一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

単純に「教育の無料化」を叫ばれてもね…。

「BLOG BLUES」というブログに何度かコメントを入れたところ、「次にコメントしたらソッコーで削除する」と宣言されてしまいました…orz

そこで、削除覚悟でコメント入れてみたら、なんといきなり「スパム扱い」。コメントすら投稿できない。
削除するんじゃなかったのかよ怒

せっかく書いたコメントが無になるのも癪だと思い、携帯アドレスから入れようとしたが、HNも禁止ワードになっている可能性もある(実際、村野瀬玲奈の秘書課広報室はそうだった)と思い、HNにスペースを入れ、投稿しようとしたが、携帯は300字という制限がありちょこっとしか書けなかった。
もちろん、これも”ソッコー”で削除されてしまったが…。

そのブログは、共産党の閉鎖性をつねづね批判し、オープンに議論しようと主張していたはずなのだが、所詮どうやら内輪に限った話であるらしく、自説に都合の悪い異論者には適用外らしい。

まぁ、言行不一致は、どのブログでもありがちなのでいまさら驚くことではないのですが…。

しかしながら、スパム扱いしてコッソリ相手の口を封じておきながら、私のことを卑怯者呼ばわりして、「正々堂々の議論なら、いつでも受けて立つ。」とのたまうのだから恐れ入る

これで、どんな相手かはよくわかったので、彼のブログに投稿することは二度とないだろうな。
(ただ、一応、礼儀としてこの記事をトラバしておきますがね。以前、トラバはすぐ通ったけど、今回はどうかな…?)

そんな顛末のきっかけの議論は、「教育の無料化」について。

当該記事&私とのやり取りを読んでみればおおよそこのブログ主の言わんとしていることはおわかりいただけると思いますが、要するに「北欧型(フィンランド)の高福祉社会を実現し、教育を無料化し、貧困層にも均等に機会を提供すれば世の中うまくいくはずだ」ということになるかと思います。

まぁ、彼の元記事からは、「無料化すればうまくいく」なんて書いてはいないのですが、私とのコメントのやり取りを見る限り、そうとしか受け取れないんですよね。

そこで、たとえ「教育を無料にしても、質が悪ければどうしようもないのでは?」と当然の疑問を述べてみたわけです。

しかし、どうもこのブログ主さんは、現在の日本の教育が問題ないと思っているのか、それとも、中卒じゃ学歴社会の日本では幸せになれないから可哀想だと思って、ダメ教育でも学位さえ与えてやれと思っているのか、わかりませんが、ともかく「質」に関する懸念を抱いていないようです。

「機会の均等」とか言っているが、その実、共産主義者(?)らしく、「(全員が高学歴であるべきという)結果の平等」を求めているだけのような気もします。だから、質については問題視していないのかな??

ま、こんなやり取りをしていて、思い出したのが山本七平の次のコラム。
今の日本の公教育の「質」の問題の一例がよく出ていると思うのですが…。
以下引用します。

「常識」の研究 (文春文庫)「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
山本 七平

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◆教科書批判

『聖書の常識』という本を書いた。
膨大な旧新約聖書を10分の一以下に圧縮し要約し、全体のバランスをとりつつそれを解説するという仕事の困難さには、少々「まいった」という気がした。

やっと本になり、ほっとして何気なくある中学校社会科教科書をぱらぱらとめくっていると、次の言葉が目に入った。

「イエスは、ユダヤ教のせまい考え方を乗りこえ、身分や民族の差別なく、信じる者はだれでも救われるとする教えを説いた。これがキリスト教である」。

私は驚いて跳びあがりそうになった。

というのは、ここにユダヤ教キリスト教が登場する。
両者の範囲は旧新約聖書よりはるかに広いが、一応これを旧新約聖書に限定しても、あの膨大にしてかつ複雑な書の内容が何と七〇字に要約されているのである。

さらに驚くことは、この文章を読むと何となくキリスト教がわかったような気持になるということである。

だが、その語いを一つ一つ検討し、筆者に「この言葉は具体的に何を意味するのか」と質問していったら、書いた御本人が何一つ答えられないのではないかと思った。

たとえば「ユダヤ教のせまい考え方」というが具体的にはどういう考え方をさしているのか。
それを「乗り越え」と書かれているが、「乗り越える」とは具体的にどういうことなのか。

「身分や民族の差別なく」とあるが、どこにその典拠があるのか、これと明確に矛盾するイエスの言葉をどう説明するのか。

「信じる者」とは何を信じる者なのか、ホトケ様でもよいのか。
「救われる」というが、それは具体的にどのような状態を言っているのかと。

少々気になったので、私は仏教を調べ、明治を調べ、企業を調べ、労働者を調べた。

どれもこれも、以上のキリスト教の説明と同じようなもので、何となくスラスラと読めて、何となくわかったような気持になるが、その語いを以上のように一つ一つ取りあげて検討していくと、結局は何一つその文章から理解も把握もできないことが明らかになっていく。

これはおそらく、だれが何の項目でやっても同じことで、読者のみなさんも、帰宅されたらお子さんの教科書で、自分が現に知っている項目を取り出して、やってごらんになるとよい。

