一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

名曲紹介:「ローマの松」/年の最後はクラッシック曲紹介で締めます(笑)

今年最後の記事は、世俗にまみれた政治ネタではなく、クラッシック曲の紹介で締めますね。
何がいいかなぁ…と考えてふと思いついたのが、レスピーギの「ローマの松」。

この曲はとにかく壮大で、最後に向かってじりじりと盛り上がっていくのが良いです。
一度、コンサートで聴いた事があるのですが、最後は2階客席後方からトランペット奏者が現れて演奏するなど、非常に演出も凝っていた記憶があります。

ご紹介するyoutubeの動画は、ディズニーのアニメ「ファンタジア2000」より引用しました。
ちょっと個人的には、欧米人の鯨崇拝臭が鼻に付くのですが、それでも動画と音楽が見事にマッチしております。
是非ご覧下さい。
◆Fantasia 2000 - "The Pines of Rome"


これで今年の更新はオシマイです。
皆様、良いお年をお迎えください。
また、来年も引き続きご覧いただけると幸いです。
ではまた。


【関連記事】
◆「ファンタジア」と「ファンタジア2000」のご紹介


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日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~

以前の記事『日本的思考の欠点【番外】~日本陸軍の特徴と「虚報」作成の一例紹介~』の続き。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

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前回の続き)

確かに歴史は戦勝者によって捏造される。
おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。

従ってマッ力ーサー毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を握造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。

しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。

もちろん収容所時代には、マック制樹立の基とするための「太平洋戦争史」などは全然耳に入って来ず、私の目の前にあるのは、過ぎて来た時日と、それを思い返す約一年半の時間だけであった。

そしてこの期間は、ジュネーヴ条約とやらのおかけで、われわれは労働を強制されず、またいわゆる生活問題もなく、といって娯楽は皆無に近く、ただ「時間」だけは全く持て余すほどあったという、生涯二度とありそうもない奇妙な期間であった。

これは非常に珍しい戦後体験かも知れない。
そして、私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、「日本人の思考の型」にあるのではないかと考えたのである。

面白いもので、人間、日常生活の煩雑さから解放され、同時に、あらゆる組織がなくなって、組織の一員という重圧感はもちろんのこと、集団内の自己という感覚まで喪失し、さらにあるいは処刑されるかも知れないとなると、本当に一個人になってしまい、そうなると、すべては、「思考」が基本だというごく当然のことを、改めてはっきりと思いなおさざるを得なくなるのである。

そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった。

金大中事件中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている

また再軍備という問題なら、「是か・非か」の前に「可能か・不可能か」が現実の問題としてまず検討されねばならず、不可能ならば、不可能なことの是非など論ずるのは、時間の空費だという考え方が全くない、ということである。

そしてそんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされ、いつしか「是か・非か」論にされてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。

収容所時代から口の悪かったKさんなどになると、「長沼判決(註1)」「再軍備是か非か」「違憲か合憲か」などという議論は、識者は憤慨されるであろうが、全く下らない時間つぶしとしかうつらないらしい。
(註1)…長沼ナイキ事件。以下wikiより抜粋。札幌地方裁判所(裁判長・福島重雄)は1973年9月7日、「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」とし「世界の各国はいずれも自国の防衛のために軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはならない」とする初の違憲判決で原告・住民側の請求を認めた。(wikiviswiki参照)

彼の言い方はいわば伝法口調だが、私が言っても、結局は表現が紳士的(?)だというだけの差だから、その通り記しておこう。

バカは死ななきや治らないんだから、是か非か議論したきゃ、させときゃいいじゃネエか。

第一アンタが下らんことなんか書く必要ないよ。アンタが何と言ったって、可能か不可能かを現時点の現実の問題としては考えないという体質は、変るわけじゃないんだから。

再軍備論?
議論させときゃいいじゃないか。
今は何を言ったってだめだよ。

だが、いつかはまた『一時』だけ目がさめるさ。
簡単なことなんだがなあ。
どれだけの軍備をもったとこで、どっかの国が日本の港湾に機雷を敷設して、掃海させない程度に戦闘を継続したら、まず最初に燃料がなくなり、ついで食糧もなくなって、日本丸は数ヶ月で『アパリの地獄船』になるというだけだよ。

