一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

マスコミの「予定稿」とは【その2】~田原総一朗の「取材」を例に考える~

前回の記事「マスコミの「予定稿」とは【その1】~田原総一朗の「取材」を例に考える~」の続き。

前回引用の続き)

小松氏は日記を書いた、だがそれは、それをそのまま日本に持って帰れるということではない。

”原則”を口にすれば、その書写材料はすべて「正規に入手」したものでないから、米軍はいつでもこれを没収できる。
だが米軍はソヴェト・中国軍とは違って元来、こういうことに寛容であった。

従って私は、由紀夫人のまえがき「編集にあたって」の冒頭に、

「夫 真一がフィリッピンでの抑留生活から解放されたとき、米軍に没収されないようにと、骨壷に隠して持ち帰った日記がございました。

人生の最も忌まわしい思い出を記したこの大戦の記録は、戦後ずっと銀行の金庫に眠らせたままでおりました……故人は生前、戦争体験をほとんど私共家族に話してくれませんでしたので、初めて知った夫の体験や考えに、胸の詰る思いの連続でございました……」


とあるのを読んだとき、小松氏が内心で恐れ、骨壷にまで隠させた「本書を没収しそうな相手」が、一体米軍なのかそれとも日本人だったのか、私は少し気になった。

もちろん氏の内心は推し量ることができない。

そして氏が「没収されないように」と言えば、米軍以外は念頭に浮かばないのが常識であり、この際、「日本人」が念頭にのぼるのは、私たち体験者だけであろう

常識は、はじめから日本人を除外する

だが私のこの気がかりは、本書四巻の巻末にある次の許可証を見たとき、単なる気がかりとは言えない現実味をおびてきた。

常識で考えれば、米軍将校が持出許可証を発行した以上、堂々と大っぴらに持って帰れるはずである。

だがおそらく小松氏は、この米軍の下で働く日本人、いわば、虎の威を借りて、同胞の日本人を米軍以上に苛酷に扱う本っ端役人的日本人に、戦友の遺品まで強制的に捨てさせられたという話を、耳にしたか、自らそれと似た体験をしたかの、いずれかであったのであろう。

氏を用心深くさせたのは、おそらくそれである。

というのは、このことは、収容所ではだれ一人知らぬ者のない、周知の事実であった。

氏は復員船で名古屋に上陸された。
そしてそこの状態が、私が上陸した佐世保の外港の南風崎と同じであったら、氏の用心は決して無駄ではなかったのである。

終戦時、氏が収容されたのはネグロス島サンカルロスであり、この点、ルソン北端のアパリに収容されて地獄船でマニラに送られ、真夜中に豪雨の中を無蓋貨車とトラックでカランバン第一収容所へ送られた私と同一ではない。

従って収容時の体験が私と同じかどうかわからないが、氏は後にカランバンに移されたから、私たちの体験は耳にされたであろう。

私のそれは昭和二十年九月十六日(?)の深夜であった。元来は砂糖キビを運ぶために作られたという単線の、鉄道の駅舎もない無灯火の駅に、私たちは降ろされた。

駅名も何もわからず、プラットホームらしきところから降りれば、一面の泥濘である。暗闘で泥に足をとられつつ、骨と皮、半裸で裸足という大群が声もなく、ただ前の人間の歩く方へと歩く。

雨は遠慮なく降り、視界はゼロ。
何か悪夢の中を歩いているような状態であった。

遠くから数台の車のライトが見え、やや人心地を取りもどしたと思っているうちに、ライトはみるみるうちに近づき、目の前でぐるりと半転し、私たちに背を向けて並んだ。
いつしか急造の軍用道路のわきまで歩いて来ていたのである。