こんなひどいものかと、しばしあきれて口が利けなくなるであろう。

そうなってあたりまえである。

ドイツの子供にわずか七〇字で仏教を理解させようとしても不可能なように、日本の子供に七〇字でキリスト教を理解させることは不可能である。

そして私が不思議に思うのは、なぜその不可能なことを不可能と思わないで行っているのかということである。

人間は全知全能ではない。
知らないことがあって一向にかまわない。
ただそれについて自分が無知であることを知っていればよい

だが、このような教科書で教育されれば自分の無知を知ることができなくなり、何でも知っているような錯覚をもつオール・ラウンドの「一知半解人」を生み出すであろう。

それは「知らざるに劣る人間」の大量生産にすぎない。

もちろん、キリスト教に対する一知半解は大した問題ではないかもしれない。

だが世界のあらゆる事象に対する一知半解は本人にとっての不幸だけでなく、社会にとっても不幸である。

さらに諸外国や、社会主義、資本主義などの説明も、以上のキリスト教に対する説明程度なら、ない方がましである。

「教育問題」は、さまざまなところで論じられている。
それは多くの人が、学校を出て社会人になった者に、何か欠けている点があると感じているからであろう。

確かにこの社会科教科書を読むと、欠陥人間が生じて当然と思われる。

というのはこの教科書を全部暗記しても、何も知ることができず、それどころか「知らざるに劣る」状態になってしまうからである。

こういうものを頭につめこみながら、正確に日本の文字が書けず、文章が書けず、いや会話さえ十分にできない教育とは、どういう教育なのであろうか

このような教科書を学ぶくらいなら、その時間をもっと有効に使うべきであろう。

徳川時代には手習いの教本に「貞永式目」を使っている。
文字を覚えつつ同時に法や社会的規範を覚えてしまうことは、実に能率的な立派な教育であろう。

「社会科」というなら、キリスト教への「一知半解」を教えるより、徳川時代のような教育方法をとるべきではないのか。

案外、この時代の方が進んでいたのかも知れない。

【引用元:「常識」の研究/Ⅲ 常識の落とし穴/P144~】


こういう問題は、「無料化」では解決しませんよね。
かくいう私なんか、一知半解教育のおかげか、「知ったか」な知識しか持ち合わせてませんもの。

勿論、教育の質に関する問題は、これだけではないです。

イデオロギーを教育現場に持ち込むバカ教師や、組合活動や政治活動を優先する怠慢教師の問題もある。家庭が果たすべき役割を放棄している現状も問題です。

公教育が、受験戦争(が良いかどうかはさておき)への対応が全くできず、塾にそれを丸投げしている問題もある。

これについては、山本七平が別のコラムで触れていますので、以下紹介します。

「常識」の非常識 (文春文庫)「常識」の非常識 (文春文庫)
(1994/01)
山本 七平

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◆制度改廃の理念

制度は固定化しやすいものである。

特に官僚機構が整備されてそれぞれが権限をもつと、これを手放したがらないのは人情の常、さらに大きな権限をもちたがるのも人情の常だから、それはますます肥大化する。

では肥大化すれば効率的であるかといえば、到底そうはいえない場合がある。

新しい法が制定され、新しい制度が出来ると社会が一変する場合も決して少なくない。
明治にもそれがあり、戦後にもそれがあった。

いわば新しい法と制度が新しい社会を生み出すことは否定できないが、その生み出された社会がある成熱度に達すると、それを成熟させた制度が逆に桎梏になり重荷になってくる場合が決して少なくない

いな、むしろそれが常態だといえる

こういう場合、その生み出されかつ成熟した社会に対する新しい法と制度が当然に要請されるわけだが、固定化した制度は改革に抵抗するからなかなかこの要請に応じないわけである。

だがそれでは社会はこまるから、制度(インスティテューション)の下に下位制度(サブ・インスティテューション)を勝手につくってしまう

それは、「つくった」というより「自然発生的に生まれた」という形で出現してくる

するとしばしば、徐々にそれが制度のように機能して、本物の制度の方を形骸化させていく

日本人は元来、保守的であり革新の方が保守より保守的だという面白い現象を呈する国だが、この保守的傾向は何も今に始まったことではない。

古くは律令制である。
これを頑として変えないでいると、下位制度の「幕府」なるものが出現してくる。

これは制度的に見ればきわめて奇妙な存在で、律令には「幕府制」などという制度は存在しないのである。

だが当時の公家政権は、法と制度を変えて、このようなものが出現しうる新しい社会情勢に対応しようとしなかった。

そのうちに、下位制度はどんどん実力をたくわえ、律令制そのものを完全に形骸化してしまった。

われわれはこの歴史から学ばねばならないであろう。

たとえば現在の教育制度は六・三・三・四だが、すでに早くから予備校という、制度にはないものが出現して、現実は六・三・三・予備校・四となり、さらに「塾」というものが出来、六塾・三塾・三塾・予備校・四という形になり、そのうえ、膨大な売り上げと高収益を誇る「教育産業」なるものが成立している。

さらに「企業は教育機関だ」などという言葉まで出現し、「企業内大学院」ができている。

これらは、六・三・三制という制度ができた時点ではおそらくだれも予測しなかった状態なのである。
いわば予備校・塾というものは、六・三・三制の下位制度として、自然発生的に出現したわけである。

