一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

違和感のある情報を受け付けようとしない「体質」について考える

前回の記事『平和主義の欺瞞【その1】~日本人の平和主義は「強姦された女の論理」~』で、ある護憲派のご婦人とコメント欄にて議論したり、その方のブログを読んでみてつくづく感じたことは、「人と言うのは本当に自分に都合のよい情報しか受け付けないのだなぁ…」と言うことです。

むろん、これはその方に限った話ではなく、私自身にも当てはまるんですけどね…。
ただ、少なくとも私自身は、自分自身に「その恐れ」があることを自覚しているつもりです。

ところが、「その恐れ」を全く自覚していない人がいる。
前述のご婦人などは、まさにその典型に当てはまるのではないかと思います。

このことについて考えていたときに思い出したのが、昔読んだ山本七平の次のコラム。
今日は、そのコラムが載っている『「常識」の研究』より以下引用紹介していきたいと思います。

「常識」の研究 (文春文庫)「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
山本 七平

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◆情報の価値

さまざまな場合にその例が見られるが、われわれには違和感を感じる記述・統計・報告などを、なかなか受けつけない体質がある

主婦などが「肌で感じたことと全く違う」といった表現で、政府が発表した数字などを拒否している記事が新聞に出るが、大変に面白い現象だと思う。

というのは、こういった主婦には、巨視的に把握された数字と自分の直接の感触との間に違和感があって当然、否むしろ違和感があるがゆえにその数字が大切なのであり、違和感を感じないなら、その数字はむしろあやしいものだといった発想が全くないからである。

情報は、自己の感触と違うものほど価値がある
同じなら、ある意味では無用である。

だがこの自明のことが無視され、前記の傾向が極限まで行けば、その人は自己の感触以外は一切信頼せず、他の情報をすべて拒否するか、自己の感触に適合した情報にしか耳を傾けないという態度になって不思議ではない。

そして、これは実質的には感触のみであるから、このとき人は盲目同然となり、自己の触覚で知りうる範囲内だけで判断を下して行動に移る。

これが集団的に起これば、簡単にパニック状態を現出して当然であろう。

現代は、情報社会だという。
しかし情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。

この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由にまかせれば、人びとは違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否するという結果になる。

それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏づける作用しかしないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人びとは自己の感触を絶対化していく

これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得る世界にだけ往み、感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく

それでいて本人は、自分は多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚はもっている

それが感触に基づく判断を社会的に刺激して、それだけで断定的評価を下す結果となり、情報の受容をさらに困難にする

この悪循環は多くの国で問題とされているが、おそらくこの面での最悪の現象を呈していると思われるのが日本で、不思議に前記のような指摘はなく、これをどう解決すべきかという提案もない。

(後略~)

【引用元:「常識」の研究/Ⅲ 常識の落とし穴/P116~】


ちょっと話がずれてしまうかも知れませんが、これは、いわゆるメディア・リテラシーの問題にも絡んでくるのではないかと。

そもそも、たとえ情報が氾濫しているといっても、全ての人びとが「情報の価値」を精査して正しく取捨選択できるわけではないことは、もともと人間には「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」がある以上、当たり前であって仕方のない事かも知れません。

けれど、仕方がないと諦めるわけにもいかないですよね。
ではどうすればよいのか?
上手くまとまりませんが、自分の考えを述べたいと思います。

たとえば、情報が制限されているような(いわゆる北朝鮮や中国などのような)統制社会であれば、その情報に扇動や誘導という目的が隠されているのではないか…と、人びとも警戒心を持ち得ます。

しかしながら、中国・北朝鮮のように強権を以って情報を制限することができない日本のような社会ではそうした情報制限を行なうことが出来ません。

そうした場合、扇動者はどのように世論を扇動したり、誘導するのでしょうか?

山本七平は「ある異常体験者の偏見」の中で、パウル=ロナイ教授の言葉を引用しながら次のように説明しています。

パウル=ロナイ教授が『バベルへの挑戦』の中で、言葉には「伝達能力」があると同時に、「隠蔽能力」があることを指摘している。あることを知らせないために百万言を語る…(以下略~)


つまり、あることを知らせないために、わざと情報を氾濫させるわけですね。
そして、「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」との相乗効果を期待する。

なにせ一見情報が溢れていますから、情報を受け取る側には「多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚」があります。
この”錯覚”が、もともとある「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」をますます助長するわけです。
そうすると、もはや厳然たる事実を目の前に突きつけられても、何もわからなくなってしまう。

多かれ少なかれ誰にもそうした傾向はあると思うのですが、そんな中でも憲法9条教の人たちは、その傾向がヒドイように見受けられます。

世論を扇動したり、誘導する扇動者の側からみれば、このような言葉のもつ「隠蔽性」や「違和感のある情報を受け付けようとしない体質」を利用しようとするのは当然のことでしょう。
扇動の方法も、情報を統制するという単純な統制方法と違って、扇動されている側が自覚しないという点も洗練されていて、扇動者には好都合ですよね。

その最たる成功例が、占領軍が行なったプレス・コードなのですが、このことについては山本七平が「ある異常体験者の偏見」で詳しく説明していますので、近いうちに紹介記事を書きたいな…と思っています。

さて、それでは、情報を受け取る側は、こうした状況にどのように対処すべきなのでしょう。
私が考えるに、次のことではないでしょうか。

1.人はかたより見るものだという前提で考える。
2.違和感を抱く情報こそ貴重だと受け止める。
3.異見を受け入れる度量を示す。


もちろん、これが出来ていたとしても、正しい情報がまったく流れていない場合は無力だとは思いますが…。
ただ、これらが出来ていない人というのは、いわば「扇動者」の資質を多分に持っていると見てよろしいのではないでしょうか。
(護憲派のブログってほとんどこれが出来ていないんですよね)

ちなみにですが、山本七平はこのコラムの中で、「情報を伝達する側」が取る解決策として、次のように示唆しています。

強い敵意と違和感のため、相手が絶対に受けつけないメッセージを、いかにして相手に伝えるか。

その方法は一つしかない。

これは多神教のローマに進出した初代キリスト教徒が迫害と殉教の中で会得した方法で、その第一歩は「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」である。


正直なところ、上記の解説は私にはちょっと抽象的なので、具体的にどうすればよいのか把握できない(まず、私がキリスト教徒が会得した方法を知らないせいもある)のですが、何かこの方法って、どうも「洗脳ではないか」という印象を抱きますね。

そうしないと、相手に「正しく情報を受け入れさすこと」って出来ないのでしょうかねぇ?


【関連記事】
・アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~
・人はみな「選択的良心」の持ち主である。


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コメント

tikurinさんへ

 tikurinさん、レスを有難うございました。山本ファンとそうでない者では所詮見解が異なるので、今回で私からもレスを終わりにさせて頂きます。

>無名人だから無責任な発言をしても良いということにはならない、といっているだけです。

 もちろん仰るとおりですが、人の口に扉は立てられないのが人間社会。発言の責任を喧しく追及することこそ、異論や言論抑圧に繋がるのでは?『日本人とアメリカ人』に目を通したのですが、例え相手の言葉遣いや態度が悪かろうが、発言は許すのがアメリカだと山本が書いていたのを憶えています。

「ペンネームについて」なら以前拝読したし、その感想も書いています。貴方は理解する必要があると仰いますが、理解度は個人によって異なるのをお忘れではないでしょうね。そして踏み絵についての例えも、正直にいわせて貰えばおかしい点があります。これはブログネタになりそうで(笑)。

>では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね。

 個人的にインドに関心がありますが、ヒンドゥー文化圏もまた多神教or汎神論。もちろん日本と違い、多民族、多宗教国家で社会背景は全く異なるけど、あれだけ多様な思想を認める文化圏もない。日本の場合、横並び傾向が異様に強いのは確かです。イスラム圏はまだマシですが異端審問、魔女狩りを西欧が行っていたのは遠い昔ではありませんでしたし、儒教圏は19世紀までキリスト教徒迫害は続きました。

>ご自分の”正確な記録”は疑っていませんね

 そこまで私は絶対的な自信はありませんよ。山本も含め人間誰しも間違いを犯すし、だから「正確に書いた“つもり”」とコメしました。間違いがあると感じられたなら、是非指摘して頂きたかったです。貴方も山本とユダヤ人との版権問題を挙げて、「事実は次の通りです」と断定形で明記されましたが、これも“事実とされていること”であり、真実は実際の所、第三者には確認できません。

>これは山本をレイシズムの持ち主=レイシストと決めつけた言葉ですね。

 ああ、そうでしたね。山本教徒からすれば大変な不敬発言で失礼致しました。mottonさんというのは時々拙ブログにコメントされる方で、勇み足気味の私に対し、鋭い指摘をされる上、私より学があるのでこの方の意見は尊重しています。貴方は不快でしょうけど、彼のコメントを改めて挙げておきます。
-一兵卒の視点から日本(日本軍)の問題を日本人論とからめて書いているのですが、一言『貧すれば鈍す』でほとんど終わる話です…「敗れたのか」ではなく「敗れるのか」かなんですよね。ということは、その原因から当時の環境(貧しさ)に起因のものは除かないと意味がない。ところが全てを日本人(日本社会) に原因をもってきているように見えました。これは科学的思考ではなくレイシズム的思考でしょう…