黒い影のような人びとが、無言で順々に、軍用トラックに満載されていく。
車は泥濘の道を、おそろしく乱暴に走る。

真暗な中に、前方に灯火が二つ見え、近づいてみるとその灯火は、大きな台の上にそそり立つ高い柱の上の、巨大な電灯であった。

何やら絞首台とも鳥居ともつかぬ形態のものが、ぽかっと闇に浮き出ている。車から降ろされ、雨の泥濘の中に四列に並んで座らされた。

何やら声が聞こえるが、意味はわからない。
突然、滝のような音がした。あの鳥居のようなものはシャワーで、二つの柱の間の高い横木は、四か所から、滝のように水を放出していた。

ライトに水がキラキラ光る。不意にそのキラキラが消え、消えたと思ったらまた見える。
四人ずつ順次に裸でシャワーをあび、シャワーを通過した形で向う側の聞へと消えて行く。

これは、衛生と完全武装解除をかねた入所式のようなものだったのであろう。
裸にされては、手榴弾を隠し持っているわけにいかない。

やがて私の番が来た。完全裸体、ただし私は、一枚の軍用毛布ははなさなかった。

多くの部下がこの毛布の上で息を引きとった。
到るところにべっとりと血がこびりついている。

遺品も遺骨も何一つ内地へ持って帰れないので、せめて部下の血のついたこの毛布だけはもって帰ろうと考えていた。

そのとき、米軍のゴムびきレインコートを着た一人の男が私に近づき、その毛布を捨てろといった。
彼は日本人であり、戦争終結前の捕虜であった。

私は頑として拒否した。

押問答がつづき、撲り合いになりそうな険悪な状態になった。
そのため、四列のうち私の列だけ進まない。

不審に思ったらしく米兵が来た。
私は裸のまま、下手な英語で手短に事情を説明した。

彼は簡単に「OK、ゴーヘッド」と顎をしゃくってシャワーを示した。
私は毛布を抱いたままシャワーを通過した。

この毛布は今でもある。
私は幸運だったのだろう。
このときもし米兵が来てくれねば、おそらくこの毛布は闇の中に消えていたと思う。

というのはこのとき私と前後してシャワーの関門を通過したアパリ気象隊のN少尉は、うまくいかなかったからである。

彼の部下のU軍曹は、七月二十日(?)、食料の探索に出かけてゲリラに射殺された。
その直前、ジャングルの出口で私は彼に会った。

急を聞いてN少尉が部下とともに現場に駆けつけたときは、ゲリラはすでに撤退し、U軍曹の死体だけが残っていた。

とはいえ死体収容に来たら、そしてそれが小人数だったら全滅させようと、伏兵がひそんでいる可能性はある。

U軍曹は元来は中小企業の社長で、立派な鰐皮の財布をもっていた。
N少尉は、遺髪を切り取り、それをその財布に入れ、遺体はそのままにしてジャングルにもどった。

当時の情況ではこれが精一杯であり、遺体に気をとられていては、生きている部下を殺してしまう。

彼はこの財布を肌身離さず持っていたのだが、このシャワーの関門で、強制的に捨てさせられた。

内地に帰るとすぐに、彼はありのままを手紙に記して、遺族に送った。

遺族は激怒した――一体それで隊長か、部下への責任を果したといえるか、射殺された、遺体は捨てた、遺髪と遺品はもっていたが捨ててしまったとは。

一体なぜ捨てた、そんな無害なものを捨てさせられるはずはあるまい、言い逃れをするな。手紙ではわからぬ、釈明に来い
――といった返事が来た。

何よりも遺族を怒らしたのは「遺品と遺髪を捨てた」という言葉だったらしい。

彼は結局、遺族のところへ行かなかった。
三十年たっても彼は言う「行けませんよネ、行ったってどうにもならない。あの状態は話したって、わかるはずがありませんよ」。

彼は英語が出来なかった、そして「米兵という助け主」も現われてくれなかったのである。

捨てる必要のないものまで強制的に捨てさせられた、という体験は、収容所内のすべての人がもっていた。

乗船で、あるいは内地上陸で、同じ状態が再現しないという保証はどこにもない。
そして私の場合は、確かに南風崎で再現した。

復員船の中で、旧日本軍の冬服を支給された。
そして、上陸と同時に、米軍に支給されたもの、米軍の資材等を加工したもの等は、すべて捨てるように命令された。

理由は、米軍の品を日本人がもっている場合、それはすべて盗品か横流し品と認定されて軍事裁判にかけられるから、ということであった。

あとでMPの検査があるといわれた。
もちろんこれは「おどし」で何もなかったが、しかし、せっかく内地に帰ってまた米軍の収容所などに入れられてはたまらないという気持になるので、私などは、全部捨てた。