そしてこれがすでに制度の一部を形骸化させている。

すなわち、「無月謝・教科書の無償配布」で義務教育は無料のはずだが、家庭はこの下位制度には莫大な月謝を払い、テキストを買い、教育産業に膨大な売り上げと高収益を可能にする支出をしているのである。

これを見ながら、この形骸化を問題にせず、徒に、制度そのものを保持して行こうとする意見も強い

一種の公家政権的意識かも知れぬが、これだけでなく、さまざまな面での教育制度の形骸化はすでに数多く報じられている。

と同時に、「塾」だなどというより、この方がまさに学校ではないかと思われるような立派な塾の記録もある。

いわば、新しい状態への対応を怠って、徒に法と制度と権限の保持に汲々としていると、下位制度はぐんぐんと実力をたくわえ、それに応じて本物の制度の形骸化が進んでいくという状態が、すでに現われているように思われる。

そうなっても、法と制度の改廃は行わないと言うのは、ある意味でまことに日本の伝統にふさわしいことかも知れぬが、伝統の中には保持すべき伝統もあれば、打破すべき伝統もあることを忘れてはなるまい

といっても、この問題は民間では如何ともしがたいのである。「法と制度の改廃」は立法府と行政府のみが、関与・決定できる権限であって、民間にはこの問題を処理する権限はない。

ということは、少なくとも議院内閣制のもとでは、国会で多数を保持する内閣にのみ行いうるということであり、同時に内閣は国民に対してそれを行う義務をもつということである。

人類は長い間、法とか制度とかは変えられないものだと信じる社会に生きて来た。
これは日本だけでなく殆どの民族では、「定められた伝統的制度」は宿命のようなものであった。

停滞的伝統社会ではそれは必ずしも悪いことではなかったのかも知れぬ。
従って日本にもその伝統があることは少しも不思議ではない。

だが民主主義とは、国会の議決によって法と制度を変え得るという体制なのである。これは進歩がはやく変化の激しい現代の社会には当然に要請される制度であり、日本のように特にその速度がはやい国には最適の制度のはずである。

この民主制という制度は、最大限に活用されるべきであろう。

【引用元:「常識」の非常識/未来への構図/P250~】


この組織の形骸化という観点から、教育制度を見ていくと、やはり「教育無料化」という「解」は、全然役に立たないでしょうね。

少なくとも、塾に頼らずとも済むように「公教育」の充実を図ることの方が、先決であるような気がします。
そのほうが、「教育の機会均等」という面から見ても、理に適っているはず。

となれば、如何に質を上げるか?
これは一筋縄でいくような問題ではありません。
教師の問題、家庭の問題、地域の問題、受験制度の問題、いろいろな問題が絡み合っている。

それについては、おいおい考えていこうと考えていますが、こうした問題を考えずに「無料化」を叫ばれてもなぁ…。

そういや、民主党のマニフェストに、「高校教育無償化」が掲げられていたけど、中身の変革は考えてなさそうだから、失敗に終わりそうな予感。

日教組と緊密な民主党に変革が出来るか?と言えば、疑問ですね。てゆーか、無理でしょう。


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コメント

情報提供ありがとうございました

佐藤生さん、こんばんは。
いろいろと教えていただきありがとうございます。

その1について

>これが、「日教組」のくびきからの解放の魁となって欲しいものです

同感です。
私の愛読しているブログで、このことについて記事をUPされていましたので私も存じておりました。

商社マンの方のブログ↓です。宜しかったらご覧ください。

・ほんとは16勝2敗 「つくる会」 歴史教科書の横浜市採択
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200908080000/

その2について

youtubeのご紹介、ありがとうございました。
早速「ハナシの種」のシーン確認させていただきました。
1フィート運動など知らなかったので参考になりました。

曽野綾子さんの「ある神話の背景」にも言及されてましたね。

おかげで、この本や曽野さんは、左翼共から目の敵にされてますね。
一例として、山崎行太郎の「毒蛇山荘日記」↓を紹介しておきますが、これなんかひどいものですよ。左翼の品性がどのようなものかよくわかると思います。

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

そういえば、曽野さんについては、山本七平が「私の中の日本軍」の中で評価してましたよ。

過去記事を探してみたらありました。
・「規範の逆転」を察知しようともせず糾弾することの愚かさ
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-74.html

その記事から以下、一部抜粋して再掲します。

(~前略)

先日、曽野綾子氏から『ある神話の背景』をお送りいただいた。
氏はこの中で、沖縄の「伝説的悪人」赤松大尉のことを、あらゆる方法で調査しておられる。

この中に多くの人の「赤松大尉糾弾」の辞が収められている。確かに彼には糾弾さるべき点はあったであろうし、戦場にいる限り、それはもちろん私にもある。

ただ私にとって非常に奇妙に見えたのは、ある評論家の「糾弾の方向」である。

それはまるで「死体をかついで野戦病院にかけこまないのはもってのほかだ」と言っているように私には思えた。赤松大尉の副官であったかつての一見習士官が「では一体、私たちはどうすればよかったのですか」と問うている。

それにはだれも答えられない。

そして曽野氏は、この「神話の背景」にあるいま私が要約したような「規範の逆転」を察知しておられる。

戦場を知らない女性でも、「目」のある人が本気で調べれば、それは察知できるのである

(後略~)