 さらに彼は、こうコメントされてました。
「日本人とユダヤ人」などを読んで思ったのは、日本人が情で動くとか控えめとかとんでもない誤解なんじゃないかということです。むしろ日本人は合理的で利に敏いのではないかと。
「空気を読む」にしても、短期的には損をしても集団内での長期的利益を確保するための計算された合理的行動ですし、舶来崇拝も、栄えている(と伝え聞いた)国のものは良いもの(利益になるもの)であろう、ということじゃないかと思います。
(山本七平によると「日本人は政治の天才」だそうです。)
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/ee4cedff4b3e7bc0ddaabd9435195690#comment-list

>貴方の欧米キリスト教観やイスラエル観についてとやかく言うつもりはありません

 とやかく言ってくださっても結構ですよ。「言葉の力」を信じている貴方なら、鋭い反論が出来るはずだし、私の浅はかな誤りを指摘されるのは有難いことです。

 左翼が議論する時、彼らの決まり文句は次のパターンでした。「無責任な発言」「~を理解する必要がある」「甚だ穏当を欠く」「十分調べもしないで」「やめるべき」「勝手な論」…
 私からすれば、彼らこそ責任を欠く発言をし、理解というより願望解釈、よく調べもせず穏当を欠く勝手な発言を繰り返す。要するに己自身は棚に上げ、感情的に他人を糾弾、説教している狭量さ。なお、相互理解というの社会主義用語だったと書いたブロガーさんもいました。貴方はまさか左翼ではないと思われますが、本当にお互い気をつけましょう。

 以上、不躾な非信者のコメントに真摯にお相手をして頂き、有難うございました。貴方の多神教or汎神論への見方は、実に興味深く参考になりました。
 また、一知半解さん、長文コメントを失礼致しました。

  • 2009/07/05(日) 17:21:56 |
  • URL |
  • mugi #xsUmrm7U
  • [編集]

mugiさんへ 
 貴方の言葉
 ”私自身は「言葉の力」をあまり信じておりません。ブロガーがこんなことを書くのは意外に思われるかもしれませんが、ネットやブログは私にとって趣味であり、情報収集のツール以上のものではありません。ハンドルからしていい加減な人間だし、己の言葉に力があるとは思ったことはないのです。”
 と書いたので、これ以上の議論は必要ないと思っていました。今回で終わりです。応答ありがとうございました。

mugi著名人の発言は無名人とはその影響力が格段に違い、特権に伴う責務もあると思います。無名人も著名人も一緒というのは、あたかも日本的平等思考のようですね。

tiku 私は著名人の発言が無責任であって良いと言っているのではありません。ただ、無名人だから無責任な発言をしても良いということにはならない、といっているだけです。

mugi そして、著作がユダヤ人との共同作業だったとしても、存在しないユダヤ人ベンダサンというキャラクターの名で本多との論争を行ったのならば、左翼が偽ユダヤ人と糾弾するのは当り前なのです。ファンならそれでよいとするでしょうが、非ファン、まして敵ならそう思わない。何故本名で論争をしなかったのか、これは実に残念です。当時の言論界は山本のような発言を許さなかったから?ならば、彼もまた空気に屈したとなりますね。ユダヤ人の威を借りた文化人と見なされる可能性もあるのに。

tiku  ベンダサンが『諸君』に「日本教について」というエッセイを連載していて、その中の「朝日新聞のゴメンナサイ」という記事に対して本多勝一氏が論争を挑んだのです。
また、ペンネームは偽名でも匿名でもない(「山本七平学のすすめ」参照http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/goroku_bendasan.html#ペンネームについて)、ということを理解する必要があります。議論は本論で堂々とやればいいのではないでしょうか。

 mugi貴方が仰る「自己絶対化」という概念が、私にはよく分らないのです。自己正当化なら分りますし・・・

 tiku mugiさんは聖書にお詳しいようですが、私は、それは、唯一絶対神と人間との垂直の契約関係を基軸にして、人と人の横の関係のあり方を述べたものと理解しています。「自己絶対化」とは、神ならぬ人間である自己自身を絶対的な位置に置くことです。私はその危険性を指摘しているだけです。mugiさんは一神教が「自己絶対化」につながることを心配しておいでですが、聖書における神と人間との関係は基本的に律法的契約関係であって(それも新訳では隣人を慈しむことを第一義としている)、人間の方から神に接近しそれと無条件に臨在感的に一体化することではありません。いうまでもなく後者は日本的な神人関係ですね。ただ日本の場合は神概念そのものが絶対神ではないので危険性もないのですが、これが平田篤胤のように日本神話を(イザナギ、イザナミをアダム、エバに擬し)創造神話化すると、その末裔に、神と人が万世一系でつながっているゆえに、自分自身を絶対化するものが現れるのです。これが昭和の超国家主義の源流となったのです。

 mugi「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。

tiku  では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね。

>要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。

 mugi人間は嘘をつく生き物であり、世に出回っている“正確な記録”なるも必ずしも信用は出来ません。

tiku 完全に正確な記録は誰にも書けませんが、複数の”不完全な記録”をもとにより真実に近い事実に迫ることはできます。mugiさんは次のパラグラフで”私は事実を正確に書いたつもりです”と言っているではありませんか。ご自分の”正確な記録”は疑っていませんね。

 mugi他にいささか不可解だったのですが、貴方は以前私の言葉に「他をレイシストと批判しつつ、自らに特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました」と指摘されましたね。この理由が分らないのです。確かに“特定の民族”に私は芳しいことは書いていませんが、私は事実を正確に書いたつもりです。私はレイシストの言葉を使った覚えはありませんし、他のレイシズムを列挙したに過ぎません。白を黒と書けばレイシズムですが、黒を黒と書いたことがレイシズム的断定となるのでしょうか?山本が親近感を抱いた“特定の民族”の不都合な事実を挙げることが、お気に召さなかった?これまた貴方のレイシズム的断定となりませんか?

tiku そもそも私が今回貴方に異議申し立てをしたのは、貴方の次の文章が甚だ穏当を欠くものだったから、事実関係を説明して誤解を解いてもらおうと思ったのです。

 「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物だったのですね。クリスチャンの居直りと擁護といったところ。元から私は山本を全面信用できず、眉唾で見ていましたが、彼の意見には失望しました。イスラエルのご意向を元に書いた御用文化人。レイシズムと見抜いたmottonさんは正解でした。」

 tikuこれは山本をレイシズムの持ち主=レイシストと決めつけた言葉ですね。なお、あなたが「特定の民族に対するレイシズム的断定がある」と言われることを忌避されるなら、同様に、十分調べもしないで他をレイシスト呼ばわりすることはやめるべきです。また貴方の勝手な黒白論議はご自身のこととされますよう。なお、貴方の欧米キリスト教観やイスラエル観についてとやかく言うつもりはありません。 

 mugi左翼のような“自己絶対化”こそ、他山の石になさいませ。

tiku お互い気をつけましょう。

mugiさん応答ありがとうございました。
一知半解さん、割り込みゴメンナサイ。

  • 2009/07/05(日) 00:16:08 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

再びtikurinさんへ

tikurin さん、またも真摯かつ丁重なレスを有難うございました!
以下は私の私見ですが、当然貴方とは性格も年齢も価値観も異なるので、見方もまた異なるのはご了承下さい。


>言葉に対する責任という点では、無名人も著名人も変わりはないと思います。

 私はその点は違いますね。聖書を読まれたのなら、ルカによる福音書に由来する「ノブレス・オブリージュ」という言葉はご存知でしょう。mugiなるふざけたハンドルのブロガーは論外ですが、著名人の発言は無名人とはその影響力が格段に違い、特権に伴う責務もあると思います。無名人も著名人も一緒というのは、あたかも日本的平等思考のようですね。
 特にその道で食べている言論人が言葉に対する責任を持ってほしいものですが、日本の知識人層はそれが薄いように思えます。匿名ネットの無責任を非難するマスコミもまた、言葉に対する責任意識が稀薄。もちろん海外のメディアもいい加減ですが、言葉に対する責任をとりたがらないのこそ、人間の本性かも。

 そして、著作がユダヤ人との共同作業だったとしても、存在しないユダヤ人ベンダサンというキャラクターの名で本多との論争を行ったのならば、左翼が偽ユダヤ人と糾弾するのは当り前なのです。ファンならそれでよいとするでしょうが、非ファン、まして敵ならそう思わない。何故本名で論争をしなかったのか、これは実に残念です。当時の言論界は山本のような発言を許さなかったから?ならば、彼もまた空気に屈したとなりますね。ユダヤ人の威を借りた文化人と見なされる可能性もあるのに。

 貴方が仰る「自己絶対化」という概念が、私にはよく分らないのです。自己正当化なら分りますし、大なり小なり人間は自己生存のためその傾向がある。これまで私はある人物若しくは集団を絶対化して見たことはないのです。尊敬する人物や集団はいても、どうもへそ曲がりなのか何か1つケチをつけずにはいられない。ある対象を絶対視するのは好みではありません。
 仰るとおり個人が誰を絶対化しようが自由ですが、そのような者は他人にも己と同じことを求めるようになるので厄介です。「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。「寛容と無関心は表裏一体であり、人間は関心のある事に無関心ではいられない」と言った人物もいます。

>要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。

 人間は嘘をつく生き物であり、世に出回っている“正確な記録”なるも必ずしも信用は出来ません。残念ながら虚偽や捏造が「真実」としてまかり通るのが人類史。聖書に限らず宗教書は粉飾や誇張だらけなのも、人間が正確さに欠けるものだと思いませんか?「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話に他ならない」と言ったのはナポレオンですが、彼は大変な読書家で歴史に精通していたのです。

 他にいささか不可解だったのですが、貴方は以前私の言葉に「他をレイシストと批判しつつ、自らに特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました」と指摘されましたね。この理由が分らないのです。確かに“特定の民族”に私は芳しいことは書いていませんが、私は事実を正確に書いたつもりです。私はレイシストの言葉を使った覚えはありませんし、他のレイシズムを列挙したに過ぎません。白を黒と書けばレイシズムですが、黒を黒と書いたことがレイシズム的断定となるのでしょうか?山本が親近感を抱いた“特定の民族”の不都合な事実を挙げることが、お気に召さなかった?これまた貴方のレイシズム的断定となりませんか?