小松氏のノートは厳密にいえば、米軍の資材を加工したものになる。
もちろん米軍はそんな細かいことはいわない。

しかし、その下にいる日本の”お役人”は何を言うかわからない――現地では、米軍の支給品をもつことは当然でしょう。しかし内地では”進駐軍の命により”それは許されません。現地の米軍の特出許可はあくまでも特出許可であり、内地への持込みの許可ではありません。問題が起るとこまりますから、その日記は放棄して下さい――。

お役人の言葉はおそらくこうだが、しかし彼が日本人なら骨壷の中はあけては見ない

小松氏の念頭にあったのは、おそらくこの危惧であったろう。
そして、その危惧は、持つのが当然であり、おそらく、持ってよかったのである。

なぜこの種の人たちは外国の権力を笠に着ると、あれほどまで同胞に横柄かつ冷酷になれるのであろうか

これは外来思想の権威を笠に同胞を見下す”知識人”の小役人的表現なのかも知れない。

従って、もしこの二つが一体化したら、いわば”社会主義的権威”の下、ソヴェト・中国の権力下に政府が出来たら、その末端の小役人がどのように庶民を扱うかを彷彿とさせる光景である。

そしてその原形はすでに、収容所に出現していたわけである。
後述するが、小松氏は、それらについて別のさまざまの例を詳細に記している。だがここではもう一度、「序」と「まえがき」にもどろう。

一体小松氏は、いかなる動機でこの『虜人日記』を書いたのであろう。
人が何かを書く場合、必ず動機があるはずである。

横井・小野田両氏の場合も何らかの動機があったであろう。

だがその動機が何であれ、小松氏のように「経験した敗戦の記憶がぼけないうちに何か書き止めておきたい気持」いわば、時間とともに流れ去り消え去っていくものを文字に固定してつなぎとめておこう、という気持でなかったことだけは確かである。

もしそういう動機が両氏にあれば、小松氏のように、苦心惨憺して書写材料を自ら創作しても、終戦直後のことを書き留めておいたはずである。

二人の動機は小松氏と違い、その動機の中にすでに読者が想定されている
だが小松氏にはそれがない

これが同氏と小松氏の動機の違いであり、その違いは結局、その内容の決定的な違いとなっている

といっても、由紀夫人の「編集にあたって」には「いつか出版したいと思っていたようでございますが、遂にその機会を得ないまま……」とある。

従って小松氏に、出版の意図が全くなかったとはいえない。
だがこのことは、その動機の中に読者を想定することとは別なのである。ではそれは、どのように違うのか。

前に「……その返事は留保せざるを得ない」と書いたのはこのことである。

前述のN少尉は、U軍曹の戦死の情況を遺族に書き送った。
従って、N少尉の念頭に遺族がなかったとはいえない。

しかし手紙を見て遺族が激怒した。
もし彼がその要請に応じて釈明に行ったらどうなるか。

簡単にいえばこのとき彼は遺族を意識し、遺族の取材に応じたわけである。

そしてこのときの意識と、はじめて手紙を送ったときの意識ははっきり別であり、遺族を意識しているから両者は同じだとはいえない。

これが前述の「違い」である。

後者は、遺族の頭の中にある「予定稿」を意識しているのである。
そしてそこへ行けば、たとえN少尉が一言の虚偽も口にしなくとも、相手は、自分の予定稿に適合した部分しか取材せず、自分の予定稿の裏づけの言葉しか聞こうとしない