また、南京事件に関する教科書の記述についてご紹介ありがとうございました。

いろいろ教科書によって書きぶりが違いますね。
今回横浜で採択された教科書の記述は、まぁ、私としては不満な表現もあるものの、受け入れられるレベルですね。

いろいろ情報を教えていただきありがとうございました。

  • 2009/08/23(日) 23:42:46 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

歴史教科書の続報です

前回の雑文で紹介した「日本人の歴史教科書」( 自由社 )では、
『南京事件』については、次の様に記述されています。

>> このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た
>> (南京事件)。 なお、この事件の犠牲者数などの実態については
>> 資料の上で疑問点が出され、今日でも研究が続いている。

 加害者とか死傷者が発生した経緯(攻略戦があった訳ですから)とか
 もう少し説明が欲しい様な気もしますが、紙数上の制約もあります
 からこんなものでしょうか。

一方、長男・長女たちの使用していた教科書を引っ張り出してみると、
以下の様な状況です。

その1:
>>「最新図説 世界史」(浜島書店、1988年版)
  この教科書には、『南京事件』についての記述が全くありません。
 (索引にも、南京条約・南京政府などのキーワードはありますが、
  南京事件は無しです)

その2:
>>「詳説 世界史」(山川出版社、1991年発行)
>> 南京占領に際し日本軍は多数に中国人を虐殺して、世界の非難を
>> まねいた(南京虐殺事件)。

その3:
>>「日本史図表」(第一学習社、1992年版)
>> 南京占領と南京大虐殺
>> 12月13日南京城を陥落させた。この占領の前後に南京城内外で、
>> 日本軍による大虐殺がくりひろげられた。


山川出版社:「詳説 世界史」には、『世界の非難をまねいた』なる文言
がありますが、これが事実とは思えません。
諸文献を管見する限りでは、以下の様な評価が妥当かという認識です。
 ・南京陥落の直後にCDNとかNT等には、『南京大虐殺』が報じられた事
  自体は事実ですが、その情報が真実であると検証された文献に接した
  ことはありません。
  現在でも、マスコミにおける虚報・誤報は日常茶飯事です。
 ・国際連盟理事会で、国民党代表:顧維釣による『日本軍の暴虐行為』
  への非難演説が行われた事は事実であるが、その演説の中で「虐殺
  が行われたという新聞報道がある」と言及しただけである。 
  採択された決議には、当たり障りのない表現が盛り込まれた訳です。
  自民党議員の一部が『国際連盟でも、南京大虐殺は否定された』と
  いう趣旨の主張をしている模様であるが、これも正確ではない。
  『国際連盟では、南京大虐殺について論評されなかった』という表現
  が適切かと思う。
  (この辺については茂木弘道氏の主張が妥当と考えております)
 ・外国の大使館・外交官などから、『南京大虐殺』に関する抗議を受けた
  などという事実を寡聞にして知りません。  
  
以上、ご参考までに。

単純な「教科書の無料化」には反対

提起された論点からは、ズレている感じもしますが悪しからず。
私も、単純な「教科書の無料化」には反対です。


その1:
インターネットの番組を観ていたら、偶然にも下記の出版物を知りました。
 「日本人の歴史教科書」( 自由社、1,500 )
 http://circle.zoome.jp/matarihosyu/media/1758

図版などもとてもきれいです。 機会がありましたら、ご一読を。

その後の番組で、この歴史教科書が横浜市の中学校で採択された事も報じ
られていました。(横浜18区中の8区で、採択。 計71校:生徒数は
約3万9000名との事です) これが、「日教組」のくびきからの解放
の魁となって欲しいものです)


その2:
これもインターネット番組です。
沖縄のジャーナリストの記者会見の場面で、『一知半解』という文言が
出てきたので、「ハナシの種」にご紹介しておきます。

内容は、「沖縄戦における集団自決問題」の様です。 この件は、殆ど
知らなかったのですが、「軍命令はなかった」という事で決着の様です。

記者会見:前半部
http://www.youtube.com/watch?v=rKzCll0_TSQ&NR=1

記者会見:後半部
http://www.youtube.com/watch?v=Xw7RKpGR7tQ
この後半部の冒頭に、『一知半解』という発言が出てきます。

この「軍命令」について疑問を提示した初めての作品が、
 曽野綾子著 :ある神話の背景

また、大江健三郎著:沖縄ノートは「軍命令はあった」と明記している
様です。(サヨクのノーベル賞作家でも、その歴史認識を鵜呑みにしては
いけないという例ですね。 沖縄戦記:「鉄の暴風」を、検証もせず信用
してしまったという笑い話との事です。)


以上、取り止めもない雑文でお邪魔しました。

貴方の私宛のコメントを知らずに、レスが遅くなってゴメンナサイね。
http://boyaki-555.at.webry.info/200908/article_3.html
で私見を述べましたが、貴方に私の心が届くとは・・今までの経験からして、そして私の文才のなさで・・・期待はしてませんが、一応お知らせします。

  • 2009/08/15(土) 17:44:56 |
  • URL |
  • 葵 #cwJ6o44Q
  • [編集]

葵さんへ

葵さん、お知らせコメントありがとう。
どんな記事でも、ネタ元にお知らせいただけることについては、素直に感謝いたします。

貴記事拝見しましたが、一知半解なせいか、いまいちご意見がわかりませんでした。

結局、仰りたいのは、「山本七平の衣を借りて言いがかりをつけるな」…ということでしょうか!?