『日本人とユダヤ人』に古のユダヤの賢者の言葉が載っています。「頭の空の人間ほど、議論を好む」「愚者は言葉を多くする」「愚かな者はすぐ怒りを表す」…私には耳が痛かったですが、賢者はいつの時代も至って少ない。貴方自身はさぞ言論に誠実に責任を負い、言行一致の人物と思われますが、自分のことはなかなか冷静に見れないものです。左翼のような“自己絶対化”こそ、他山の石になさいませ。

  • 2009/07/02(木) 23:54:18 |
  • URL |
  • mugi #xsUmrm7U
  • [編集]

mugiさんへ(前便と前後しましたが悪しからず)

mugi しかし、外国人に成り済まし、生涯それを貫き通したならば、その姿勢に懸念をもたれても当然ではないでしょうか?

tiku 事実は次の通りです。
イザヤ・ベンダサン名の著書は4冊、山本七平名の著作は共著も含めて200冊以上あります。この4冊の内問題にされているのは2冊『日本人とユダヤ人』『日本教について』です。なぜか、前者は、当時の左翼の絶対平和主義を刺激したため、後者は本多勝一氏の「中国の旅」を批判したためです。所詮、政治的な動機なのですよ。
 では、なぜこの4冊がイザヤ・ベンダサン名になったか、それは『日本人とユダヤ人』は二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーとミンシャ・ホーレンスキー)と山本七平の合作で、二人のユダヤ人のうち後者が著作権を持ち、もう一人は資料提供、山本七平は資料提供と編集を担当したようです。従って山本七平はこの本については版権しか持っていません。その後の『日本教について』(s47)『日本の商人』(s50)『日本教徒』(s51)は山本とホーレンスキーの合作と山本は説明していますが、後者の関与は資料提供程度ではないかと思われますが、このあたりは私もよく判りません。
 これとは別に、山本は自分自身の名前で著作を開始しています。『私の中の日本軍』が最初です。これらは自らの体験を語るものだったからでしょう。
 ではなぜ、上記の著作にベンダサン名が使われたかは、『日本人とユダヤ人』『日本教について』『日本教徒』は「日本教」という独創的見解に関わるもの、『日本の商人』は「日本で国際水準にあるのは商人だけ」という指摘が、これも当時の常識と逆行する独創的見解だったからだと思います。この外に「ベンダサン氏の日本の歴史」がありますが、これも、漱石の「こころ」の分析にはじまる日本思想の源流を探る独創的見解でした。そうした独創性を、余計なことを詮索されることなく、世に問う気持ちがあったのではないでしょうか。(もちろん共著者の存在も大きかったと思います。)
 『日本人とユダヤ人』は大宅壮一ノンフィクション賞が賞されましたが、日本にも「読み人知らず」の優れた作品が残されているのだから、著者不明であってもかまわない、ということでこの授賞が決定しました。

 mugi (ネットにおける書き込みにハンドル名を使うことと、著作者が自分の所在を明らかにすることの違いについて)まして無名の庶民ブロガーと立場は違い、著名人なら社会的責任が伴うのは当然なのです。

tiku 言葉に対する責任という点では、無名人も著名人も変わりはないと思います。

 mugi貴方は「山本絶対化」(これは無害)と仰いますし、確かに個人の一作家絶対化なら無害でしょう。しかし、天皇や書記長、将軍なら有害の傾向大で、宗教の原理主義者のように「教祖」の絶対化は、己の絶対化にも繋がります。

tiku 個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません。教祖の絶対化が己の絶対化につながるというのは、それはその人が教祖を絶対化していない証拠ではないでしょうか。昭和の青年将校は天皇絶対といいながら、奉勅命令も無視し自分を絶対化していました。

 mugiところで、tikurinさんにお尋ねしたいのですが、貴方は聖書、殊に旧約聖書を読まれていますか?・・・聖書でも旧約だけは是非読んで頂きたいものです。聖書の解釈は個人差がかなり大きいですが、ユダヤ、キリスト教思想の一端は見えてきますよ。

 tikuおそらく、聖書のホロコースト的迫害・弾圧・差別の歴史の記述についておっしゃっておられるのでしょうが、山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています。

 mugi 私は山本の「軍隊4部作」を未読なので論評は出来ませんし、彼の主張について貴方と議論することも不可能です。やはり読まない限りは、お相手になれないですね。
 山本ではありませんが、くどくどと女のグチのように戦時の苦労話を書き連ね、戦争を語るというスタイルは、はっきり言って狭い体験の年寄りの繰言であり、ウンザリさせられます。「俺はこんなに苦労したんだ。是非、俺の話を聞け」と言わんばかりの同情と同意の押し付けであり、民間人は黙っていろ、との戦前の軍部に似ていないでしょうか?岡目八目の通り、案外部外者の方が状況を把握することもある。

tiku 先の「正確に記録して後世に残す」に尽きると思います。その記録をどのように受け取るかは後世の自由ですが、山本はこれを伝統文化として継承し失わない限り、民族は存続する、といっています。それにしても張作霖事件の真相を日本が隠蔽したのが悲劇の始まりでした。

mugi山本の書を丹念に読めば、また印象も変わるかもしれませんけど、読書の感想は十人十色であり、貴方が感銘しても私が同じとは限らない。

tiku きっと印象も変わると思いますよ。「一知半解」さんのブログに来られているのですから。

  • 2009/06/30(火) 18:28:59 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

mugiさんへ

mugiさんは旧約聖書をおすすめでしたが、今回の論争の締めくくりとして、私は次の新約聖書の言葉を引用させていただきます。ありがとうございました。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書:新共同)
1:1 In the beginning the Word already existed; the Word was with God, and the Word was God.
1:2 From the very beginning the Word was with God.
1:3 Through him God made all things; not one thing in all creation was made without him.
1:4 The Word was the source of life, and this life brought light to people.(現代英語訳)


1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

  • 2009/06/30(火) 02:54:36 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

tikurinさんへ

「禁句」対象にならないので、私の返信はあなたのブログに書かせて頂きました。
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-97a6.html

 他に細かいことですが、あなたは私を保守系と断定されておられますし、そう思うのはご自由です。ただ、私は自分を保守系とは思ったことはなく、タダの歴史オタクとしか認識していません。私から見れば、tikurinさんの方こそ保守系と感じましたが、人の感じ方は様々ですね。
 そして、私自身は「言葉の力」をあまり信じておりません。ブロガーがこんなことを書くのは意外に思われるかもしれませんが、ネットやブログは私にとって趣味であり、情報収集のツール以上のものではありません。ハンドルからしていい加減な人間だし、己の言葉に力があるとは思ったことはないのです。

  • 2009/06/29(月) 23:01:21 |
  • URL |
  • mugi #xsUmrm7U
  • [編集]

re山本七平の戦友を見る目

 mugiさんの『日本人とユダヤ人』評、読まさせていただきました。ご自身の見解を明快に語られており、批評も的確だと思いました。ただし、パレスチナの歴史に関する見解については、私は議論に参加する十分な知識を持ち合わせておりませんので、判断を留保させていただきます。印象としては、「民族自決主義」の観点から批評しておられるように思われましたが、山本の著作としては、その死後刊行された『民族とは何か』がありますので参考までに。

 mugiさんは『日本はなぜ敗れるのか』について、mottonさんの「一兵卒の視点から日本(日本軍)の問題を日本人論とからめて書いているのですが、一言『貧すれば鈍す』でほとんど終わる話です…」という評を紹介されていますが、一瞥しただけでこの本の批評が下せるものではありません。

 これは、山本七平の死後刊行されたもので、雑誌掲載時(『野生時代』1975.4~1976.4)の原題は『敗因21ヵ条』でした。そして、この「敗因21ヵ条」は山本の言葉ではなくて、戦中陸軍軍属としてガソリンの代用となるブタノールの製造のためフィリピンに送り込まれた化学技術者・小松真一氏の私家版の著書『虜人日記』(s50に筑摩書房より刊行)によったものです。兵士ではなく技術者の見た太平洋戦争の記録、それもレイテの捕虜収容所の中で書いたものを骨壺に入れて持ち帰り、戦後も銀行の金庫に眠らせたままのものを、氏の死後遺族が発見し自家出版したものです。(下線部挿入6/27)それに山本七平が解説を加えたものが上記雑誌に掲載されました。『日本はなぜ敗れるのか』は、この本の出版に関わった方達が(勝手に)付けたものです。
 
 mugi「敗れたのか」ではなく「敗れるのか」かなんですよね。ということは、その原因から当時の環境(貧しさ)に起因のものは除かないと意味がない。ところが全てを日本人(日本社会)に原因をもってきているように見えました。これは科学的思考ではなくレイシズム的思考でしょう…