従ってそこにあるものは、対話の如くに見えながら、実は、遺族の独白にすぎないのである。

人はこの場合どうすべきか。

予定稿に組み込まれ、はみ出した部分は捨てられることを覚悟して、何か言うべきか。
それともN少尉のように沈黙で押し通すか。

私はここで、『月刊エコノミスト』〔一九七四年一二月号〕に載った田原総一朗氏の「わたしのアメリカ」の中の「ベトナム帰還兵」からの取材の状況を思い出さざるを得ない。大分長いが次に引用させていただく。


帰還兵たちは、わたしたちを取り囲むようにカメラの周りに集まって来た。
わたしは、手あたりしだいに彼らの一人一人にマイクを向けて言った。

――あなたはベトナムに行っていましたか?

「行っていた」

海兵隊の帽子をかぶった兵隊だった。

――ベトナムで何をしていましたか?

「ヘリコプターで運ばれて、裏面にまわって敵をやっつけた」

――何人ぐらい殺した?

「よく憶えていないし、言いたくもない。(中略)……」

隣には長髪にひげを生やした男がいた。

――あなたもベトナムに行ってましたか?

「陸軍の作戦に参加した」

――あなたの役割は?

「機関銃を撃っていた。チライというところの戦闘では五十メートルぐらいの距離で敵と撃ち合ったことがあった」

――何人を殺したか?

「よくはわからないが、五、六人には当たったように思う」

――あたかもベトナムに行っていましたか?

「行っていた」(中略)

――直接戦闘は?

「答えたくない。ただ、そのときは何かを感じる余裕もなかった。いまでは、もちろんよくないことだと思っている」(中略)
                                
終わりまで聞かずにわたしはその兵隊の前を離れた。何人かの帰還兵の話を聞きながら、わたしはいらいらしはじめていた。

帰還兵たちはわたしの質問に何の疑問もはさまずに、実に素直に答える。

しかもその答えは、まるで口を合わせたように、直接の殺し合いの話になると、よく憶えていない、話したくない、殺したかも……と言葉をにごし、最後に、そのときは悪いと思っていなかった、判断するゆとりさえもなかったが、いまでは……とくる。

まるでパターンだ。どれもがもっともらしい言い逃れのパターンである。

本当は人間を殺すときに人間は何を思うのか、殺しの手応えとはどういうものなのか

たてまえではない、良心ぶった弁解ではなく、もっと本音が聞きたい、本音が出ないのは、逆にいえば殺人殺戮と向かい合う、自分がかつてやった行為と向かい合うのを避けている、逃げている、ごまかしていることではないのか、と、わたしは、しだいに露骨に挑発的に、まるで喧嘩を売るように帰還兵たちに言葉をぶっつけていった。

「人を殺すのは本当に悪いことなのか」

「ベトコンのほうだって殺人をしているじゃないか」

「なぜ、ベトナムの戦場では殺人が、戦争が悪いとは思わず、さんざん人殺しをした後で、悪かったなどと言ってみせるのか」
「つまりは、あなた方は、自分の行為の免罪符を得ようとしているだけではないのか」

そのときだった。ひとりの男が割り込んで来て、いきなりマイクをひったくろうとした。

録音担当の安田哲男はデンスケを担いだまま路上に転び、カメラマンの宮内一徳はカメラをまわしながら、逆に男に接近した。

「何のためにフィルムを撮るんだ。誰に断ったのか」

男は大声で怒鳴り、腕をふりあげて宮内カメラマンのほうに向かう。
何人かが、男に同調して、「ジャップ、取材をやめろ」と叫ぶ。(中略)

「お前ら日本人には話す必要はない」
 
――なぜだ。わたしたちが東洋人だからって馬鹿にしているのか。

「無責任な野次馬だからだ。日本人はベトナム戦争を高見の見物で、そのくせごっそりと特需でもうけている。
ベトナム戦争をくいものにして、さらにフィルムに撮って商売しようっていう魂胆なのだろう?」