そうなったとき、どっかの国が全面戦争の危険をおかしても、その機雷を撤去してくれるかい

『ニャンザン(註2)』があんなに憤慨しても、中ソは動かなかったんだぜ。
(註2)…北ベトナム共産党機関紙のこと。
北ヴェトナムに対してすらそうなんだ。

その現実をはっきり見ていながら、日本の場合、どっかの国が、原水爆の危険をおかしても、日本のために動いてくれると思っている人もいるのかね。

きっとその時にまた『一時』だけで目をさますよ。しようがないさ、国民性だよ


非常に乱暴な議論に見えるが、それは表現であって、内容は、乱暴とはいえない。
史上の多くの「敗戦」や「無条件降伏」を探っていくと、その原因が実は「飢え」すなわち食糧であったという冷厳なる事実にわれわれは気づくのである。

ナポレオンの敗北は「冬将軍」によるといわれるが、その記録を見ていくと、それが「飢え将軍」でもあることに気づく。

飢えはすべての秩序を破壊する
日本軍とてナポレオン軍とて例外てありえない。

……軍紀は全く消滅した。焚火をしている兵士たちの近くに将軍があたりに来ても、何らかの食糧をもって来なければ、兵士たちに追い払われた」と。

カイゼルの最後の参謀総長フォン・ゼークトは、第一次大戦を「将軍を侮辱した戦争」と呼んだ。

将軍が何を命じようと、参謀が何を立案しようと、兵士たちは西部戦線の塹壕にへばりついていた。
そしてドイツは飢えに敗れた。
戦争そのものが将軍を侮辱する時代は、すでに第一次大戦に決定的になっていた。

それなのに今でも、かつて「軍人勅諭」を金科玉条としたと同じように『持久戦論』を無謬論の如くに引用する人がいるということは、いわば「遅れ」の問題でなく「思考の型」の問題と考えざるを得ない

というのは、第二次大戦において、この問題の範囲はさらに広くなり、「戦争は将軍を無視し」問題は補給だけになっていく。
補給が途絶せず、飢えさえなければ、いかなる大量砲爆撃にも平然と耐えられることは、金門島がよく物語っている。

この小島に撃ち込まれた砲弾の総数は驚くなかれ約百万発に近い。
これはちょっと想像に絶する量である。

しかし彼らは飢えないがゆえに平然としている。
一方、シンガポールでは、一門約四百発でイギリス軍は降伏した。

これは、国府軍が世界最強の軍隊で、イギリス軍は弱かったということではない。
日本がブキテマの水道用貯水池を押えて、給水を断ちうる状態になっただけである。

日本については言うまでもない。
そしてこういった事実を列挙せよというなら、いくらでもある。

そして世界はすでにこの冷厳な事実をはっきり計算に入れていると私は思っている。
軍備とは何か、それは食糧だという事実を

すなわち兵を動かさずとも、食糧を動かすだけ、あるいはとめるだけで、そして必要とあらば燃料をも止めれば、それだけで一国を「無条件降伏」させうることは、すでに現実の計画として立案されていると私は考えている。

そしてそういう時代に、われわれが生きつづけて行く道を探るという点から見ると、「長沼判決」とそれをとりまくさまざまな議論は、相当に時代ばなれがしている、というより「可能・不可能」を算定する能力がないことを明らかにしているといえよう。

そしてこれこそ最初に取り上げた問題「確定要素・不確定要素」の問題である。
われわれは、「食糧、燃料を含めた軍備」という点で、全く、手段方法なき状態におかれているのである。
武器を並べ立てても、それは気休めにすぎない
そしてこの客観的状態は、もちろん憲法を改正したからといって変化するわけでない。

では一体どうすればよいのか。

その道を発見するためには、われわれが今はひとまず故意に「憲法」という問題から離れ、同時にマック型戦争観を清算しなければならないと思う。

そうしないと、相矛盾したこの二つの問いにはさまって、しかもその二つに違反してはならないとなると、思考が一切不可能になってしまい、実りなき議論が空転するだけになってしまうからである。

その空転ぶりは「確定要素」対「人間」という新井宝雄氏の奇妙な対置にも出てくる。
人間は自らのうちに、絶対的といえる確定要素をもっているのであって、両者は対置する対象ではない。

その決定的な要素の一つは食糧であって、この絶対的な確定要素の計算を無視し、「可能・不可能」という考え方に立たなかったのが軍部であり、その結果が飢えてあり、餓死と降伏であった。

そしてこの事実を消したのが、実はマッカーサーなのである

その結果、全く昔の軍部同様に、左は毛沢東を引用して、新井氏のように「人だ、人だ」と強調すれば、右も一人一人が、「国を守る気概を持て」と言っているわけであろう。

これは結局、同じことを言っているにすぎず、いわば左翼的表現と右翼的素現とでもいうべきものの、表現の差にすぎないのである。
われわれはまず、この状態から脱却しなければならないはずだ

(この章終わり)