 おそらく、この時代の日本が置かれた「情況」を捨象して、あの戦争は語れない、という意味でしょうが、山本はこうした思考法を「情況倫理」といい、戦前の共産党のリンチ事件に関して、共産党がそれを「特高と戦前の暗黒政治」という情況を理由に正当化する論理の矛盾を指摘しています。(山本の著作のうち社会学的名著とされる『空気の研究』の主題です。)

 「この日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範になり得ない。いかなる規範といえども、その支点に固定倫理がなければ、規範とはならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこにもとむべきかは、情況倫理を集約した形の中心点に、情況を超越した一人間若しくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。西欧が固定倫理の修正を情況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、情況倫理の集約を支点的に固定倫理の基準として求め、それを権威としてそれに従うことを、一つの規範とせざるを得ない。」(上掲書p136)

 つまり情況倫理の支点的位置にいて、その時点の倫理的判断を下すものがいなくてはならず、共産党リンチ事件の場合はそれが共産党であり、戦後の日本におけるスターリン賛美も毛沢東賛美もこうした思考法から生まれた、というのです。そしてこうした考え方こそ、日本の最も伝統的な考え方で、これが日本的平等主義を支えており、戦前の「一君万民」も戦後の「オール3的平等主義」もここに根ざしており、これに逆らえば「不敬罪」として非難されかねない。

 だが問題は、こうした平等主義の評価は誰が行うのかということで、これは否応なく「評価するものの絶対性とそのものによる情況の恣意的創出」という現実を生むことになり、結局、一般の人は、こうして恣意的に創出された情況に対してそれに臨在感的(=空気を読む)に対応するしかなくなってしまう。こうした情況倫理とその結果生まれる「空気」との相互的呪縛からいかに脱却するか、これがこの本の主題です。

 mugiさんの上記の言葉が、こうした日本的情況倫理の問題点にお気づきの上でのことなら言うことはありません。科学的思考とは、情況倫理そのものを認めることではなく、このメカニズムを解明することだと思います。

 mugi コメントで何度か書きましたが、私が山本を疑問視した最大の理由はユダヤ人として身元を偽ったことです。ならば、その他にも虚偽はないのか、どうも疑わしくなってくる。山本について、wikiに興味深い情報が載っていますので紹介します。この情報が正しいならば意味深です。

 多くの方の山本批判がこの点に論拠を置いていますが、私が不思議なのは、では、今日のネット社会におけるハンドル名での発言はどうなるのでしょうか。発言者の氏素性を気にする論者はむしろ軽蔑の対象となるのではないでしょうか。
 wikiの山本評についてはそのうち修正を求めたいと思っていますが、なぜ『空想紀行』を敢えて紹介しているのかよくわかりません。mugiさんは「詭弁を駆使して論争に勝利する」論法と関連づけておられますが、確かにハンドル名での議論にはそのような類のものが多いですね。でも、それはすぐ見抜けますよね。確かにそれが世論という空気に膨張すれば一定の政治的効果を持ちますが、それと戦うのも言論の力でしょう。だからネットにハンドル名で自分の意見を書いている!その力を信じるからではないですか。

 なお、この件に関しては、イザヤ・ベンダサンが『家畜人ヤプー』の書評で述べていますので参考までに。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/goroku_bendasan.html#ペンネームについて

 mugi もちろん山本を貴方が全面支持するのはご自由ですが、いささか山本教徒じみてきますね(笑)。山本への崇拝のあまり、「山本絶対化」に陥らないことを願いたいものですが、ファンの方には難しいでしょう。

 あくまで自分は今そう理解している、ということに過ぎません。注意しなければいけないのは「山本絶対化」(これは無害)ではなく「自己絶対化」に陥らないことです。magiさんは中東情勢に関する研究者のようですが、論文、著書を紹介いただきたいと思います。自分なりに勉強してみたいと思います。

>そうした民族の失敗の責任を問う権利は、民族の遺産の内、負債部分も引き請けるものだけに許される、債権だけ受け取り負債は拒否する、そんな態度は許されない

 mugi 真っ当な正論ですが、そんな姿勢を取った民族などいたでしょうか?・・・この意見は実現不可能な理想を日本人に強制する傲慢さを感じますね。

 傲慢だとは思いませんよ。よその国がどのような思惑で日本を批判するかは別にして、日本人が自分の国の直近の歴史に対して、その負債と思われる部分について責任を負おうとするのは当然のことでしょう。ただし、どの部分が負債であるか、あるいは資産であるかの評定は、自ら歴史的事実を点検した上で、判断すべきことと思っています(特に南方戦線における100万を超える餓死者を出したという負債は大きい)。その中で山本七平の判断の誤りを見つけることもあるでしょう。当然ですよね。その後、新資料や研究が続々出ているのですから。尊敬するということは、その人を無謬とすることではありません。そんなことをしたら、世の中に尊敬する人はいなくなってしまいますよ。

 mugiしかし、私はかつてのキリシタンや欧米の植民地でキリスト教に改宗した現地人の歴史から、常に警戒の目で見てしまう。戦前の日本もそうでしたが、欧米列強は植民地で現地人を支援、支配に協力する層を養成しました。それは当り前のことだし、現代も続いている。

 歴史的事象の評価をするとき、その時代の条件や通念を無視したら意味をなしません。NHKのジャパンデビュー「アジアの一等国」がバランスを失していると批判を浴びていますが、確かに日本による台湾統治を「漢民族のプライド」を傷つけたという視点で批判しており、現在の台湾の親中国政策の影響を受けているんだろうな、という印象を持ちました。そうだとすれば情けない限りです。山本七平の軍隊論、日本人に厳しい?私の感想は「自らを凝視した」ですね。一読すれば判ることです。

 mugi貴方は山本が「言葉の力」を信じたと言われますが、同時に言葉の力とは相手のそれを封殺することも可能なのです。言葉の限りを尽くし、情報を洪水のように浴びせる。これは例の国の十八番ですよ。

 この点は「一知半解」さんも山本の所説を紹介されていますが、私も氏のおかげで「言葉に隠蔽機能」があることを知ることができました。数十年前のことです。

 追記(6/28) 
 mugiさんは『日本人とユダヤ人』の評の中で、キリスト教徒のユダヤ教徒に対する感情、偽物の本物に対する感情について触れた箇所にも言及していますね。このあたりは敬虔なクリスチャンである山本の言葉とは考えられなくて、関根正雄(日本聖書学の泰斗)も次のように言っています。
 「・・・誡命の問題は日本人には本当にはなかなか分からないもので、その点の指摘だけでも、ベンダサンの著書は一読の価値がある。ベンダサンは『信仰のみ』ということについて書いているが、日本のキリスト教の機微にふれたこういう観念は全く驚きである』と評価し、ついで『この書は日本人が偽名で書いたのではないかという噂があるそうで、先日もある新聞社からそのことについて問い合わせがあった。。もちろんそんなことがあるわけがない」
 これを受けて山本は次のように言っています。
 「私の出版の動機も実はこの点にあった。ベンダサン氏は『日本人は聖書は理解できない』とはっきり断定している。私は聖書図書の専門出版社だから、これを肯定するわけにはいかない。そして氏の論証の前にタジタジとなったのは私であった。」(「イザヤベンダサン氏と私」『諸君』S46)

  • 2009/06/27(土) 15:11:52 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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Re:山本七平の戦友を見る目

Re:山本七平の戦友を見る目

tikurinさん、とても真摯なご意見を有難うございました。
 実を言えば、私は山本の書は「日本人とユダヤ人」「日本人と中国人」しか読んでいませんし、その他の主張はこちらのブログで拝読しただけです。貴方のように熱心に読まれた方と違い、皮相的な見方になっていることを予めご了承願います。なお、これらの書について、以前私は記事にしています。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/04abeea1f7bf9eb0616213c4c3513a4a
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/f43988bc30c1ff2a014267151655e2f7

 mottonさんというのは拙ブログにコメントされた方の名ですが、彼は山本の『私の中の日本軍』『なぜ日本は敗れるのか』を立ち読みし、辛口の論評をされていました。これには私も同感です。
-一兵卒の視点から日本(日本軍)の問題を日本人論とからめて書いているのですが、一言『貧すれば鈍す』でほとんど終わる話です…「敗れたのか」ではなく「敗れるのか」かなんですよね。ということは、その原因から当時の環境(貧しさ)に起因のものは除かないと意味がない。ところが全てを日本人(日本社会)に原因をもってきているように見えました。これは科学的思考ではなくレイシズム的思考でしょう…
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/4b1b0811a1ced3e68a6666a75f2317b1#comment-list

 コメントで何度か書きましたが、私が山本を疑問視した最大の理由はユダヤ人として身元を偽ったことです。ならば、その他にも虚偽はないのか、どうも疑わしくなってくる。山本について、wikiに興味深い情報が載っていますので紹介します。この情報が正しいならば意味深です。

-山本は著書『空想紀行』で偽フォモルサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォモルサ人(フォモルサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。
 サルマナザールは極東情勢が殆ど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェモロサ"と"タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし…』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている』と記述している。これは自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとする人もいる…