確かにこの記者の言っていることは御立派なのだ。
全くやりきれないほど御立派なのだ

もちろん取材をうけているのは私ではない。
しかしこれを読んでいるうちに、私はいつしか自分が取材をうけているような妙な気持になってきた。

「どれもがもっともらしい言い逃れのパターンである」と記者は断定している。

「言い逃れ」、一体「言い逃れ」とは何を意味しているのだ
これは、U軍曹の遺族がN少尉に言った言葉だ。

だが、これも結局は記者の「予定稿」にはまらないということであって、兵士は、N少尉同様、一言も言い逃れなどはしていない。

この兵士の言い方は、確かにN少尉の言い方である。最も正直な言葉なのだ。
                                、
一体この記者は、兵士が何と言えば、「言い逃れでない」と認めるつもりなのか!

もしもある兵士が、もっと巧みな言い逃れ、すなわち相手の予定稿通りのことをいえば、この記者はそれを「言い逃れでない」と認めるであろう

それはU軍曹の遺族が要求したことだ。

常にくりかえされるこの同じこと――N少尉が、遺族を訪れて「最も巧みな言い逃れ」をやれば、相手はそれに満足し、「言い逃れでない」と感ずること。

だが相手がそう感じたということは、対話が成立したことではない

否、逆であって、両者の間が決定的に断絶したということなのである。

常に起るこのやりきれない光景。

だが私は、遺族だけはそれが許されると思っている。

しかし、それ以外の一体だれに、こんなことを断定する権利があるのだ

この取材者は、「戦場におかれた兵士」というものを正確に掴んでいるのか。

掴んでいない

それさえ掴まずに勝手な断定をするとは。

一体なぜ、まず戦場の兵士の実態を謙虚に取材しようとしないのか。

一人の人間が前線に置かれる。
彼の視界は、快晴の日中に平滑地で三百メートル、雨天・曇天・朝夕には、せいぜい百メートルである。

しかもそれが最大限であって、戦闘となり、ピタリと地面にはりつけば視界は前方のみで十メートルもない。

見えないのだ、その見えない人間に、何を聞いても答えられるはずがないではないか

取材者は「何人ぐらい殺した」「何人殺した」と執拗に取材している。

全くばかげた質問だ、戦場の兵士に、そんなことがわかるはずはない。

第一、五メートルも離れていない隣の兵士の戦死の情況だって、正確にはわからない。

わからないことはわからないのだ、それを正直に言うことが、なぜ「言い逃れ」なのか。
一体、どういう嘘をつけば、言い逃れでないと認定してくれるのか。

戦場では殆ど――特に第一線で戦闘状態にあれば――新聞・ラジオ・テレビといった情報源は全くない。

そこにいる兵士は、最大限五百メートルの視界と、戦場をうずまくさまざまなデマ、あらゆる種類の伝聞の中にいる。

一兵士は戦場ではそのように、徹底的に遮断され、何もわからない状態におかれている。

少し冷静に考えれば、この『月刊エコノミスト』の取材者の言葉が、いかにばかげきったものであるか、だれにでもわかるはずである。

U軍曹は私の前方約二百メートルぐらいのところで射殺された。
また親友であったI少尉は私の前方百メートルぐらいのところで射殺された。

しかし私は、二人の「死んだ瞬間」の情況を知らない(聞かないとは言わないが)。

この私が、もし、この二人の前方さらに百メートルか二百メートルのところにいる米比軍を、「何人殺した」とか「何人射殺した」とか言ったら、それは私が嘘をついたにきまっているだろう。

では私のところは後方の安全地帯だったのか。

もちろんそうではない。
現代戦、特にジャングル戦は戦線が犬歯状に入り組むから、敵は、前にいるのか横にいるのかわからない。

もちろん私のところにも弾丸はとんでくる。
だが発射音は一瞬であり、その瞬時の音から、相手の射撃位置を的確につかむことは、簡単ではない。

内地から来たばかりの兵士が逆方向に伏せ、敵に足を向けて銃をかまえるといった珍現象は少しも珍しくない。
そして時にはあわてて反射的に応射する。
またたとえ一瞬目標らしきものが見えたとて、射った兵士には何もわからない。