そうだとしたら、それはご意見として伺っておきますが、別に私としては言いがかりをつけたとは思ってませんし、彼の含蓄ある言葉を引用してはならないとも思ってません。

確かに山本七平に対する私の理解は、私のブログにときどきコメントを下さるtikurinさんや1読者さんらに比べればまだまだ浅いと思います。

ただ、そういう自分でも、自分なりの山本七平の解釈を披露することは、別に恥ずかしいことだとは思ってません。

勿論、私の解釈に対して、文句があるなら言ってくだされば、参考になる場合もあるかと思いますのでじゃんじゃん言ってください。

納得の行く意見であれば、以後、参考にさせていただきます。

仮に参考にならない悪罵だとしても、一応目を通しはいたしますので。

それと、「山本絶対化」ですが、別に私は絶対化してませんよ。

何を以って、絶対化といわれるのかさっぱりわかりません。

「絶対化」云々の批判をするのも結構ですが、せめてその前に山本七平の主張のどこが間違っているのか、明らかにしてからにしていただけますか?

あなたの記事を読んでも、その辺りがさっぱり不明確なので。

それもせずに、「絶対化」といわれても、単なるレッテル張りにしか受け取れないのですが…。

  • 2009/08/10(月) 22:51:12 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

おきなお世話ですが・・・

mugi さんと tikurin さんの会話を拝読し、私は今までの疑問が解けたような・・・気がしました。一知半解さんの記事を拝借しましたので、ご迷惑でしょうが御知らせコメントをします。
ブログ同士の相性の問題でTBは諦めていますので。

  • 2009/08/01(土) 23:06:41 |
  • URL |
  • 葵 #cwJ6o44Q
  • [編集]

mugiさんとの論争の感想
(できるだけ解りやすくするため引用・説明が長くなりますが最後ですので悪しからず)

mugi 私は“批判”でなく“疑問”を抱いてその言葉を使ったのですが、どうも貴方は異なる意見には、すぐ“批判”と受け取るようですね。ならば、貴方はずっと私を批判されていたのですか。私は性格が異なれば意見が違うのは当り前と考えており、被害妄想のように受け止めませんので。

tiku mugiさんの最初の問いかけは次の通り「あなたの提案ですが、問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないでしょうか?」。疑問か批判かの差はあまりないようですが。ただ議論に批判はつきもの、それを「被害妄想」的に受け止めるようでは議論になりません。私がここで言ったことは、折角議論しているのだから「本論」に入りましょう、ということです。

<<選民思想の解釈について
mugi 異教徒ゆえ誤解はあるかもしれませんが、ユダヤ教徒同士でも教義に関する見解が一致しない事実はどう解釈されるのでしょう。互いが「お前は間違っている、俺が正しい」と主張し合い、内ゲバに至った歴史こそ、教訓になりませんか。

tiku 選民思想の理解のために『聖書思想辞典』三省堂の”選び”の項目を参照したことを紹介しました。貴方が”選民思想”をとんでもない考え方のように言うので、モーセなどを例に出して”選ばれることは大変な負担を強いられること”で本人にとっては迷惑なことだった、という例を紹介したのです。説明したのであって、あなたにそうした考え方を強制したわけではありません。

mugi 「性悪説」を取る者は「罪の意識」があるとする貴方の見方こそ、私には不可解です。キリスト教の原罪と東洋の「性悪説」では違いますよ。

tiku 貴方が「私は罪の意識を植え付け、懺悔に持ち込むシステムには全く共感しません」というから、キリスト教の「罪の意識」についての議論になったのです。そこで、私はこれに対比して日本人の「性善説」に言及し、mugiさんの考え方は日本人的な「性善説」ではないのかと指摘したのです。ところが貴方は、私は「性悪説」というから、「罪の意識」云々の話になったのです(余計なことでしたが)。また東洋の「性悪説」の話ですが、中国の韓非子等の「性悪説」(荀子の説を引き継ぐ)は、儒教の徳治を斥け、法律、刑罰を絶対化し、信賞必罰を説いたもので君主の絶対権力を正当化したものです。こちらの「性悪説」は君主の「性悪」は問わず、人民の「性悪」だけを問題にしています。恐ろしいです。(ブリタニカ)

mugi 神の一方的命令と信じるのもまた「信じることが第一歩」となりませんか?そもそも、唯一神を唱えたのは預言者と称する人間であり、その人間が神の言葉なるものを唱え、それに帰依した者がいたからこそ一神教が成立したのです。私は古代はもちろん現代の一神教徒でもそれに疑念を持つ人もいると想像しています。公言すれば爪弾きになるので黙っているかも。ドイツ在住のシリア人作家ラフィク・シャミ(キリスト教徒)は、「イエスやムハンマドも雲をつかむような話をしなければ、預言者になれなかっただろう」と書いていたのを見た時、やはりと感じさせられました。ムガル朝3代皇帝アクバルも「コーランは人間の作品」と「冒涜」していた。結構「無神論的」なことを言う一神教徒偉人もいますよ。

