それは、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるという欠点なのですが、今回の尖閣諸島問題についての議論でも非常にその傾向が強く表れていると思います。

そこで、今回以降、何回かに分けて山本七平が指摘したこの欠点について記述した箇所を引用紹介していきます。
では引用開始。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
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マッカーサーの戦争観

個人の体験は、その骨子を相当正確にメモしてあり、さらにそれをあらゆる方法で自ら検証した記億でおぎなっても、はじめから何しろ視点が一つだから、事件の全体を正確に再現することは不可能であろう。

だが「アパリの地獄船(註)」については、幸い、同じ船倉内におられたF氏からお手紙をいただいたので、それに基づいて、次に少し補足させていただく。
(註)…日本軍捕虜をフィリピンのアパリ港からマニラに運んだ船のことを指す。食糧を与えずに捕虜を輸送したことから、米軍による「パターンの行進」の復讐とまで言われた。山本七平もこの船で運ばれた際、飢餓に苦しんでいる。その様子については同書の「アパリの地獄船」「鉄梯子と自動小銃」の章にて詳しく取り上げられている。

前略
秋冷の候貴下ますますこ健勝のことと存じます。
一面識もない小生が書簡を出しましたご無礼をお許しいただきたく存じます。

貴下が文春に発表されました「アパリの地獄船」を拝見し、その時に乗船したP・W(捕虜)の一員として、終戦前後のつらかった当時の思い出を回想するうちに、まっさきに「飢餓」が浮び出しました。

忘却の彼方に追いやられようとしていた、苦しい体験を通じての貴重な数々の追憶が断片的に思い出され、万感胸にせまって参りました。
小生は目下、大阪市立中学校の教頭として勤務いたしておりますが、現在の教育界の激動の中に、混乱と将来への正常化に対処するにはどうすればよいか迷っております。

当時、豊橋第二陸軍予備士官学校十一期の幹候として、十九年八月に南方軍要員としてマニラにむけ出帆、輸送船江尻丸、アラビヤ丸、帝雄丸が三度撃沈され、九死に一生を得て、ツゲガラオ北東カガヤン河支流のジャングルの中で、米比軍との戦いというより飢餓・マラリヤ・雨期の泥濘・回虫・下痢との戦いにあけくれ、やっと終戦を迎えました。

貴下こ発表の飢えについての食物の禁断状態、意思に反して手が動く、正常な思考力は停止、飢える側の論理、飢えが起す虐殺などの貴重な論文を拝見し、同じように体験した者として、文春に発表されたことを有難く心からご同慶に存じております。

さて例の地獄船のことですが、今まてにどなたかが発表されないかと思っておりました。
船橋にドナルド・ダックでしたか、大きく漫画を描いた派手な船でしたが、アバリからマニラに回漕する船をP・Wの輸送船として利用したと聞いていました。
小生の記憶では、ジョン・エル・エリオット号と思いますが、間違っているかも知れません。

船内のようすは貴下のように、正確には分らなかったのですが、くわしく発表されたのを拝見して当時を追憶しています。
小生の記憶では自動小銃をもった兵隊が、鉄梯子の上で船倉内を監視していて、梯子をのぼり、水を飲みにでるP・Wから、なけなしの財産である時計・万年筆などを強奪していました。

(中略)


船名は私はおぼえていない。
また自動小銃をもった歩哨による「時計・万年筆」の強奪は、このときは目撃した記憶はない。

しかし、この「強奪」は、非常に広範囲にかつ継続的に、その機会さえあれば必ずといってよいほど頻繁に行われたことなので、おそらく、私が甲板にあがったとき偶然それを目撃しなかったというだけで、当然、行われたであろう。

もし行われなかったら、その方が例外中の例外だから、あって当然である。
そしてこの「強奪」は、非常に強い一種のショックになって、後々まで人びとの記憶に残っていたからFさんが憶えておられるのも、ごく自然である。

このショックは単に「物をとられた」ということではなく、「将来は何も予測できず、現実には白昼公然と強奪されても、抗議すら出来ない全く無抵抗の状態」すなわち「何をされるか」全く予測できないし、「何をされても、たとえ殺されても、海に投げこまれても、どうにもできない状態」に自分たちが陥ったという事実を、否応なしに思い知らされたショックである。

従って経済的に全く無価値なもの、たとえば階級章・星章等を、スーヴェニアとして故国に持ち帰ろうとする彼らにはぎとられたときも、人びとは同じショック、時にはさらに強烈なショックさえ感じていた。

これらはいわば個人の「主権の侵害」のような事件だから、ある面では「金大中事件」と似ているのかも知れない――とられることによって生ずる経済的実害は「皆無」だという点において。