近代戦では敵影は見えない

そんなわかり切ったことを今でも知らない人がいると会田雄次先生が言われたが、この取材記者もその「わからず屋」の一人なのであろう。

このような状態で兵士にこういった取材をして、一体何を聞き出そうというのだろう、どういう予定稿をうめたいというのだろう。

兵士は正直に答えているではないか。
「よく憶えていない」「よくわからない」そして「言いたくない」と。

私だって、こういう取材には、これ以外に答えようがない。

一体これがなぜ「言い逃れのパターン」なのだ、どこが「もっともらしい」のだ。
一体この記者はなぜそう断定するのだ、理由を聞かしてもらいたい。

もっとも「予定稿」をもっているのはこの記者だけではない

横井さんが出てくればすぐ「戦陣訓」という予定稿が出され、小野田さんの生存が確認されればすぐ「天皇が直接声をかけたら……」という予定稿が出てくる。

では一体この記者が、横井・小野田両氏を取材したらどうなるか、結局二人の言葉はすべて予定稿に組み込まれ、入らない部分は「言い逃れ」の一言で捨てられてしまうであろう

そして二人が、事実を語れば語るほど「言い逃れ」だとか「もっともらしい」という言葉で棄却されるに違いない。

これが私のいう予定稿以外は捨ててしまうという意味である。

戦争には、行動のほかは、「見」と「聞」しかない。
そして個人の「見」の範囲は、前述の通りである。

従ってもし「見」だけを記せば、それは、一兵士という移動する「点」の周囲の三、四メートルに限られる。

それ以外のことは彼は「知らない」し「わからない」。
従ってそう答えるのが正直であり、何度でもいう、これは「言い逃れ」ではない。

N少尉は部下のU軍曹の戦死の情況は「知らない」。
知らないから知らないとしか言えない。

彼は部下から報告をうけその現場へ向っただけである。
従って、そのときの細部は「わからない」。

わからないから、彼はわからないと言っただけである。
だがそういえば、一方的に「言い逃れ」と断定する。

そして戦場の「見」は、比島の如く四十数万が短時間で死体になったとて、大体これが普通である。

一体この取材者は、どういう前提で兵士に質問を発しているのであろう。

「殺しの手応え」などというものが戦場にあるはずはないではないか

ない、ないから戦争が恐しいのだ、なぜ、そんなことがわからないのか。

これはおそらく、戦争中から積み重ねられた虚報の山が、全く実態とは違う「虚構の戦場」を構成し、それが抜き難い先入観となっているからであろう。

戦場の「見」の範囲がどれだけかということ、射った弾丸の正確な行方などは、内地の三百メートル実包射撃でだって、射手には判定がつかないのだということ、まして戦場ではそんなことは皆目わからない。

さらに敵が倒れるなどという光景は、すべての兵土が地面にへばりついている近代戦では、はじめから起りえないぐらいのことは、ちょっと調べれば、だれにでもわかるはずだ、また一見そう見える場合も、耳元を銃弾がかすめたので、あわてて、伏せたにすぎない場合もある。

否、これが殆どだ

――それをしないで、予定稿に適合する言葉を無理矢理”取材”しようとする。

そして『虜人日記』は、こういう状態とは、全く無関係であり、従ってここには、「見」の範囲が明確に出ているのである。

では「聞」はどうか。

N少尉にとってU軍曹の戦死は「聞」であって「見」ではない。

確かに彼はその遺体を確認したから、「遺体」については「見」である。
一方私にとっては両方とも「聞」である。

そして「聞」であるという点では、遺体から二、三百メートルのところにいた私も、遠く内地にいた家族も、実は、同じなのである。
人びとが錯覚を抱くのはこの点である。

とはいえ両者は同じではない。

私にはN少尉の言葉がそのまま理解できるが、遺族にとっては理解しかねる「言い逃れ」だという点である。

「言い逃れ」と言われてどうするか。

N少尉のように沈黙で押し通すか、「ジャップやめろ」と叫んで暴行をするか――多くの人は、否、少なくともわれわれ日本人は、どちらもせず、相手の常識という予定稿と「なれ合う」のである