tiku ここでも議論したのは、日本人の「信心中心」の考え方と、キリスト教の「信仰のみ」の考え方の違いについてです。私が言ったのは、前者は”戒律放棄”(=戒律なし)だが、後者はそうではなくて、律法の中でも”あわれみや慈しみ”を最重要視し、それなしに形ばかり律法を守ってもダメだ、という意味であることを、日本の代表的な聖書学者である関根正雄氏の言葉を引用して説明したのです。あくまで、一神教文化を理解するためで、その正非を論ずるためではありません。私にそんな力はありません。

mugi 私は貴方に棄教を勧めてもいないし、クリスチャン?と聞いただけで「余計なお世話」は解せません。もし貴方が他の日本人と違い揺るぎない信仰心があるなら、胸を張ってクリスチャンと宣言しても構わないはず。それを「プライバシー軽視」「レッテル貼り」(※正しくは「張り」)と受け取るのもまた不可解です。そして姑息なレッテル張りなら、貴方自身もやっていました。自分がしているから他人も行うと神経症になるのですか?

tiku 先の貴方の文面からして、貴方は「一神教」に強い懐疑の念を表明されていますね。その文脈の中で「やはり、あなたはクリスチャンですね?」といっている。それは”あなたは「一神教」なんか信じているんですか!”といっているのと同じですよ。私がクリスチャンであってもいい気持ちはしないと思いますよ。まして、信者でない私に、この言葉を投げる、それは”レッテル貼り”と同じではないか、といっているのです。もし私が信者なら、胸を張って堂々と”クリスチャンが何か悪いことをしましたか?”とお尋ねします。なお、「レッテル貼り」の「貼り」は「正しくは「張り」とおっしゃいますが、辞書を参照して下さい。

mugi (ルカの一節の引用は)引用としては不適切だったかもしれません。ただ、人間が生きて行く上で人間間のルールは不可欠であり、「選ばれし者」「多く与えられた者」の判断を下すのもまた人間なのです。やはり異教徒には異教徒の見方しかできないし、キリスト教徒もキリスト教徒の見方しかできません。この論法を適用するなら、ユダヤ教を理解しているとは到底いえないベンダサンの馬鹿げた書評(踏み絵等)も引用すべきではありません。ユダヤ、キリスト教徒もまた異教の教典からの不正確な引用を、「言論・表現の自由」として盛んに行っていることをお忘れなきよう。

tiku これも、貴方がノブレスオブリージという言葉の出典をルカ12:48と言ったから、私は、いわゆる選民思想における”選び”という考え方は、mugiさんの言われるノブレスオブリージ(ルカは神により恵みを多く受けたものは、それだけ責任が重くなる、といった)と同じかも、といったのです。人間間のルールが不可欠ではない、などとはいってないし(いえるわけがない!)、告白(=懺悔告解)の不思議については言及しましたが、ベンダサンの「踏み絵」の引用もしていません。また、なぜ私が、ユダヤ、キリスト教徒が不正確な引用をしていることを「お忘れなきよう」努めねばならないのか、おそらく、彼らが不正確な引用をしている(?)から、ご自分の不適切な引用をとやかく言うべきでない、とおっしゃりたいのかもしれませんが。

mugi これまでのやり取りで、意図的なのか無意識か不明ですが、貴方の論調は左翼に酷似しています。ある対象への盲従性、大上段に道徳を振りかざす説教口調、「議論」「理解」の言葉の多用。相手への理解はせず、己への理解のみ求める一方性。異論を批判と見る被害者意識。左翼が共産主義圏での粛正、弾圧に口をつぐむように、貴方は欧米の負の歴史には触れずすり替え、辻褄あわせを繰り返す。こんなことを書けばまた「説教」「貶める」「批判」と取るでしょうし、私もまたあなたの「説教」及び主張には共感がもてません。

tiku 前段2/3の私への批判は反省の材料として伺っておきます。なお、貴方は私が欧米の負の歴史に触れない、と批判されますが、私は相互理解の話をしているのであって、欧米の歴史の正負を論じているのではありません。重ねて言いますが、そんな力は私にはありません。  

感想 裁判員制度と同じで、まず論点を確定しないと、議論になりません。mugiさんは大変な博識で、世界の宗教について批評を下されますが、議論するときにははじめに設定した論点を逸脱しないようにしないと、議論が拡散してしまい、折角の議論が悪口に終わってしまいます。今回はそのような結末で残念でした。私が貴方に最初に言葉をかけた動機は、山本七平に対する誤解を少しでも解きたいと思ったからですが、うまくいきませんでしたね。

 失礼のあった点はご容赦下さい。応答ありがとうございました。 

  • 2009/08/01(土) 05:30:15 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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最後にtikurinさんへ

tikurinさん、レスをどうも。

>>ハンドル名をmagi…つまらぬ批判をされますね

“つまらぬ”と仰いますが、それは貴方の見方であり、私は名称を間違えるのは無作法と考えていますから。それを訂正するのは当り前のことであり、殊更強調するまでのことではない。礼儀はつまらぬこととはいえません。

>>貴方が「問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないか」と批判されたので

 私は“批判”でなく“疑問”を抱いてその言葉を使ったのですが、どうも貴方は異なる意見には、すぐ“批判”と受け取るようですね。ならば、貴方はずっと私を批判されていたのですか。私は性格が異なれば意見が違うのは当り前と考えており、被害妄想のように受け止めませんので。