 つまり、真に極東情勢を知っていた神父ではなく、本当は無知な者が詭弁を駆使して論争に勝利したということです。見る者が見れば分るにせよ、その類は至って少ない。これは言論界の禁じ手であり、誠実とはいえない姿勢です。英米の場合、身元を偽ったことが判明した者は信用されなくなります。山本とサルマナザールが重なって見えませんか?ちなみに欧米、ユダヤ人は東洋人を感情的と糾弾するのは十八番なのです。

 しかし、日本ではアバウトというか、山本の詐称を責めるのはサヨクばかり。彼らの批判も私は一理あると思います。本多勝一も生年不詳、ネットの一部では在日、つまり偽日本人と噂されますが、山本も詐称した以上お互い様でしょう。詐称が受けいれられたのは保守、左派問わず日本の読者層のレベルも問われるということ。もちろん山本を貴方が全面支持するのはご自由ですが、いささか山本教徒じみてきますね(笑)。山本への崇拝のあまり、「山本絶対化」に陥らないことを願いたいものですが、ファンの方には難しいでしょう。

 春頃「人気ブログランキング」の広告欄に、「中東情勢が分る」という触れ込みつきで山本の講演会テープの販売が載っていました。イスエラルの願望と主旨に沿う作り話を身につければ、この国では中東情勢通として通ることでしょう。真の聖書、中東研究者より偽物が本物ともてはやされるのは、何ともやり切れません。中東情勢に関して、山本は素人だと私は断言します。山本のレバノン内戦時の記事には明らかな誤りがあったし、それが意図的にしか思えず、以前私も記事にしています。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/eb89a4839a433bbc57f8bb876aa28a2e

>そうした民族の失敗の責任を問う権利は、民族の遺産の内、負債部分も引き請けるものだけに許される、債権だけ受け取り負債は拒否する、そんな態度は許されない

 真っ当な正論ですが、そんな姿勢を取った民族などいたでしょうか?ユダヤ人がそのような態度を取っていたならば、あれほど迫害は受けなかったでしょう。人間誰しも己のことは棚に上げ、他人を責める傾向がありますが、残念ながら「債権だけ受け取り負債は拒否する」のが人類史の常でした。この意見は実現不可能な理想を日本人に強制する傲慢さを感じますね。
 民族問わず、人間誰しも内心にレイシズムはあると私は思います。選民思想、中華思想、日本教…これは自民族中心主義の延長で形成され、己は他より優れているとのレイシズムも当然含まれますが、このような思想が民族を形づくるのも事実です。

 一知半解さんにも以前指摘されましたが、私がクリスチャンやユダヤ教徒を見る目が厳しいのは否定いたしません。それをレイシズムと取るのはご自由です。しかし、私はかつてのキリシタンや欧米の植民地でキリスト教に改宗した現地人の歴史から、常に警戒の目で見てしまう。戦前の日本もそうでしたが、欧米列強は植民地で現地人を支援、支配に協力する層を養成しました。それは当り前のことだし、現代も続いている。山本を含め日本人クリスチャンが、親イスエラルシンパだったのは紛れもない事実です。彼らは日本の蛮行は糾弾しつつ欧米、特にイスラエルのそれは見ざる、聞かざるという2重基準を取っていた。
 貴方は山本が「言葉の力」を信じたと言われますが、同時に言葉の力とは相手のそれを封殺することも可能なのです。言葉の限りを尽くし、情報を洪水のように浴びせる。これは例の国の十八番ですよ。

  • 2009/06/27(土) 09:33:03 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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山本七平の戦友を見る目

 mugiさん、横レスごめんなさい。一つ気になったものですから、私見を申し述べさせていただきます。かって山本七平は本多勝一氏との論争を契機に、「クリスチャンなのに、天皇制擁護に汲々とする右翼文化人、自衛隊擁護・憲法改正論者、原発擁護論者、元号擁護論者、あげくの果ては朝鮮人を差別し、民族差別するレイシスト」などと、さんざん攻撃されてきました。一つの言を立てるということはこれほど過酷なものかと、むしろ氏の言葉に感銘を受けてきたものとしては、その怨念ともいうべき対立感情の激しさに、新ためて人間存在の限界について考えさせられたものでした。

 ところが、最近では、こうした方面からの批判に加えて、さらにmugiさんのような保守系の方から、「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物」と評されるようになったのですから、いささかビックリしました。おそらく、山本七平の論が右とか左とか色分けできるものではなかったことから、こうした現象が起こったのでしょうが、ぜひ、mugiさんにはサヨクと称される人たちが陥ったような「自己絶対化」の罠には陥らないようにしていただきたいと思います。

 山本七平は日本民族に対してどういう役割を引き受けたか、それは、本エントリーとも関わるのですが、「日本人が無意識の前提としている人間信仰の観念を自覚させる」ことによって、「言葉による」日本文化の新たな発展の糸口を見つけることだったのです。そのための手がかりとして、氏の軍隊経験(22歳で応召し、フィリピンのジャングルで骨と皮の終戦を迎え、その後捕虜収容所で戦犯の取り調べを受け、戦後は38歳になるまで熱帯潰瘍外の戦争後遺症に悩まされた)を語ったのです。

 日中戦争や大東亜戦争を語るとき、最近は世論の空気が、かっての革新一色のものから保守一色へと変わりつつあり、いわゆる「自虐史観」(山本はこれを「中国人天孫vs日本人犬猿」論と説明)の裏返しとしての「自尊史観」が主流となりつつあります。だがこうした見方はいずれも、中心文化(中国あるいは西欧)への迎合と反発を繰り返しているだけであって、大切なことは、いずれの民族文化にも長所と短所があり、時代の変化に対応して生き残るためには、長所を生かし短所を克服する以外に方法はない、と知ることなのです。

 その意味では先の戦争は、日本がその完全な失敗(日本人の死者は約310万、アメリカは約9万、中国人の死者は、日本の日中戦争における死者が約40万程度ですから、その10倍と見て400万程度と見て良いのではないかと思います)から自らの弱点を学ぶための貴重な民族的経験と見るべきなのです。その時―これはイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争でベンダサンが指摘したことですが―そうした民族の失敗の責任を問う権利は、民族の遺産の内、負債部分も引き請けるものだけに許される、債権だけ受け取り負債は拒否する、そんな態度は許されない、ということです。

 保守系の人たちが日本の伝統文化の遺産を大切にしそれを育てていこうとするならば、なおのこと、その負債部分もしっかり受け取り、必要な総括(弁済を訂正)をして自らの国(近隣諸国を訂正)に信を立てる必要があります。山本七平の一生の仕事は、そのための第一歩として、日本人が無意識に生きてる「日本教」というべき信仰観念を客体化するという方法で、先の戦争を理解し、その新たな思想的発展の糸口を探ろうとしたのでした。でなければ、平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作・黄表紙に至までの文献を読み続けるはずがないではありませんか。

 戦後、こうした文献に目をやる人は皆無(戦前の日本の歴史は暗黒と見たため)で、神田の古本屋街ではこれらはほとんど紙くず同然だったといいます。山本七平はそれを49歳に至るまで一人で読み続け、かっての自分の体験した「戦争の謎」を解こうとしたのです。その時、彼が共にジャングル戦を戦い死んでいった戦友たちにどのようなまなざしを向けたか、それは彼の「軍隊4部作」を見て下さい。そしてこれらの著作の動機は、百人切り競争という無実の罪で死んでいった向井・野田両少尉の汚名を晴らすことだったのです。『私の中の日本軍』の最後で山本が両少尉の魂に呼びかけた言葉を聞いて下さい。

 彼が朝鮮人差別をした?そんなことをいう人は『洪思翊中将の処刑』を読んで下さい。山本は出版記念会などはやらなかったが、この本の出版だけは、中将の遺族とともにその出版記念会を韓国の地で行ったのです。この本の出版には雑誌掲載から出版まで10年以上の歳月をかけました。おそらく山本が本当に書きたかった本二冊の内の一つだろう、といわれています。レイシズム?ご冗談を!山本は、話が聞きたいという人がいれば、どこにでも出かけていきました。創価学会にも統一協会にも・・・誤解されるからやめた方がという人もいたのですが、氏は「言葉の力」を信じたのです。

 氏は、「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と常々いっていました。思想に対してそういう態度をとる人が、民族に対して差別的な態度をとるはずがないではありませんか。大切なことは、自分の言葉と自分の思想即ち行動を一致させることです。それが誠実というものです。mugiさんの言葉には、他をレイシストと批判しつつ、自らに特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました。人間は自己正当化する動物だが、それを自覚できる動物でもある。このことを日本の伝統文化に対して行ったのが、山本七平だ、私はそう理解しています。