そしてそれを「対話」と呼ぶ、実は、遮断であるのに

そして『虜人日記』にはそれがない。

「見」にそれがない如く「聞」にもそれがない。
読者もしくは読者を代表する取材者との「なれ合い」は皆無である。

そして「見」と「聞」を、実に正確に書きわけている。

これは同氏が化学者で、その観察が必然的に科学的になったのだとも思えるが、おそらくはそれよりも、うすれ行く記憶を出来うる限り正確に書き留めておこうとする著者の、いわば、邪心なき意図のたまものであろう。

ヒストリアというギリシア語は通常「歴史」と訳されるが「目撃者の記録」という意味もある。

その意味で本書はまぎれもなきヒストリアである。
そして著者はもうこの世にいない。

その意味では本書は、一点一画の改変も許されない「遺書」である。

本当に対話が成立しうるのが、このような「言い逃れ」のない真正のヒストリアであり、私は本書を開けると、やっと一つの真実に会えたように思えて、一種、ほっとしたような安らぎをおぼえるのである。

(~終わり)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第1章 目撃者の記録/P17~】


読了お疲れ様でした。
見事に田原総一朗の取材が例として使われていますね。しかも、反面教師の極上な”ダシ”として。

山本七平が、ここまで丁寧に、完膚なきまでめった斬りしたのはちょっと珍しいと思います。
普通「…のか」「…のだ」「!」なんてそれほど多用しない人なのですが、余程、田原総一朗の取材(及びマスコミ)に腹が据えかねていたのかも知れません。
(しかし、昔から田原総一朗ってのは、このような”決めつけ”を多用していたんですね。困ったもんです

それはさておき、この「予定稿」というものは、マスコミに限らず誰の頭の中にもあるわけですが、普段、あまりこの存在を意識していないのではないでしょうか。

田原総一朗の取材というのは、それが非常に濃厚に出ている(そして本人は全くそれを意識していない)わけですけど、我々自身も大なり小なり似たようなことを無意識のうちに行っているはずです。

このこと自体は、人である以上避け得ないものだとは思うのですけど、上記の山本七平の説明を読むと、自らの「予定稿」を”意識する”必要があるのではないか…と思うのです。

意識しなければ、平気で「決めつけ」「言い逃れ」と勝手に断定して、自分の「予定稿」に適合する部分のみ受け入れ、それ以外は切り捨ててしまう。

これを防ぐには、やはり異論を頭から拒否するのではなく、(受け入れずとも)受け付ける姿勢を取るしかない、そして、自らの「予定稿」を殊更意識する必要があるでしょうね。

また、我々日本人というのは、どうも仲間内の諍いを避けるため、”「予定稿」となれ合って”しまう傾向が確かにあると思われます。
これも「事実の認定」「真実の追求」を阻み、現実を直視することの妨げになっているのではないでしょうか。

上記の説明を読むと、そうした様々な問題点が明らかになってきます。
そうした問題を認識する上では、まあ、あの田原総一朗も一応役に立った…といえるのではないでしょうか?

しかし、凡人ならば単なる田原総一朗批判に終わってしまうところを、それを素材に、真の問題点に切り込み誰にもわかりやすく解説してみせる山本七平の筆力には、改めて感心してしまいます。


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コメント

偽物

mugiさん、コメントどうもです。

ランボー。見たことあります。
ただ、ベトナム戦争がどういうものか知らないまま見ていたので、スタローンが泣いているシーンは、当時の私にはちょっと不可解な印象だったこともあり、記憶に残っています。
今考えると、ランボーとは単なるアクション活劇じゃなかったのですね。その後のシリーズは単にアクション映画に成り下がってしまった気がしますが。