>>選民思想に関する貴方の理解は、私は間違っていると思いますが

 異教徒ゆえ誤解はあるかもしれませんが、ユダヤ教徒同士でも教義に関する見解が一致しない事実はどう解釈されるのでしょう。互いが「お前は間違っている、俺が正しい」と主張し合い、内ゲバに至った歴史こそ、教訓になりませんか。

>>「性悪説」を唱える貴方に「罪の意識」がないとは不可解ですね。

 私が「性悪説」を取るのは人類史からの結論であり、「性悪説」を唱えた荀子にも「罪の意識」があったとは思えません。「性悪説」を取る者は「罪の意識」があるとする貴方の見方こそ、私には不可解です。キリスト教の原罪と東洋の「性悪説」では違いますよ。

>>十戒は「唯一絶対神の一方的命令(戒命)」だ、と言うことを指摘するため

 神の一方的命令と信じるのもまた「信じることが第一歩」となりませんか?そもそも、唯一神を唱えたのは預言者と称する人間であり、その人間が神の言葉なるものを唱え、それに帰依した者がいたからこそ一神教が成立したのです。私は古代はもちろん現代の一神教徒でもそれに疑念を持つ人もいると想像しています。公言すれば爪弾きになるので黙っているかも。ドイツ在住のシリア人作家ラフィク・シャミ(キリスト教徒)は、「イエスやムハンマドも雲をつかむような話をしなければ、預言者になれなかっただろう」と書いていたのを見た時、やはりと感じさせられました。ムガル朝3代皇帝アクバルも「コーランは人間の作品」と「冒涜」していた。結構「無神論的」なことを言う一神教徒偉人もいますよ。
http://labaq.com/archives/50944400.html?l=o

>>別に感情的に応答したのではありません…他者のプライバシーを軽視した
>>レッテル貼りなど下品なことはおやめなさいと言っているのです。

 私は貴方に棄教を勧めてもいないし、クリスチャン?と聞いただけで「余計なお世話」は解せません。もし貴方が他の日本人と違い揺るぎない信仰心があるなら、胸を張ってクリスチャンと宣言しても構わないはず。それを「プライバシー軽視」「レッテル貼り」(※正しくは「張り」)と受け取るのもまた不可解です。そして姑息なレッテル張りなら、貴方自身もやっていました。自分がしているから他人も行うと神経症になるのですか?

>>もし人間間のルールと理解されているなら、ルカを引用すべきではありません

 引用としては不適切だったかもしれません。ただ、人間が生きて行く上で人間間のルールは不可欠であり、「選ばれし者」「多く与えられた者」の判断を下すのもまた人間なのです。やはり異教徒には異教徒の見方しかできないし、キリスト教徒もキリスト教徒の見方しかできません。この論法を適用するなら、ユダヤ教を理解しているとは到底いえないベンダサンの馬鹿げた書評(踏み絵等)も引用すべきではありません。ユダヤ、キリスト教徒もまた異教の教典からの不正確な引用を、「言論・表現の自由」として盛んに行っていることをお忘れなきよう。

 これまでのやり取りで、意図的なのか無意識か不明ですが、貴方の論調は左翼に酷似しています。ある対象への盲従性、大上段に道徳を振りかざす説教口調、「議論」「理解」の言葉の多用。相手への理解はせず、己への理解のみ求める一方性。異論を批判と見る被害者意識。左翼が共産主義圏での粛正、弾圧に口をつぐむように、貴方は欧米の負の歴史には触れずすり替え、辻褄あわせを繰り返す。こんなことを書けばまた「説教」「貶める」「批判」と取るでしょうし、私もまたあなたの「説教」及び主張には共感がもてません。

 私からもこれ以上の論争は不毛と思いますので終わりにしたいと思います。価値観の異なる者同士では、学ぶに値するものも異なりますし、貴方の“批判”は私も学ぶ必要もないと考えます。非生産的な議論でしたが、レスを有難うござしました。
 最後に「一知半解」さんには、不毛なコメントを書き連ねてしまい、大変失礼致しました。

  • 2009/07/31(金) 22:24:49 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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tikurinさんへ

tikurinさん、レスをありがとうございます。
お返事が遅くなりましてすみません。
(tikurinさんから寄せられたコメントは、なにしろ考えさせられることが多く、なかなか返事を書く筆が進まないのです。)

文部科学省のコントロールのお話、参考になりました。
特に責任主体が不明確という点は、すぐにでも何とかせねばなりませんね。
徳川時代の藩校制度のように、藩同士切磋琢磨するような状態にできればいいのですが。
先生の問題も、結局は経営責任の問題と密接につながっていることが(何となくですが)理解できました。

あとはどのようにこれを改善していくかなのでしょうが、tikurinさんのように事態を把握している政治家や政党が果たしているのか?不安ですね。

ご紹介の「日本古典文芸要約全集」の話は、面白いですね。
ただいきなり山崎氏の提案どおり実施するのは、難しいような気がしますね。
少なくとも、歴史的事実認識と事実評価を、一つの立場から教えるのではなく、異なる立場からの見方も教えることは必要だと思います。

ご指摘のとおり、歴史教育を政治問題の桎梏から解き放つことは、本当に必要なことだと思います。
無味乾燥な年号記憶とかやめて、歴史の面白さを伝える教育が行なわれると嬉しいのですが…。