  • 2009/06/26(金) 14:45:51 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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mugiさんへ

mugiさん、こんばんは。
レスありがとうござます。
人の見方は「十人十色」ですから、mugiさんの見解が私と違っていてもそれは当然です。

山本ファンといっても、私は別に彼の一言一句を崇めているわけではなく、彼の主張や論理に納得して感銘を受けているだけなのです。

ですから、特にmugiさんの今回のご意見も「不快」とは思ってませんので、どうぞ遠慮なく意見していただけると嬉しいです。

確かに、mugiさんが以前にも指摘してくださったように、山本七平は親イスラエルだったのでしょう。

その点について、mugiさんが嫌悪感を抱かれるのもわかりますし、私もその点について擁護しようとは思いません(私もどちらかというとユダヤ人は嫌いですし)。

ただ、ちょっとだけ異見を述べさせていただきます。

まず、ご紹介させていただいた「日本人とは何か(下)」の引用箇所の受け止め方が、mugiさんと私は違うようです。

私はあの文章を読んで、山本七平がキリシタンを擁護しているとはとても思えません。

むしろ、宣教師の居直りを指摘し、日本人を奴隷にすることへの反感を当時の宣教師が十年も気付かなかったと指摘するなど、批判的に書いているとしか思えないのですが…。

それと、「日本社会には手厳しい」というご指摘については、その通りかも知れませんが、これは彼の従軍体験とかを読めば、仕方のないことだと私は考えています。

彼は、日本人の思考様式・行動規範の「負の面」に散々苦しめられてきたのですから。

その山本七平の厳しい指摘について考えることこそ、再び日本が戦前の轍を踏まないキッカケになると私は考えています。

それはさておき、「タルムード」を紹介したサイトを教えてくださり、ありがとうございました。
確かにああいう教典を山本七平が知っていた上で黙殺していたならば、親ユダヤと言われても仕方ないかもしれません。

  • 2009/06/22(月) 23:55:12 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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一知半解さんへ

 山本の「日本人とは何か(下)」の丁重なご紹介、有難うございます。レスが送れて失礼いたしました。
 さて、これに対する私の感想ですが、まず山本ファンの貴方には不快なものになることを、予め了承願います。

 以前、潜水艦さんは「サヨクは同じ日本人と思わない方がいい」と書かれていましたが、クリスチャンもまた同じ日本人とは思わない方が無難、というのが私の意見です。日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物だったのですね。クリスチャンの居直りと擁護といったところ。元から私は山本を全面信用できず、眉唾で見ていましたが、彼の意見には失望しました。イスエラルのご意向を元に書いた御用文化人。レイシズムと見抜いたmottonさんは正解でした。

 人身売買は現代も根絶できないし、この種の犯罪は絶えることはないでしょう。秀吉の時代、確かに欧州人は異教徒、異人種を奴隷にすることに何の疑問も持っていなかったし、イスラム圏、その他文明圏も同じでした。しかし、戦国時代の人身売買を持ち出すのは、卑劣なすり替えであり、ならば欧州も事情は似たようなものです。儒教圏も借金を払えぬ者を役所が奴隷として売っていた。
 日本側で日本人を奴隷として売ったポルトガル人を咎めた際、「協力する日本人がいる」と居直りましたが、その協力者にキリシタンが多かったのも事実です。当時は同じ日本人という民族意識は薄い事情もありますが、欧州でムスリムなどにキリスト教徒を奴隷として売ったことが分れば、厳罰でした。

 ユダヤ人は元から商才に長けていましたが、奴隷貿易で辣腕を振るっています。そのユダヤ人にとって許しがたいのは、異教徒がユダヤ人を奴隷にすることであり、その逆は全く問題なかった。エジプトで奴隷にされ酷い目にあったと聖書で恨みつらみを書いていますが、アブラハムもエジプト女奴隷を持っていた。ユダヤ人にとって異教徒など、ゴイム(豚)に過ぎず、豚扱いしても当然と思ってますが、これも選民思想ゆえです。ユダヤ教から生まれたキリスト教もまた、この思想を受け継いでいる。

 ユダヤの教典「タルムード」を紹介したサイトがあります。これをユダヤ陰謀論と見るのはご自由ですが、それほど素晴らしい教えなら宣伝されても良いはずなのに、一般に知られないのはどうしてでしょうね。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/yudayatarumudo1.html

  • 2009/06/22(月) 22:57:16 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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1読者さんへ

1読者さん、レスが遅くなりすみません。いつも参考になるコメントをありがとうございます。

>少し前から、新世紀のビッグブラザーへ blog <http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/> というブログを読み始めたのですが、これが面白いのです。

確かに面白いですね。更新頻度もほぼ毎日でよくあれだけ内容の濃いものをUPし続けることが出来るなと感心します。彼のマスコミ批判はとても参考になります。

>当時のローマ社会で完全にカルト宗教扱いをされ、話しすら聞いてもらえず迫害されるという状況を打開するための説法(話術)で、この具体例となるようなことが書いてあったような記憶があるのですが、残念ながら見つかりませんでした...orz

わざわざ具体例を探していただき、ありがとうございます。
私も、山本七平の聖書に関する著作は、「禁忌の聖書学」なら持っているのですが、買ったばかりでまだ読んでいません(汗)。ちょっと目を通してみたのですが、そもそも旧約聖書の基礎知識がないのでなかなか読み進まないのです(というか、ちょっと挫折中)。

>上記の表現を「相手が無意識(無自覚)に前提にしていることを指摘して意識(自覚)させ、それを相対化すること」と言い換える…

確かに、そう言われると、わかりやすくなった気がします。
そういえば、山本七平(ベンダサン)の主張には、常にそれがありますよね。
指摘していただいたエピソードなど、わかりやすく非常に参考になりました。ありがとうございました。

  • 2009/06/21(日) 00:53:25 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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mugiさんへ

mugiさん、こんばんは。レスが遅くなってすみません。

お勧め先のブログ記事拝見させていただきました。

ローマ時代の寛容さが、キリスト教の布教と共に失われたという指摘には頷けますね。

愛と寛容を唱えながら、異教・異端に不寛容なのは、一神教の「さが」なんでしょうか。
左翼同様、愛と平和を説く連中には注意が必要ですね。

>異教の聖職者の暗殺、寺院の破壊行為は古代ローマに限らず、日本のキリシタンも同様な事をしていますが、クリスチャンの山本はそれに触れなかったでしょ?

いや、触れております。
私がつい最近読んだ「日本人とは何か(下)」の中には、秀吉や家康の時代の宣教師の振る舞い(神社仏閣の破壊行為・僧侶の迫害・日本人を奴隷としてインドなどに売り飛ばしていたこと)について指摘しています。

以下、抜粋ですが引用しますね。

まず、豊臣秀吉がイエズス会に突きつけた「五箇条の詰問状」について

(一)彼および彼の仲間は、いかなる権威に基づいて秀吉の進化をキリシタンになるように強制するのか。

(ニ)なにゆえに宣教師はその門弟と教徒に神社仏閣を破壊させたのか。

(三)なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか。

(四)なにゆえに彼らおよびポルトガル人は、耕作に必要な牛を屠殺して食用にするのか。

(五)なにゆえにイエズス会支部長コエリョは、その国民が日本人を購入し、これを奴隷としてインドに輸出するのを容認しているのか。


そしてこれに対する解説で、山本七平は次のように書いています。

(~前略)

当時の、否、明治でも、宣教師にとって「異教否定・偶像破壊」は当然のことである。

法王庁が他宗教との共存を打ち出すのは二十世紀に入ってからであり、公式には第二ヴァチカン公会議以降であって、当時としては、そうしたことがあっても少しも不思議ではない。

(~中略~)

それもそのはず、彼らが神社仏閣という「偶像破壊」に相当に積極的であったことは否定できないからである。

(~中略~)

だが秀吉乃至はその側近に、キリシタンに対する嫌悪を感じさせた最大のものは、ポルトガル人が日本人を奴隷としてインドその他に売っていたことであろう。

この事実があることをコエリョも否定しておらず、イエズス会宣教師はこの防止につとめたと言っているにすぎない。

さらに彼は、少々逆襲的に、この問題は秀吉が法令を下して「売る日本人」を厳罰に処してくれれば、解決する問題だとしている。

理屈を言えばそのとおりだが、これでは、宣教師側もこれを黙認していたことになってしまう。

いわば「売った日本人を厳罰に処せばよい」と言っても「買ったポルトガル人は自らの方で責任をもって厳罰に処します」とは、言っていないのである。

彼らが、長崎の日本人キリシタンから注意を受けてこの問題の重要性に気づき、「奴隷購買者破門令」を発したのは慶長元年(1596年)すなわち二十六聖人殉教の年で、問題発生の実に十年後である。

いかにその対応が鈍感であったかがこれに表れている。

日本にも人身売買がなかったわけではない。

特に戦国時代はこれがひどく、引っ捕らえた敵方の家族などは遠慮なく売ってしまうことが堂々と行われていたことは否定できない。

しかし秀吉は秩序を確立しようとしており、そうなれば「貞永式目」「建武式目」以来の伝統的な法秩序への復帰となる。

そして「式目」では「拘引人は死罪に処す」であった。

これは、奴隷制度が公認の制度として存在したヨーロッパとは基本が違うということ、日本には「公の制度としての奴隷制度」はなく、それを合法的と見る伝統はなかったことを示している。

この点、一八六三年までアメリカに奴隷制度が存在した欧米とは違う。

当時はヨーロッパの奴隷商人が、公然と新人陸にアフリカから奴隷を売り込もうとしはじめた時代であり、ポルトガル船には使役される黒人奴隷がいたのだから、イエズス会士が日本人より奴隷問題で鈍感であっても不思議ではなかった。

奴隷問題についてはイエズス会側にも資料があるが、秀吉側近の大村由己の次の手紙が、その間の事情を最もよく示しているであろう。

(~大村由己の手紙省略~)

前述のようにキリシタン側にも、なぜ秀吉が急に態度を一変してキリシタン禁止に出たか、その理由を揣摩臆測した文書があるが、不思議なほど、奴隷問題がその大きな理由の一つであると記したものがない。