>「八紘一宇」を叫んだ者が共産主義に擦り寄ったのは、大っぴらに「反米」がやれるからであり、ベトナム反戦運動の動機にアメリカへの戦争時の恨みもあったのではないか

なるほど、そういわれると確かに頷けます。
前々から思っていたのですが、日本には本物の共産主義者は存在していないんじゃないかと。日本の共産主義というのは、単に「反米」のための看板でしかない偽物に過ぎないような気がします。

  • 2008/12/27(土) 11:43:54 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

ランボー

 ベトナム帰還兵が主人公の映画『ランボー』シリーズ、ご覧になられたでしょうか。
 第一作目で主人公が戦場から帰還したにも関らず、「国に戻ってみれば、バカどもが“赤ん坊殺し”と罵る。俺たちは何のために戦ったのだ?」と、唯一の理解者であるグリーンベレーの大佐に憤りをぶちまけ、男泣きしていました。単なる筋肉マッチョの映画だけではなく、このシーンは考えさせられました。同じ米国人メディアや平和団体が、その「バカども」でした。

 英国人作家F.フォーサイスの小説『戦争の犬たち』で、主人公の傭兵が恋人にこう言った台詞は辛辣です。
「ベトナムで戦ったGIたちは、人生のために、自由のために、幸福を追求するために死んでいったと思うかい?彼らはウォール街のダウ平均株価のために死んだのさ…」

>>無責任な野次馬だからだ。日本人はベトナム戦争を高見の見物で、そのくせごっそりと特需でもうけている。
>>ベトナム戦争をくいものにして、さらにフィルムに撮って商売しようっていう魂胆なのだろう?

 若い頃から田原節は変わっていませんね。もちろん米国兵の言うことは正しい。しかし、ベトナム戦争でもっとも大儲けしたのはアメリカ軍需産業であり、その戦争を日本も含め先進国、途上国問わず格好の商売と勤しんだ。食い物にされたのはアメリカの下層階級の若い兵士たちでした。これは現代のイラク戦争も基本的に同じ。
 戦前、日中戦争時も欧米各国は日中共に兵器を売りつけ、ヒトラーにも売り、枢軸国を潰すため更なる兵器を造り、それも売って大儲け。戦後、「八紘一宇」を叫んだ者が共産主義に擦り寄ったのは、大っぴらに「反米」がやれるからであり、ベトナム反戦運動の動機にアメリカへの戦争時の恨みもあったのではないか、と私は想像したくなります。

  • 2008/12/25(木) 22:18:11 |
  • URL |
  • mugi #xsUmrm7U
  • [編集]

きょうこさんへ

きょうこさん、初めまして。
コメントありがとうございます。

山本七平の魅力を感じていただけたようで、記事をUPした(といっても、丸々引用しただけですがv-356)私も非常に嬉しいですv-290

山本七平の主張は、今の時代にもきっと通用する…。

そんな思いで紹介記事を書いているのですけど…。
これからも宜しくお願いします。

  • 2008/12/18(木) 21:44:38 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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はじめまして。
阿比留記者のブログに導かれて、訪問させていただきました。
山本七平氏、恐ろしいような眼力を持つ方でしたね。ここ数年山本氏の著書を手に取る機会がありませんでしたので、久しぶりに山本氏の文章に接し、言い知れぬ感動を覚えました。有難うございました。
私は、日本という国も日本人も好き(相対的に見て、いいセンいってると思うのです)ですが、同朋に対して占領軍以上に酷い仕打ちをした木っ端役人根性もまた、日本人の内なる弱さの表われですよね。
また、山本氏がみごとに看破なさった田原総一朗のうそ臭さは、まさしく言い得て妙ですが、いちいち腹を立てる感性も誠実さも失って、ひとつの「政治芸能ショー」として消費している私達。彼のような電波芸人がこの世の春を謳歌しているのは、面白がる大衆が多いということの表われですよね。
多義的で奥の深い山本七平氏の著書、改めて読み直してみようと思いました。ブログ、楽しみに読ませていただきます。

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一知半解

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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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