【引用元:ある異常体験者の偏見/マッカーサーの戦争観/P215~】


今回ご紹介した山本七平の指摘は、現実に対処するうえで非常に参考になるのではないでしょうか。

特に最後の『われわれが今はひとまず故意に「憲法」という問題から離れ、同時にマック型戦争観を清算しなければならない』という提言は重要なポイントです。

「マック型戦争観」とはいわば、戦前マスコミの(精神力で武力を圧倒できるという)宣撫宣伝用の戦争観が、戦後、GHQ用に改変されたもの。

いまだにこの「戦争観」に毒されている日本人は数多い。
日本人の安全保障を巡る論議を見ていれば、いまだに「友愛」という”精神力”が通用すると考えている人がまだいることからも、そのことは明らかです。

そうした状況が続いてしまっているのも、山本七平が指摘しているように、「マッカーサーがその事実を消した」からでしょう。

マッカーサーは、戦前の宣撫機関であったマスコミをGHQ宣撫用に改変し、占領行政がスムーズに行くよう上手に利用した。

したがって、戦前戦後通じて、日本人は宣撫されたままの状態であり、このマック型戦争観が如何なる害悪をもたらしたかを自ら認識することが出来なかった。

また、マッカーサーが与えた憲法と言う制約も、それを助長した。

この二つの”くびき”から解放されなければ、まず実りある安全保障の議論にはなりえない。

解放される為には、やはり日本人が陥り易い思考、すなわち『日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなる』という”欠点”を常に自認する必要があると思います。

前回の記事に、nogaさんからコメントを頂いたわけですが、この区別が出来なくなる欠点というのは、nogaさんが指摘する「日本語には時制がない」という事も、原因になっているのかも知れません。
nogaさんの指摘については、まだまだ考えがまとまりませんが、そのようなことをふと考えた次第です。

それはさておき、今回で、「ある異常体験者の偏見」より「マッカーサーの戦争観」の章は終わりますが、引き続き「洗脳された日本原住民」の章を紹介して行く予定です。
ではまた。

【関連記事】
◆日本的思考の欠点【その1】~尖閣諸島問題と中村大尉事件の類似性~
◆日本的思考の欠点【その2】~「感情的でひとりよがりでコミュニケーション下手で話し合い絶対」という日本人~
◆日本的思考の欠点【その3】~敗戦直後の「実感」を消失させた「マックの戦争観」と「平和憲法」~
◆日本的思考の欠点【番外】~日本陸軍の特徴と「虚報」作成の一例紹介~
◆ある異常体験者の偏見【その6】~「確定要素」だけでは戦争できない日本~


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言葉と秩序と暴力【その6】~日本的ファシズムの特徴とは「はじめに言葉なし」~

だいぶ前になってしまいましたが、過去記事『言葉と秩序と暴力【その5】~日本人の秩序は「人脈的結合」と「暴力」から成る~』の続き。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
(1987/08)
山本 七平

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前回の続き)

そして米軍が介入して暴力団が一掃される。
するととたんに秩序がくずれる

何んと日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」。

これが、この現実を見たときの小松さんの嘆きである。

そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。

そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練もできなくなると言うのである。

それを堂々と主張する下士官もいた。

いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。
オレは堂々と営倉に入ってやる。
これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない
オレはお国のためにやってんだ。
やましい点は全然ないからな。
いいか、あげたいやつは手をあげろ


そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の将校を平気で撲り倒し、気にくわねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁絶滅を兵に訓旨していた隊長もいる

石田徳氏は『ルソンの霧』(朝日新聞社)で自決強要の恐怖すべき現場をそのままに記しておられるが、こういった例は決して少なくない。

収容所は、それらがただ赤裸々に出てきたにすぎない

そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、だれ一人不思議に思わぬ日常のことであった
そして戦後にもこれがあり、多人数の集中的暴言で一人間に沈黙を強いることを、だれも不思議に思っていない

なぜか。
なぜそうなるのか。

軍隊にはいろいろの人がいる。
動物学を学んでいたYさんは、これを「動物的攻撃性に基づく」秩序だと言い、収容所とは鶏舎で、その秩序はちょうど「トマリ木の秩序」と同じだと言った。

雄鶏は、最も攻撃性の強いものがトマリ木の一番上にとまり、その強さの序列が上から順々に下がりトマリ木の序列になる、と。

帝国陸軍は、「攻撃精神旺盛ナル軍隊」だけを目指したから、動物的攻撃性だけが主導権をもち、野牛(バッファロー)の大群が汽車に突撃するような攻撃をし、同時にそれを行うための秩序が、暴力という動物的攻撃性だけの「トマリ木の秩序」になった、と。

そう言われれば「戦後的ケロリ」は、攻撃が頓挫した野牛群が、ケロリとして草をくっているのと同じことなのか?