否、少なくとも私は見たことがない。

確かに、商人たちの日本人購入やその虐待、さらに水夫らの少女の購入とその玩弄等が、異教徒をあきれさせているといったキリシタン側の文言はある。

しかし、日本の同胞が牛馬の如くインド等に輸出されていることが、いたく日本人のプライドをきずつけたとは思っていない。

秀吉の詰問状から十年もこれを放置していたことは、これを、大村由己の手紙に見られるほどには、すなわち日本人ほどには重要視していなかったことを示している。

ヨーロッパはまだ、異教徒や有色人種を奴隷とすることを悪と考えてはおらず、この点ではイエズス会宣教師も例外ではなかったということであろう。

もっとも、前記の「奴隷購買者破門令」を世界最初の奴隷禁止令として高く評価する人もいる。

確かに一五九六年は、リンカーンの奴隷禁止令の二百七十年前である。

(以下略~)

  • 2009/06/18(木) 21:40:31 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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聖職者

ぶさよでぃっく様

“ルンプロ”こそが最大の「パトロン」ですよ。お上には頼れない彼らがすがるのは神以外ありませんから。貧しく無教養な人民こそ、全ての宗教の最大の支持者。彼らは聖職者に扇動されるまま、なけなしのカネも魂も差し出すのを、元ラビのマルクスは熟知していたはず。だから労働者の味方のフリをするのが得であるのを知っていた。
 マルクスが支援者に当てた手紙には、支援を要請というより、カネを出せとの命令調にあふれていたそうで、やはりラビですね。私の父が仕事で交渉した相手で、後家の次にもっとも難物だったのが坊主と言っていました。人から布施を貰うのが当り前と思い込んでいる坊主は、人に与えることなど考えていない。聖職者は並の企業家より強欲。信者と書けば儲けるの漢字になります。

 シオニストにとってもマルクスは許しがたい人物でしょうね。何しろユダヤ教を棄教、平信徒ならともかく仮にもラビです。セム族一神教なら背教者は教義上は殺害しても全く問題ない。ただ、シオニストもマルキストもやっていることは同じであり、やはりどちらもユダヤ教がルーツだからでしょう。

 ロシア人は日本のマルキストを、「美味いビールを飲んで、共産主義の夢を語っている」と蔑んでおり、日本人マルキストをコケにするジョークもあります。以前、私は共産主義に関する記事を書いていますが、気が向いたらどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/8f4aee99503c6cc8567935ffa4a43df9

  • 2009/06/17(水) 22:43:29 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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 少し前から、新世紀のビッグブラザーへ blog <http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/> というブログを読み始めたのですが、これが面白いのです。ご存知とは思いますが、管理人は自称現役2チャンネラー兼作家の三橋貴明氏(本業は中小企業診断士)で、この人は明確な数値データに基づく根拠がない限り、自己の感触どころかマスコミ報道も一切信じないというスタンスで、徹底したマスコミ批判を行っています。かつて山本氏が指摘したタイプと真逆の立場の人が、ネットを通じて生まれて来ているようですね。


>「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」…

 山本氏には聖書に関する著作が何冊かあり、その中の一冊に、当時のローマ社会で完全にカルト宗教扱いをされ、話しすら聞いてもらえず迫害されるという状況を打開するための説法(話術)で、この具体例となるようなことが書いてあったような記憶があるのですが、残念ながら見つかりませんでした...orz

 これは個人的な理解ですが、上記の表現を「相手が無意識(無自覚)に前提にしていることを指摘して意識(自覚)させ、それを相対化すること」と言い換えると、少し分かりやすくなるのではないでしょうか。

 ここで指摘されている問題は、たとえば外国人など異文化の人と何度か議論した経験がある人にはピンとくる人もいると思うのですが、とくに異文化相互間ではそれぞれ無意識に前提としていることが異なっており、それを意識化して相対化しない限り、議論自体が成り立たなくなることが少なくありません。つまり、無意識的な前提というのは、その人の中で絶対化されてしまっているため論争の対象とはならず、結局は感情的な対立を残すだけになってしまうのです。

 こうした問題は、当然日本人相互間でも起こり得ることですが、実際にはほとんど考慮されていないだけでなく、むしろ「そんなことは分かっていて当然」という思い込みが、逆に議論を阻害していることの方が多いように思います。

 私の数少ない経験でも、ずいぶん前のことですが、「日本の契約慣行」に関して友人であるアメリカ人と議論になった際(すでに山本氏の本を読んでいたので、それを応用するつもりで)、「あなたは自分達の契約慣行を当然の前提として、それと異なる日本の慣行をただ異質だと言っているだけではないのか」、「日本の契約慣行は本当に契約原則に反しているのか? むしろ日本のフレキシブルな契約慣行は経済的合理性に合致していると言えないか」という趣旨の反論をしたことがあります。もちろん、もう少しやんわりと、具体例を織り交ぜながらですが。
 また、別の人と「捕鯨問題」に関して論争になった際には、「捕鯨が野蛮だという感情論は、異文化に対する偏見に過ぎず、人種差別の代用でしかない」という点に触れるのが早すぎて、激論になってしまったこともありました。つくづく『議論と説得は異なる』ということを思い知らされた経験でした。

  • 2009/06/16(火) 17:58:31 |
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  • 1読者 #-
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世界市民≠シオニスト

mugiさま
>要するに働かず世界の労働者やパトロンに養ってもらうことが目的だったのでしょう。

いや、それは違うと思います。パトロンに養って欲しければ、人民などといういつ何時ルンプロ(ルンペンプロレタリアート)に変わるかも知れない連中に依拠するよりも、ユダヤ人社会のパトロンになった方がいい。しかし、マルクスはシオニズムを否定(=世界市民)しているわけです。

>「異見を受け入れる度量を示す」のは、私のような凡人には難しいです。

いやいや、貴兄は自分を過小評価されている。
当方にもご来訪ください。きっと有意義な議論ができると思います。

  • 2009/06/16(火) 01:24:22 |
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  • ぶさよでぃっく #3/VKSDZ2
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噂の奴隷

ちなみにキリスト教の本質を鋭く書いたブログ記事があります。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009/05/000829.html

 山本が言う「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」にはテロも含まれています。もちろんこれは異教徒からの見方であり、クリスチャン自身はテロとは露ほども思っていない。異教の聖職者の暗殺、寺院の破壊行為は古代ローマに限らず、日本のキリシタンも同様な事をしていますが、クリスチャンの山本はそれに触れなかったでしょ?欧米の歴史モノだと善良なキリスト教徒を迫害する残酷なローマ人という描き方ばかりですが、実際は狂信的犯罪者が多かったのです。

>自分の言っていることとやっていることの違いをわからせるということです

 これって、左翼にも見事に適用可能ですね(笑)。人間誰しも言行不一致の傾向はありますが、マルクスなどスケールが桁外れ。労働者どころか工場に足を踏み入れたこともない有閑階級の高等遊民でした。「世界市民」を自称していましたが、要するに働かず世界の労働者やパトロンに養ってもらうことが目的だったのでしょう。マルクスはユダヤのラビ(祭司)の家系の出ですが、ユダヤ教では一般信者がラビを養うのは当然と見なされているようです。

人間ならば、誰にでも全てが見える訳ではない。多くの人は、自分の見たいことしか見ていない」「人間とは噂の奴隷であり、しかもそれを、自分で望ましいと思う色をつけた形で信じてしまう」と言ったのはカエサルですが、人間は二千年来あまり進歩が無いような。「異見を受け入れる度量を示す」のは、私のような凡人には難しいです。

  • 2009/06/15(月) 22:14:49 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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レスありがとうございます。

ぶさよでぃっくさん、レスありがとうございます。

>もちろんそうしたやり方は通常は相手の反発を生みます。しかし、時としてそれが実に効果的になる一瞬があるんです。

確かにそうですね。仰りたいことがわかるような気がします。
まずそれが改心させる「前提」条件なんでしょうね。
ただ、その「一瞬」を的確に捉えて、相手の考えを改めさせるというのは、単にやりこめるだけでなく、なにか「別の力の働き」が必要なのではないでしょうか。

初期のキリスト教徒の場合は、どのような「働き」で、改宗させ得たのか?
その辺りの事情を無知なのと、具体例を示されないと理解できない一知半解人なものですから、いまいちスッキリ理解し切れないところがあるのです。

>親鸞の開いた浄土真宗も、急速に伸びたのは8代蓮如の時代です。そうしたタイミングを山本が意識していたのかいないのか?ちょっと興味あります。

参考ですが、蓮如については、山本七平が「日本人とは何か(下)」で触れていますね。
蓮如は、「その時代に新しく勃興してきた農民という”宗教的空白地帯(惣村と与郷)”を的確に捉え、的確に伝道した」と評価しています。日本の新興宗教が取る伝道方式「平座で、輪をつくり、その一員として談合する」という方式を、初めて採用したのが蓮如である、とも指摘しています。

  • 2009/06/14(日) 01:20:57 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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要は

自分の言っていることとやっていることの違いをわからせるということです。

もちろんそうしたやり方は通常は相手の反発を生みます。しかし、時としてそれが実に効果的になる一瞬があるんです。

件の山本の本は未読ですが、おそらくキリスト教の急速拡大期のことを言っていると思うんですね。キリストが生きていた時代は、たぶん数十人か数百人程度しか信者はいなかった。その後も信者の数はそれほど多くはならなかったはずです。

