「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平
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(前回の続き)
いままでのべた例は、簡単にいえば「空気の一方向的支配」の例、言いかえれば、臨在感的把握が絶対化される対象を、仮に一つとし、しかも相互の感情移入による相互の臨在感的把握が起りえない、最も単純化された場合である。
だがわれわれの現実世界はそのように単純でなく、人骨・カドミウム金属棒・ヒヨコ・保育器の内部・車等々は、あらゆる方向に、臨在感的把握を絶対化する対象があり、従って各人はそれらの物神によりあらゆる方向から逆に支配され、その支配の網の目の中で、金縛り状態になっているといってよい。
それが結局、「空気」支配というわけだが、その複雑な網の目を全部ときほぐすわけにいかないから、まず、二方向・二極点への臨在感的把握を絶対化し、その絶対化によって逆にその二極点に支配されると、それだけで人が完全に「空気に支配され」て、身動きできなくなる例をあげよう。
この例は、日本が重要な決定を下すとき、たとえば日華事変の本格化、太平洋戦争の開始、日中国交回復等に、必ず出てくる図式である。
だがここでは、現在において、まず明確に残っている最高の例と思われる西南戦争をとろう。
これならば、すでに歴史上の事件であるし、戦ったのは同じ日本人同士だし、従って外交的配慮から虚報を「事実だ」と強弁する必要もないし、事実としなければ反省が足らんと言われることもあるまい。
またどちらを仁徳にあふれる神格化的存在としようと、どちらをその対極にある残虐集団と規定してあろうと、共に日本人だから、どこからも文句は出まい。
歴史上の事件で国内事件の場合は、こういう点で、いわば「無害化」されているので、非常に扱いやすい。
そしてその基本的図式は、実は現代と全く同じである点で格好のサンプルである。
西南戦争は、いうまでもなく近代日本が行なった最初の近代的戦争であり、また官軍・賊軍という明確な概念がはじめて現実に出てきた戦争である。
こういう見方は、戦国時代にはない。
同時に、大西郷は、それまで全国民的信望を担っていた人物である。
従って西郷危うしとなれば、全国的騒乱になりかねない、否、少なくとも「なりかねないという危惧」を明治政府の当局がもっていた戦争である。
ということは「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し出し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。
元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度(日清戦争時にすらこれがあった)だったのだが、農民徴募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に「心理的参加」させる必要があった。
従って、戦意高揚記事が必要とされ、そのため官軍=正義・仁愛軍、賊軍=不義・残虐人間集団の図式化を行ない、また後の「皇軍大奮闘」的記事のはしりも、官軍は博愛社により敵味方を問わず負傷者を救う正義の軍の宣伝もはじまった。
いわば、日中国交回復に至るまでの戦争記事の原型すなわち「空気醸成法」の基本はすべてこのときに揃っているのである。
まず西郷軍「残虐人間集団」の記事が出る。次に掲げるのは、そのほんの一例である。
〈官兵を捕へて火焙りの極刑・酸鼻見るに堪へず〉
〔九・二五 郵便報知]賊徒が残酷無情なるも斯く迄にはあらにと思へど、此頃戦地より帰りし者が其惨虐を見たりとて語りしを又伝に聞きたるに、何つ頃の戦ひにや、七八人の官兵賊に獲られ、珠数繋になして某神社の境内に率き行き大樹の下に繋ぎしが、賊兵等が打寄り語り合ふに、頭を刎ね腹を割き生肝を撮み出しても興なし、何にか面白き趣向ほど耳に口寄せ私語(ささや)き、社前に在る銅華表(とりい)を中頃より二つに切り、そが中に山の如く炭火を燃き、真赤になりし時、天に叫び地に哭する生虜を一人一人に駆り立て、左右より手取り足取り此火柱を抱かせ灸り殺したる有様は、知らぬ漢土の昔し語り、殷紂夏桀が炮烙の刑も斯くやと思はるる計り、既に陸軍の属官某も比刑場に焼殺されしと。
こういう記事を次から次へと読まされると、日中国交回復前の「日本人残虐民族説」にも似た「鹿児島県人残虐民族説」が成り立ちそうだが、ちょっと注意して読めば、これが創作記事であることは、だれにでもすぐに見抜けるであろう。
まず「酸鼻見るに堪へず」という表題は、まるで自分が目撃したか、目撃者に直接取材したかの印象を与えるが、事実は、目撃者「証人」は、不明なのであって「見たりとて語りしを又伝に聞きたる」と伏線がはってある。
「事実か否か、調べるから目撃者に会わせろ」と西郷側かそのシンパから言われても(それはまず起りえないが)それは不明で押し通せる。
第二に「何つ頃の戦ひにや」で「時日」が明らかでなく、「某神社の境内」で場所が明らかでない。それでいて、賊の描写はまことに具体的で、あたかも見て来たかの如くに書いている。
さらに、事件はこれだけでないという形で信憑性をもたすため「既に陸軍の属官某も此刑場に焼殺されし」としているが、その人名・階級・日時も明らかでない。
またおかしいのは、「既に……」同じ刑なら、「銅華表を中頃より二つに切り」は、そのときに行なわれていて、今回はそれをそのまま利用したはず、さらに、これがはじめての試みでないなら、まるで見てきたように書いている”賊”の相談の状態は明らかにおかしい。
その相談の描写は、今までやったことのない新趣向でやろうという相談のはず、そうでなければ「何にか面白き趣向ほど……」と相談してから銅華表を二つに切ることはありえない。
従ってこれは『私の中の日本軍』で分析した「百人斬り競争」や「殺人ゲーム」の嚆矢ともいうべき記事である。