また軍制史の教官だったというA大佐は、日本軍創設時に原因があると言った。

そのころは、血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたころで、その中の若衆制度という、青年期の年次制「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局手がつけられなかった

そのうえ陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない

これはヨーロッパの、アレキサンダー大王のマケドニア方陣以来の、幾何学的な組織という考え方とそれを生み出す哲学が皆無なため、そういう組織的発想に基づく軍隊組織とは、内実は全くの別ものになった。

従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「社儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の基本だった。

だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった

一人への公開リンチによる全員への脅迫が全収容所を統制し得たのと非常によく似た形、すなわち一人の将校を自決させることによって、全将校とその部下を統制し、同時に私的制裁が末端の秩序を維持するという形になってしまった、と。

いろいろな原因があったと思う。
そして事大主義も大きな要素だったに違いない。

だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。

一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。

陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

何かの失敗があって撲られる。
違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。
黙って一回撲られた方が楽なのである

海軍二等水兵だった田中実さん戯画の「〈泣いている兵隊〉言い訳すればするほど徹底的にやられた。無実の罪がくやしくて泣く」は、この状態をよく表している。
そして、表れ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変わらなかった。

すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった

人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない
そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実体は海軍の「精神棒」という言葉によく表れている。

日本軍は、言葉を奪った

その結果がカランバン(註)に集約的に表れて不思議ではない。
(註)…フィリピンの戦犯容疑者収容所があった場所。

そこは暴力だけ
言葉らしく聞こえるものも、実体は動物の「唸り声」「吠え声」に等しい威嚇だけである。

他人の言葉を奪えば自らの言葉を失う

従って出てくるのは、八紘一宇とか大東亜共栄圏とかいった、「吠え声」に等しい意味不明のスローガンだけである。
人は、新左翼の言葉がわからないというが、軍部のスローガンも、実はだれにもその意味内容がわからなかった。

一体その言葉でどういう秩序を立てて、その中に自らが住みかつ人びとを住まわすつもりなのか、言ってる本人ですらわからない

清水幾太郎氏の『わが人生の断片』に、ビルマ人に大東亜共栄圏の意味をきかれ、咄嵯に「アジア合衆国」と言って問題になり、それは「千成瓢箪」だと答えよと言われた面白い記述がある。

これがさらに八紘一宇となれば、一体それが、具体的にどんな組織でどんな秩序なのか、言ってる本人にも不明である。
こういうスローガンはヤクザが使う「仁義」という言葉と同じで、すでに原意なき音声であり、言葉を奪うことによって言葉を奪われた動物的暴力秩序が発する唸り声と吠え声にすぎない

日本的ファシズムの形態を問われれば、私は「はじめに言葉なし」がその基本的形態で、それはヒトラーの雄弁とは別のものだと思う。
彼のようなタイプの指導者は日本にはいなかった。

”解放者”日本軍が、なぜ、それ以前の植民地宗主国よりも嫌われたのか

それは動物的攻撃性があるだけで、具体的に、どういう組織でどんな秩序を立てるつもりなのか、言葉で説明することがだれにもできなかったからである。

大東亜共栄圏とかけて何ととく」
「千成瓢箪ととく」
「ココロは、大きな瓢箪(日本)のまわりに小さな瓢箪(各国)がついているから」。


これはナンセンス・クイズであって説明でない。

説明できないはず、本人にもわからない「吠え声」なのだから――結局、日本軍は東アジアという広大な”カランバン”の動物的攻撃性的秩序に、現地人を巻き込んだだけであった。

従って一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。

大学紛争のとき、ある教授からある大学内の実情をきき、私は思わず「そりゃカランバンです」と言ったが――言葉によって自らの秩序を自ら立ててその中に住むか、言葉を奪って動物的攻撃性の「トマリ本の秩序」の中に住むかは、修正資本主義か社会主義かといった「高尚」な問題を論ずる前に、まず自らのうちで決断しておくべきことであろう。

そしてそれは決断の問題であって、知能の問題ではない
というのはあのビックリ伍長でも、おそらくできることなのだから。

(後略~)

【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/言葉と秩序と暴力/P301~】


上記の記述を読むと、この問題はいまだに何の解決もなされていないように思う。

なぜ、日本人は、「言葉による秩序立て」が行なえないのか?