しかし、二、三百年するとキリスト教の考えが人民の心に染み渡る状況が生まれてきたわけです。だから急速な拡大ができた。

親鸞の開いた浄土真宗も、急速に伸びたのは8代蓮如の時代です。そうしたタイミングを山本が意識していたのかいないのか?ちょっと興味あります。

  • 2009/06/13(土) 00:05:06 |
  • URL |
  • ぶさよでいっく #3/VKSDZ2
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ぶさよでぃっくさんへ

ぶさよでぃっくさん、コメントありがとうございます。

>まぁ、相手をやり込めるときの定石。別に難しいことだとは思わないんですが。

う~ん、そうなのですか??例示していただいた記事を拝見させていただいたのですが、私が考えているものにはちょっと不十分な気がするのです(それとも自分の読み込みが足りないのか…)。

山本七平の言わんとする方法は、自らの主張を、相手に理解させ受け入れさせることですよね。単にやりこめるというのとちょっと違うように思います。悪く言えば「洗脳」ということを指しているのではないかと私は解釈しているのですが。

そして、具体的に初期のキリスト教徒が、どのようにそれをやり遂げたか?これを知らないのでいまいち自分の中で消化できないんですよね。
山本七平が具体例を挙げておいてくれたら、モヤモヤしなくて済んだのですが。

何はともあれ、アドバイス下さりありがとうございました。

  • 2009/06/12(金) 22:40:34 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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例は当方に転がってますが

>これは多神教のローマに進出した初代キリスト教徒が迫害と殉教の中で会得した方法で、その第一歩は「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」である。

これ、常用してますけど何か?
たとえばこれ
http://kinpy.livedoor.biz/archives/51646471.html

まぁ、相手をやり込めるときの定石。別に難しいことだとは思わないんですが。

  • 2009/06/10(水) 22:24:43 |
  • URL |
  • ぶさよでいっく #3/VKSDZ2
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sirokazeさんへ

コメントありがとうございます。

>確証バイアスってやつですな。

なるほど。
このワードを知らなかったので、ググッてみました。

ちなみに参照先↓
http://blog.goo.ne.jp/smf405/e/d8edf5119a683700dd97276c008ada4a

そういわれてみると、今回の記事はそうとも言えそうですね。

>確証バイアスがかかると、42人で大丈夫だから、100人もいけるとか思い込んじゃう人間に一番最適なエントリーだと思うけれどね。

ありがとうございます。そう評価していただけて嬉しいです。

  • 2009/06/01(月) 00:46:02 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

一言で言うと

確証バイアスってやつですな。

 ま、俺が42人限界説を唱えてるって勝手に脳内理論構築して、論破した気になっているapemanの猿未満の知能が、なんかいうべきものでもないですな。
 勝手に言ってもいないようなものを変な解釈して、お前は間違っているとかほざかれても、apeman以外、理解できんかったってこと分かれっての。

ま、詳しくはこっちかな。
http://srsa.jugem.jp/?eid=710

確証バイアスがかかると、42人で大丈夫だから、100人もいけるとか思い込んじゃう人間に一番最適なエントリーだと思うけれどね。

  • 2009/05/31(日) 21:01:34 |
  • URL |
  • sirokaze #-
  • [編集]

お玉さんへ追記、他

>お玉さん

今回の記事のTB、どうやらお玉さんのブログから削除されたようですね。
そりゃ確かに、特定個人への批判が入っているけれど、相手さんだってこちらをネトウヨ扱いしているのだから同じようなモノなんだけどな。

ま、公平な扱いは受けられないのは元からわかっているけど…。
それでもTB削除とは、残念ですね。


>Apemanさん

貴方から、いさぎよくないと言われるとは思いもよりませんでした。

  • 2009/05/31(日) 09:51:32 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

すっかり荒らしサヨクになりましたな(´ー`)y-~~

>山本「事実であろうと、なかろうと」七平の与太話を強引に擁護しようとして失敗したときに悟ってないとおかしいんじゃないですか?

本文にapeman先生に影響とか感銘されたって話は全然書いてないのに、なにを書いてるのかねぇ? 世間様はいつもアイドルapeman先生の話題で持ちきりとでもお考えなのかね? 先生が裸踊りをしたって全国ニュースにはなりませんぞw
ape「先に上海を攻撃したのが国民党軍であろうとなかろうと日本軍が悪い」man先生は相変わらずだね。

ワシさんブログでも本題から逃げつづけて何ヶ月も書き捨てを続けてたんだよね。気分は毛沢東の八路軍勇士!!みたいな感じなのかもしれんがね。革命的大勝利は先生の脳内にしかないんだけどね・・。どっかの原っぱで独り戦争ごっこでもしててくださいな。

特に何の策があるわけでもなく、延々と砲列の前に突撃して砕け散るのを繰り返すだけかね。やっぱり「インパール牟田口」だね。
酒の飲みすぎで判断力がなくなってんなら、あったかくして布団で寝たほうがいいよ。

名無し(電波)さんにも言ったことがあるけどさ、嫌味ひとつ書くんだって頭使わないと駄目なんだよ。このテキストにどんな先生の知恵があるというんだい? 別れ話をもちかけられた男が足にしがみつきながらも「俺が悪いんじゃない!!お前達がもっともっと俺に優しくしてくれるべきなんだ! 俺を無視するな!!俺をほめろ!!俺のメシを家に帰ってすぐ作るんだよ!!」とか見当違いの要求言ってるみたいな具合でね。
そんな状況だってのに、まだ自分のことしかない男ってのもアホだがねぇ・・。あの男と先生はそっくりに見えるんだがねw
ま、ありふれた駅の改札口付近での出来事だったんだけどね。

>なんて見苦しい言い訳してますけどね。いさぎよくないなぁ。

いさぎよくないのは先生だよ。先生のテキストでブログ主さん含めた誰一人として困ったり怒ったりしてないんだよ。百人斬りの本題からもう逃げ切ったとか騙しきれたとかお考えかね? サヨク同胞だって、「先生はなんできちんと答えないんだ!!ファイト!!」と応援してるよw
くやちい!!キーキー!!と怒るのは構わんけど、もうちょっと頭使わないとダメだよ。読者の大半より年輩で親のように歳の離れた世代だっているんだからね。

サヨクのカリスマもこれ以上は知性派ぶることもできないようだね。宗教サヨク指導層の一角もこんなものかね。これ以上はなにを言ってもムダかもしれんね。補習の先生が生徒を見捨てる時の気分がわかったような気がするよw
哀れなりサヨク。アホだからサヨクになるのか、サヨク思想が視野を極端に狭めるからいかんのか? それは今後の考察課題かね。
(´ー`)y-~~

  • 2009/05/30(土) 23:51:19 |
  • URL |
  • 潜水艦 #3un.pJ2M
  • [編集]

>「人と言うのは本当に自分に都合のよい情報しか受け付けないのだなぁ…」と言うことです。

それって、遅くとも「サンヘドリンでは全員一致は無効」という山本「事実であろうと、なかろうと」七平の与太話を強引に擁護しようとして失敗したときに悟ってないとおかしいんじゃないですか? いまだに

>ベンダサンの記述は、どんな場合でも「全員一致」=「無効」と受け取られかねない記述であり、誤解を招きかねないもの

なんて見苦しい言い訳してますけどね。いさぎよくないなぁ。

お玉さん、水瓶さんへ

>お玉さん

こんばんは。

今回の記事というより、前回トラックバックした記事のタイトルがお気に召さなかったようですね。

確かに刺激的なタイトルでしたが、そこまで言わないと自己欺瞞に気が付かない人が多いのではないかと思ってあえてああいう「比喩」を使用させていただいた次第です。

それで以って、男性上位と言われるのは心外ですが、やむを得ませんね。

それはさておき、問答無用で表に出さない護憲ブログが多い中、TBそのままにしていただいてありがとうございました。


>水瓶さん

初めまして。コメントありがとうございます。

>今になってみれば、あの論争は山本氏の圧勝だったわけですね。

ご指摘のとおり、私も山本七平の主張の方が理があると判断します。
ただ、私も本多勝一との論争当時は幼くて、その頃の雰囲気というのは残念ながら知りません。
左翼全盛のころでしたから、当時の世の中の受け止め方は違ったのかも知れませんね。

私のブログは、山本七平の引用ばかりのろくでもないブログですが、こちらこそよろしくお願いします。

  • 2009/05/30(土) 20:54:45 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

はじまして。山本七平さんの本の解説、大変感銘を受けました。たしか、山本七平さんと言えば、今はなき諸君と言う雑誌で本多勝一と論争を繰り広げていた印象があります。今になってみれば、あの論争は山本氏の圧勝だったわけですね。そしてマスコミに踊らされる人々を見れば見るほど山本氏の指摘の鋭さが再確認されます。これからもこのブログの更新を楽しみにしてます。また、よろしくお願いします。

  • 2009/05/30(土) 19:38:03 |
  • URL |
  • 水瓶 #-
  • [編集]

悪いけど

悪いが・・題名に愛を感じらrない。憲法問題云々ではなくてね、そういう比喩をべきか?そうでないと語れない問題なのか?・・・前回TBもらったとき、すぐに気がつけなかったのでそのままにしたけれど・・
あなたの視点に男性上位ないやなものを感じます。

ちょっと悲しいな。

  • 2009/05/30(土) 19:12:40 |
  • URL |
  • お玉おばさん #e2xIBKiE
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Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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