非常に残念なことに、日本の新聞には、一世紀に近い、この種の記事を創作する伝統があると見なければならない。
この記事は1877年だからである。
もちろん残虐記事は前述のようにこれだけでなく、「官軍の戦死者の陰茎を切ってその口にくわえさす」「強姦輪婬言語外の振舞」等様々の趣向をこらして創作しているのは、うんざりする。
言うまでもないが、このような形で西郷軍を臨在感的に把握し、その把握を絶対化すれば、西郷軍は「カドミウム金属棒」すなわち、即座に身をひるがえしてそれから去るべき、神格化された「悪」そのもの、いわば「悪の権化」になってしまう。
従って、当初は西郷側に同情的だったものも、また政府と西郷の間を調停してすみやかに停戦して無駄な流血をやめよと主張したものも、その上で西郷と大久保を法廷に呼び出して理非曲直を明らかにせよと上申していた者も、すべて「もう、そういうことの言える空気ではない」状態になってしまう。
というより、おそらく、そういう空気を醸成すべく政府から示唆された者の計画的キャンペーンであったろう。
一方これの対極は、いうまでもなく神格化された「善」そのもの、「仁愛」の極である天皇と官軍である。
そしてそれへの臨在感的把握を絶対化するためしばしば大きく紙面に登場するのが博愛社である。
次にその一部を引用するから、前述の「賊軍残虐人間記事」と対比して読んでほしい。
〈一旦頓挫したる博愛社愈々設立さる――佐野常民大給恒の主唱――〉
〔六・二七 郵便報知〕……聖上至仁大ニ宸襟ヲ悩シ玉ヒ、屡々慰問ノ便ヲ差セラレ、皇后宮亦厚ク賜フ所アリタル由、臣子タル者感泣ノ外ナク候、就ハ私共此際ニ臨ミ……不才ヲ顧ミズー社ヲ結ビテ、博愛ト名ケ、……社員ヲ戦地ニ差シ、……官兵ノ傷者ヲ救済致シ度志願ニ有之候、且又暴徒ノ死傷ハ、官兵ニ倍スルノミナラズ、救護ノ方法モ不相整ハ言ヲ俟タズ、往々傷者ヲ山野ニ委シ、雨露ニ暴シテ収ムル能ハザル哉ノ由、此ノ如キ、大義ヲ誤リ、王師ニ敵スト雖モ、亦皇国ノ人民タリ、皇家ノ赤子タリ、負傷座シテ死ヲ待ツ者モ捨テ顧ミザルハ人情ノ忍ビザル所ニ付、是亦タ収養救治致シ度……朝廷寛仁ノ御趣意、内外ニ……。
こういう形で、官軍を臨在感的に把握しそれを絶対化する。
すると人びとは、逆にこの神格化される対象に支配されてしまい、ここに、両端の両極よりする二方向の「空気」の支配ができあがるのである。
こうなると、人びとはもう動きがとれない。
そして全く同じ図式は日中国交回復のときにもつくられた。
今から三十年ぐらいたてば、日中国交回復の方法に、さまざまな批判が出るであろう。
もちろん、何事であれ、後代の批判を免れることはできないから、それはそれでよい。
ただそのときの田中元首相の言葉はおそらく「あのブーム時の空気では、ああするよりほかはなかった」「あの当時の空気を思い起すと、あれでよかったのだと当時も今もそう思っている」「当時の空気を知らない史家や外交評論家の意見には、一切答えないことにしている」という「戦艦大和出撃批判への関係者の答弁」と同じことになるであろう。
さてここで、空気支配のもう一つの原則が明らかになったはずである。
それは「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。
対立概念で対象を把握すれば、たとえそれが臨在感的把握であっても、絶対化し得ないから、対象に支配されることはありえない。それを排除しなければ、空気で人びとを支配することは不可能だからである。
この言い方も抽象的だから、具体的な例をあげよう。
たとえば、一人の人を、「善悪という対立概念」で把握するということと、人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己のうちなる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することとは、一見似ているように見えるが、全く別の把握の仕方である。
たとえ両者とも臨在感的な把握であっても、一方は、官軍・賊軍”ともに”、善悪という対立概念で把握し、他方は、官軍は善、賊軍は悪と把握していれば、この両者の把握が全く違った形になるのは当然であろう。
従って、「善悪という概念をもっているから、世界いずれの民族でも、対象を善悪で把握する点では同じだ。ただ善悪の基準が違うだけだ」ということにはならない。
ここにも、明治的誤解が未だにそのまま残っている。
前者はすなわち「善悪という対立概念」による対象把握は、自己の把握を絶対化し得ないから、対象に支配されること、すなわち空気に支配されることはない。
後者は、一方への善という把握ともう一方へのその対極である悪という把握がともに絶対化されるから、両極への把握の絶対化によって逆に自己を二方向から規定され、それによって完全に支配されて、身動きができなくなるのである。
言いかえれば、双方を「善悪という対立概念」で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が拘束され、身動きできなくなる。
さらに、マスコミ等でこの規定を拡大して全員を拘束すれば、それは、支配と同じ結果になる。
すなわち完全なる空気の支配になってしまうのである。
さらにこれが、三方向・四方向となると(日中国交回復のときは、大体、四方向の対象の臨在感的把握の絶対化に基づく四方向支配と私は考えている)もうだれも、その「空気支配」に抵抗できなくなるのである。
さて、ここで問題克服の要点は二つに要約されたと思われる。
すなわち一つは、臨在感を歴史観的に把握しなおすこと、もう一つは、対立概念による対象把握の二つである。
それについては次章でのべることにしよう。
(次回へ続く)
【引用元:「空気」の研究/P45〜】


Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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