なるほど、今の日本の組織は、とりあえずは西欧のそれを参考にして運営されています。
しかしながら、それは本当に自ら会得したものではない。
西欧の組織形態を外形的に導入しながらも、その内実は「年次的秩序・人的結合による秩序・礼に基づく秩序」に則り”根回し・話し合い”で動かしているのが実態でしょう。

平時はこれでなんとか運営していけるのかもしれない。
平時なら、それをやっていられる余裕があるから。
しかし、いざ危難の時となった場合、「暴力による秩序立て」という”地金”が出てしまうような恐れがあるのではないでしょうか。

それはやはり、一皮向けば日本の組織というものが、戦前となんら変わらず「年次的秩序・人的結合に依存する秩序・礼に依存する秩序」に基づいて動かされており、「言葉による秩序」に基づいていないからかもしれません。
また、空気に支配されやすい特徴や、言霊の影響から抜け出せていない事も作用しているのも一因かもしれない。
また、異民族との接触が少なかった故に、軍隊と言う最強の組織を考える必要に迫られなかったことも影響しているのかもしれない。

しかしながら、今後、戦前の大失敗の二の舞を踏まない為には、日本自らの組織論というものを「言語化」して「体系化・客体化」し、意識的に「再把握」して自らのものにしていく必要があるのではないか…と山本七平の組織論を読むたびに思う次第です。
最後に、この「秩序と暴力」問題について山本七平が出した結論を紹介しておきましょう。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
山本 七平

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前回の続き)

小松氏が記しているように、日本軍を支えていたすべての秩序は、文化にも思想にも根ざさないメッキであり、つけ焼刃であった。

そして将校すなわち高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、従ってそれがはげれば惨憺たる状態であった。
しかもメッキは二重にも三重にもなっており、それは逆に、生地まで腐蝕し、ひとたびそれがはげれば、メッキを殆どうけていない兵士たちよりひどい醜状をさらした。

従って人びとは、自己の共通の文化に基づく秩序を把握できない
すべての人の見方・考え方・価値はばらばらであり、これは、小松氏の記している通りに、将校区画が一番ひどかった。

私は、この区画から、毎日、設営工場に出勤しており、そこで、捕虜の中から選抜された最も優秀な家具職人や建具職人と過していたので、小松氏が、兵隊の収容所の方がはるかに立派だし、居心地もよい、と書かれているのがよくわかる。

ここの方が、何ら虚飾のない、伝統的文化に基づく一つの秩序すなわち文化があった。
特に職人は立派であり、彼らはその技術においてアメリカ人よりはるかにすぐれ、従って何の劣等感もなく、また完全に放置しておいても、すぐに自ら職人的な秩序をつくり出していった。

従って暴力的秩序などは皆無であり、そしてそういう場所には、彼らは絶対に入ってこようとはしなかった
隙がなかったのである。
いかなる暴力団もここには勢力をのばすことは不可能であった。

では一体、将校区画では、何かゆえにあのような暴力支配を生み出したのか。
なぜ、暴力があれば秩序があり、暴力がなくなれば秩序がなくなったのであろう。

理由は、一言でいえば「文化の確立」なく、「思想的徹底」のないためであったが、もっと恐ろしいことは、人びとがそれを意識しないだけでなく、学歴と社会的階層だけで、いわれなきプライドをもっていたことであった。

ある者は、はげたメッキをはげてないことにして軍隊的秩序を主張し、あるものは表層がはげた時二層の社会正義”雲上・おくげ的社会主義”を主張し、ある者ははげたメッキの上にアメリカ型民主主義という再メッキをしてそれを主張した。

しかし、各人は、自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった
そして自らの行動の基準は小松氏の記す「人間の本性」そのままであった。
そのくせ、それを認めて、自省しようとせず、指摘されれば、うつろなプライドをきずつけられて、ただ怒る。

そして、そういう混乱は、兵士の嘲笑と相互の軽侮と反撥だけを招来し、結局、暴力と暴カヘの恐怖でしか秩序づけられない状態を招来したわけである。

われわれはここに、日本全体がいずれは落ち込んでいく状態の暗い予兆を見るような気がした

それは小松氏だけではない。
そしてそうならないための、真剣な模索は小松氏の、ここに引用した以外の文章にも、所々に表われている。

だが、戦後の日本は常にこの模索をさけ、自分たちを秩序づけている文化とそれを維持している思想すなわち各人の自己規定を探り、言葉によってそれを再把握して、進展する社会へ維承させようとはしなかったのである。

従って、小松氏のあげた第十六条と第十八条(註)は、まだ達成されず、将来の課題としてそのままに残されている、と私は考えている。
(註)…「第十六条:思想的に徹底したものがなかったこと」/「第十八条:日本文化の確立なきため」