しかし処理が一番むずかしいのは、むしろこういった場合、すなわち原則として「経済的賠償」の対象となりえない「侵害」事件の処理ではないであろうか

この点で、金大中事件でいわゆる「世論」が激高し、大森実氏の「笑い転げずにはいられない田中内閣のヘッピリ腰、米韓戦争かクーデターかの大事件を……」といった論調から援助中止・対韓断交・日韓もし戦わばといった形に論議がエスカレートしていくと、私は何となく少年時代の「中村大尉事件」を思い出さざるを得なくなった。

中村大尉事件は、満州事変の直前に、満州で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長の二人が何者かに殺された事件である。
従ってはっきりと日本人に被害がある。

もっとも殺人事件とか誘拐事件とかいうのはどこの国でも起ることであり、その被害者かたまたま日本人であったというなら、それはその国の刑事事件にすぎないわけだが、当時の「第六感」では、中国軍に虐殺されたらしい、ということで、それがひどく「世論」を剌激した。

もっともこの問題は当時の人びとには、金大中事件より、はるかに切実な危機感をもった事件であったことは事実らしい。

一番ショックを受けたのは在満邦人で、帝国の象徴である軍人が中国軍に虐殺されても政府が的確な処置をしてくれないのでは、自分たちやその家族の生命の安全は到底保証してもらえないと感じたのであろう。

これは、時計や星章を強奪されるショックの比ではあるまい。
そしてそのショックは当然内地にも連鎖反応を起す。

当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変ったそうである。
そうなると世論はますます激高し、ついに「中村大尉の歌」まで出来た。

一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。
すると大森氏のいわゆる「内閣のヘッピリ腰」を難詰する「世論」はますますエスカレートした。
こういうときは特に「世論」にあおられた「純真」な「青年将校」はもう手に負えなくなる。

青年将校というが、大体、中尉で二十三歳ぐらいのはず、いわばゲバ学生に毛の生えたような存在、特に幼年学校出身は中学二年修了で社会と隔離されて「純粋培養」された特殊人間だから、ジャーナリステイックで刺激的な「世論」に対して全く免疫がないので、何かあると、興奮の余り酔っぱらったようになってしまう。

従って彼らの目には常に「冷静」が「異端」に見え、自分同様に激高しない人間は、だれかれかまわずきめつけるということになる。

しかもこういう若者が、一個中隊ぐらいの兵力は動かせるのだから恐ろしい。
従って冷静な人はロがきけない

興奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり「第六感」があたっていた。
もう始末におえない。

そして柳条溝鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。
これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える

というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は「世論」の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然、中村大尉事件がなければ「世論」の支持は得られず、満州事変張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終っていたであろう。

そのためか、私が収容所にいたころ、「中村大尉事件」も軍の陰謀で日本軍の「密命」で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた。
もちろん事実は、そうでないのだが、「世論操作」という面でそう見たくなるぐらい、この事件が与えた影響は決定的であったことは否定できない。

だがしかし、私はこの事件を「不幸なる偶然」というふうには見ない

というのは中村大尉事件であれ金大中事件であれ、事件そのものは一つの「突発事件」にすぎまい。
そして、こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。

そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。

そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。

従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれに問われている問題だと私は思う。

(次回に続く)

【引用元:ある異常体験者の偏見/マッカーサーの戦争観/P195~】


今回の尖閣諸島問題についての対処については、当事者たる菅内閣には、事件を事件として処理する能力が見事なまでに無く、事件を大きくするばかりの稚拙な対応しか出来なかったのは明らかです。

しかしながら、菅内閣の無様な対応に憤りを感じるのは、まぁ仕方ないのですが、真の問題は日本人自らが事件を事件として処理出来るか否かだと思います。

中国への対応が喧々諤々論じられていますが、威勢の良い対抗策を主張している人たちは、そもそも中国人という人たちがいかなる人間なのか理解した上で主張しているのでしょうか?
ひょっとして同じ日本人に応対しているような”気分”で論じているのではないでしょうか。

そうした意識でいる限り、正しい対応を取ることは望めないように思うのですが…。
正しい対応を取る為には、まず相手を知り、そして自らを知る必要があります。
しかしながら、威勢の良い主張をする人たちほどそれが出来ていないように、私には思えてなりません。

それはさておき、次回は、「事件を事件として」処理するとはどういう事なのかについて書かれた記述部分を紹介してまいります。
ではまた。

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◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか
◆「一知半解人のハッスル=頓馬なセンセーショナリズム」がもたらす危険
◆「同一の言葉で、その意味内容が逆転しているかもしれない」と気付くことの難しさ
◆「自己の絶対化」と「反日感情」の関連性~日本軍が石もて追われたその理由とは~


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テーマ:尖閣諸島問題 - ジャンル:政治・経済

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一知半解

Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

http://yamamoto7hei.blog.fc2.com/

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