(終了)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第四章 秩序と暴力/P120~】


【追記】
余談ですが、この記事を取り上げたキッカケのひとつに、小沢一郎の存在があります。

考えれば考えるほど、彼ほどの「言葉なし」の政治家はいないように思います。
説明責任から逃れまくり、金・恫喝・数の力で政治を仕切るのが実に上手い。
日本型ファシズムの形態を体現するような人物だと思ってます。

そうした人物が自由に跋扈するようになれば、戦前の二の舞を演じかねない。
それを防ぐ為にも、小沢一郎は糾弾されねばならない。
単純で浅慮かもしれませんが、そう思わずにはいられません。


【関連記事】
◆言葉と秩序と暴力【その1】~アンチ・アントニーの存在を認めない「日本軍」~
◆言葉と秩序と暴力【その2】~「戦犯収容所」の”暴力政治”の実態~
◆言葉と秩序と暴力【その3】~日本軍捕虜の「暴力的性向」を嘆いた日本人~
◆言葉と秩序と暴力【その4】~自ら”秩序”立てるイギリス人~
◆言葉と秩序と暴力【その5】~日本人の秩序は「人脈的結合」と「暴力」から成る~


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「自己嫌悪」から他者を”悪魔化”する「反米自立」論者達/~自立を唱える者が見せる「甘え」とは~

最近、岩上安身氏や孫崎享氏のツイッターをフォローしているんですが、彼らの対米自立論を眺めていると、彼らの主張が「自己嫌悪」という感情に基づいた底の浅い幼稚な反米論であると思わざるを得ません。

なぜ彼らの主張にはそのような「自己嫌悪」が潜んでいると思うのか。
今日はそのことについて私見を述べていきたいと思います。

もちろん、彼らが反発する米国には「理不尽な」要求も多いのは事実です。
しかし、米国がそうした要求を日本に突きつけるのは、それだけ日本が責任を負うべき実力・立場にあると考えているからであって、日本側から見れば非常に高圧的で身勝手だけれども、彼ら自身にしてみればそれほど無理難題を言っているつもりはないでしょう。
彼らにしてみれば、要は「嫌なら断ってもらっても構わない。その代わり、断るならば米国の庇護を頼るなよ」と言うことでしょう。

こうした米国と日本の関係については、過去記事『鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。』において、既に山本七平の主張を紹介しているので参考にしていただけると幸いです。

なにはともあれ、要するに同盟国と言えど米国はアカの他人ということです。

米国は日本を守らない…とか言う輩に限って、守らない場合の対応策を考えて”すら”いない。
米国は裏切るはず…とか言っておきながら、裏切らせない為にはどうすれば良いか考えようともしない。
これでは、まるで親に甘えつつ反抗しているだけの未熟な子供ではないでしょうか!

彼らは反米を叫びながら、実のところ心理的に米国に依存してしまっているのです。
気安く反米を唱える人ほど、その実、依存心や甘えが人一倍強い、と言えると思う。

彼らは、「米国の言いなりでしか動けない日本」という存在に、(自分達の思い通りに行かないため)フラストレーションを感じており、それが一種の「自己嫌悪」になるわけですが、そこで問題なのは、その鬱憤を晴らすために、なぜか自らを変革するのではなく他者に責任を転嫁する方向に流れてしまうこと。

その「他者」とは、いわゆる彼らの言うところの「米国と結託した日本の支配層」や「米国べったりの財界・官僚」なわけです。

しかし、その他者とは、実のところ、彼ら自身の「真の姿」に他なりません。
米国の要求を拒否できない情けない自己を嫌悪しても罵るわけにはいかないから、「諸悪の根源」というものを作りあげ、それを罵る。
彼らの主張が「自己嫌悪」に基づいているというのは、そのような意味であります。

彼らの主張が、親米派を感情的に罵ること”だけ”に終始するのは、その典型的な”現われ”じゃないでしょうか。

要するに、一種の「現実逃避」に過ぎないのです。
これが甘えでなくて何なのでしょう?
これで自立などできるんでしょうか?
出来るわけが無いでしょうに。
精神的に自立していない人間が自立を唱える
まさに滑稽な話で、お笑い種ですね。
だから、彼らの主張は常に空理空論で具体策を伴わず、陰謀論的、精神論的にならざるを得ないのでしょう。

また、彼らは、日本の現実、置かれた立場、世界における役割、実力等を全く自己把握できていないから、日本自らが何をすべきなのか全く判っていません。日本政府の決定が常に受動的なのも、それをわきまえていない日本人が多数いるだからです。

だから、その行動決定は常に米国のプレッシャーを受けた形の受身的なものにならざるを得ません。
その結果、強制されたと思い込み、屈伏感にさいなまれ、被害妄想に捉われてしまう。

なぜ、受身的になるかと言えば、彼らは「なるなる論(註)」に罹患しているからです。
(註)…過去記事『「なるなる論」法からの脱却を目指そう/~日本人の思考を拘束している宿命論~』をご参照ください。

いざそうなってしまうと、前述したように岩上安身氏や孫崎享氏らのような反米派による「諸悪の根源」探しが始まることになる。
財界が悪い、官僚が悪い、自民党が悪い、ジャパンハンドラーの陰謀だ、いや悪徳ペンタゴンの仕業だ、ユダヤ資本が悪い……。

しかしながら、それは「間違い」です。
単に己を知らないだけ。
日本の立場・実力・役割、いずれもわきまえない者の妄想に過ぎません。
すなわち、自分を「見る」勇気がないだけの話なのです。

こうした岩上安身氏や孫崎享氏らのように、なまじっか知識だけは豊富な反米派の言動を見るにつけ、私は戦前の対米強硬派だった神風右翼を連想してしまいます。
そして、こうした輩が世論の大勢を占めるようになったら、その時こそ日本の危機だと思ってます。

過去の日本の危機は、アメリカの反応を見誤った時に起きてきました。
そう考えると、岩上安身氏らに代表される感情的・現実逃避的反米論ほど、アメリカとの同盟関係を毀損し、自国の安全を誤らすものはないと思いますね。

【関連記事】
◆鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。
◆「なるなる論」法からの脱却を目指そう/~日本人の思考を拘束している宿命論~
◆八百長のある国、日本。八百長の無い国、アメリカ。【追記あり】
◆”ひとりよがり”がユダヤを破滅させた。翻って日本はどうか?


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ウィキリークス一考/オフレコを公表する行為は”言論の自由を知らない”愚か者の行為byキッシンジャー

ウィキリークスの内部告発による情報流出が大問題になってますが、ちょっとブログでの主張を見てますと、結構肯定的な意見が多そうですね。
特に反米派なんか、これで日本の属国ぶりが露わになったとか大騒ぎ。
なかでも天木直人のブログ↓なんか、気負っているというかなんと言うか、見ていてこちらが恥ずかしくなるようなことを書いている。

◆ウィキリークスの判断基準は、「お前は権力側に立つのか、弱者の側に立つのか」、だ。
http://www.amakiblog.com/archives/2010/12/05/#001762

しかし、天木氏が言うように、「権力vs反権力」という単純な”構図”で割り切れる問題ではないだろ…と思うんですよ。
そもそも、権力側が常に「悪」で、反権力が「正」とは限らないじゃないですか。
権力側の秘密を暴くことが、常に良い結果を生むとは考えられないですし、何でもオープンにすれば良いわけでもない。

外交交渉なんて、そもそもオフレコなのが基本なんだし、交渉している最中の内容を暴露することは、結果としてその交渉をぶち壊すことにしかならない筈。
やはり交渉内容を情報公開するにしても、ある程度の経過期間をおいてからにすべきなのであって、それが賢明なやり方というものでしょう。
もちろん、内部告発の有効性を認めないわけではないが、あくまでも公益性との比較考量で判断する必要があると思いますね。

そんなことを考えていたら、次のようなニュース↓も報道されました。

◆ウィキリークス:米関連の重要施設暴露 日本海底ケーブルも
http://mainichi.jp/select/world/news/20101207dde007030041000c.html

これ↑なんかどうみてもヤバイですよ。
何でも情報公開すればいいってものではない格好の見本でしょ。
これで仮に重要施設がテロに遭ったとしたら、ウィキリークスは責任取る覚悟があるのか?
取るつもりなぞ彼らにさらさら無いでしょうに。

私が思うに、ウィキリークスの行為は、明らかにやりすぎだしモラルに反している。
権力に立ち向かっているからといって、必ずしもそれが正義だとはいえない。

そもそも、ウィキリークスの代表者のジュリアン・アサンジ氏だって、自らのプライバシーはあるだろうし、それを暴かれるのは嫌な筈。
それなのに、そうした人物が、正義の代理人をよそおい「我に正義あり!」と称し、(国家権力とはいえ)他者のプライバシーを一方的に暴く権利があるだろうか?
また、情報提供者が「不正に」入手したにも関わらず、匿名で安全に告発できてしまう事の「是非」を考えることも必要ではないのか?
個人的には、これはもうモラル・ハザードの域に達していると思う。

こうした問題点をないがしろにしたまま、権力と戦うのだから…と内部告発行為を正当化する行為こそ、「(正しい)目的は、(不正な)手段を正当化する」典型でしょう。

しかしながら、それは結局、(情報公開という)目的を貶めるだけに終わってしまうでしょう。
却って、正当な内部告発すら、いかがわしいものに思われてしまうようになるんじゃなかろうか。

だからこそ、不正な行為を(情報公開という)目的を以って、正当化することは厳に慎むべき。
ある意味、今回の件は、権利の濫用に似た感じを受けますね。

もう一つ、ウィキリークスの主張に感じてならないのが、正義の仮面を被った者が放つ「独善性」。
マスゴミの傲慢さに非常に似たものがある。

そもそも、ウィキリークスの行為は、全くの「善意」から出ているのだろうか?
彼らも人である以上、「偏向」は避けられないはず。

ウィキリークスの意図に沿った告発情報しか開示していない恐れは十二分にありえる。
彼等の正義の代理人ぶりに惑わされず、そうした点にも注意を払う必要があると思います。

そうしないと簡単に扇動されてしまうことになりますからネ。
事実、ウィキリークスの所業に何の疑問も感じずに喝采を送っている人達は、もうすでに扇動されかかっていると思う。
前述の天木氏や、フリージャーナリストの岩上安身氏なんか、いい例じゃないだろうか。

なにはともあれ、情報公開が絶対善とか、権力に都合の悪い事をすることが絶対善だとかいう「勧善懲悪」の視点から、この問題を捉えるのは間違っていると思う。
むしろ、モラル・ハザードという面から考えて見るべきでしょう。

そこで参考にしたいのが、アメリカの国務長官だったキッシンジャーの主張。
過去記事『オフレコ破りという「禁じ手」を使ってまで民主党を応援するマスコミ』でも紹介したことがありますが、この問題を考えるに当たって非常に参考になると思いますので山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」から再掲しておきます。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
山本 七平

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(~前略)

先日あるアメリカ人の記者と話し合った。
私は、キッシンジャーが、日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し、これは、言論の自由に反することではないか、ときいた。

これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。

人間とは自由自在に考える動物である。
いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。

自分の妻の死を願わなかった男性はいない、などともいわれるし、時には「あの課長プチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか、考えることもあるであろう。

しかし、絶えずこう考えつづけることは、それ自体に何の社会的責任も生じない。

事実、もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまのことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら、社会は崩壊してしまうであろう

また、ある瞬間の発想、たとえば「あの課長プチ殺してやりたい」という発想を、何かの方法で頭脳の中から写しとられたら、それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。
というのはそれは一瞬の妄想であって、次の瞬間、彼自身がそれを否定しているからである。

もしこれをとめたらどうなるか、それはもう人間とはいえない存在になってしまう

「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。

いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから、以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってよいかもしれぬ。

いまもし、数人が集まって、自分のこの自由思考(フリー・シンキング)をそれぞれ全く「無責任」に出しあって、それをそのままの状態で会話にしてみようではないか、という場合、簡単にいえば、各自の頭脳を一つにして、そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか、言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり、これが、それを行なう際の基本的な考え方なのである。

従って、その過程のある一部、たとえば「課長をプチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に、それを記録し、それを証拠に、「あの男は課長をプチ殺そうとしている」と公表されたら、自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう

とすると、人間の発想は、限られた個人の自由思考(フリー・シンキング)に限定されてしまう

それでは、どんなに自由に思考を進められる人がいても、その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。

だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならずそういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。

(後略~)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第十二章「自由とは何を意味するのか」/P309~】


天木直人氏や岩上安身氏のように”勧善懲悪”の視点に立って、こうした内部告発・情報流出を無条件で礼賛していると、その結果、キッシンジャーが指摘するように「思考の自由に基づく言論の自由」そのものが失われてしまうんじゃないだろうか。

却って自由にモノを言えない時代が到来するのかもしれない。
従来の権威が崩壊し、国家の統治能力が衰え、混乱の時代が到来するのかもしれない。
モラル・ハザードによって、相互不信の時代が到来するのかもしれない。

兎にも角にも、世界中に一瞬のうちに秘密が暴露されてしまう時代になってしまった。
これも情報化社会がもたらす必然なのかもしれないが、それがもたらす結果というものは必ずしも良い結果をもたらさない…ということを我々は覚悟せねばならないのかもしれない。

一体、こうした時代の潮流に、我々はどう対処していけばいいんでしょうね…。
実に難しい課題であります。


【関連記事】
◆オフレコ破りという「禁じ手」を使ってまで民主党を応援するマスコミ
◆アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~


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一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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