最後になりますが、tikurinさんのHPのご紹介ありがとうございました。ボリュームが多いので時間をかけて拝見させていただこうと思ってます。

  • 2009/07/30(木) 23:36:18 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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再びmugiさんへ

再びmugiさんへ
 非生産的な議論になると「一知半解」さんには迷惑ですから、なお必要があれば貴方又は私のサイトでやりましょう。

tiku 私は間違いに気づいてすぐ訂正しました。(それにしてもハンドル名mugiをmagiと表記したなど、つまらぬ批判をされますね)私が言っているのは、貴方が「問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないか」と批判されたので、山崎氏の提案は「認識された事実ではなく、認識の方法の面白さを教えるべき」ですよ、といったのです。貴方が、その「認識方法の面白さを教える」という提案が危険だというなら、議論になりますが、提案されていないことを批判されても、答えようがないと言ったのです。

>>私は「信者」ではなく「学習者」であり、学習内容についての議論には関心がありますが、お説教には関心はありません。
mugi あなたは前に「山本絶対化」(これは無害)」と仰っていましたね。

tiku 神ならぬ人は絶対化すべきでないが、これはその人の思想信条に関わることだからダメとはいえない、だが、「自己絶対化」は自分の注意で避けられるといったのです。「お説教」といったのは、貴方のブログ記事「山本七平信者との対話」を読んだ印象で、到底生産的な議論にならないと感じたという意味です。貴方が山本七平をどう評価しようと、それは貴方の自由で、申し訳なく思う必要はありません。
 また、選民思想に関する貴方の理解は、私は間違っていると思いますが、「見解が異なる」ということですので、この議論は終わりにします。
 また、罪の意識に関する議論も同様に終わりです。でも「性悪説」を唱える貴方に「罪の意識」がないとは不可解ですね。

mugi「個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません」と以前あなたは言われましたが、その言葉をお返しします。私はいわしの頭を崇めようが結構だと思っているし、信仰の対象を選べない方が恐ろしい。やはり、己の信仰しか認めない一神教思想が感じられます。異教徒から見れば、十戒全て人間の作った法に過ぎませんが、それを聖法とするのこそ問題でしょう。

tiku 私が、日本人の信心は「信心する人が信仰の対象を選べる」(これは言葉足らずで誤解を招きやすい表現でした。)といったのは、もちろん「信仰の自由」のことではなく、日本人にとって、神は絶対意志を持つ存在ではなく、人間が必要に応じて取捨選択する「薬」のような存在だ、ということを言いたかったのです。なぜ、そんなことを言ったかというと、貴方が、十戒第一条を「まず信じることが第一歩」と日本的な理解をしていたので、十戒は「唯一絶対神の一方的命令(戒命)」だ、と言うことを指摘するためでした。

>>あなたはクリスチャン?そうではありませんが余計なお世話です。

mugi 私の予想通り感情露なご返答、有難うございました!「そうではありません」と否定されても、へそ曲がりの私は信用しませんので、あしからず。これだけ聖書への好意的解釈のコメントから、自称非信者はまず通じないでしょう。

tiku 別に感情的に応答したのではありません。(他者のプライバシーを軽視した7/30挿入)レッテル貼りなど下品なことはおやめなさいと言っているのです。

mugiモーセが選ばれたといえ、選んだのは人ではなく神なので、人間に対する「ノブレス・オブリージュ」とは意味合いが異なるのでは?

tiku 貴方はノブレスオブリージという言葉がルカ12:48の次の言葉から来ているとあなたのサイトで指摘していますね。
 ルカ12:48 しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。
 この節で「多く与えられた者」というのは「神から多くの恵みを受けた者」という意味ですが、人間に対する「ノブレスオブリージ」とは意味合いが違う、というのはどういう意味ですか。もし人間間のルールと理解されているなら、ルカを引用すべきではありません。

 終わりに、議論は教えたり教えられたり、お互いに学ぶことがあると思うからするのです。相手を貶める事が目的ではありません。学ぶもののない議論はやめましょう。もちろん批判でも、学ぶに値するものならokです。
 

  • 2009/07/30(木) 12:55:55 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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再びtikurinさんへ

tikurinさん、長文レスを有難うございました。

 もちろん「歴史記述の古典的名作…」があなたの提案でないのは存じております。しかし、山崎正和氏の提案を孫引きされたことと内容から、あなたも支持しているのは確かでしょう。でなければ引用しないはず。ま、「あなたの提案(※正しくは提示)」と書いたのは私のミスですが、あなたも先に私のハンドルを何度もmagiと書くミスをしていましたね。とかく人は己のことは棚に上げ、他人を責めるものです。

>>私は「信者」ではなく「学習者」であり、学習内容についての議論には関心がありますが、お説教には関心はありません。

 あなたは前に「「山本絶対化」(これは無害)」と仰っていましたね。繰り返しになりますが、あなたとは価値観も性格、思想も異なりますので、私からすればある人物を絶対化するのは「信者」にしか見えません。それは「お説教」より「揶揄」を込めています。「お説教」と受け取るのは妙な被害妄想に思えましたが、あなた自身のコメントも「お説教」口調ですよ。
 あなたが山本の熱心な「学習者」となるのは自由ですが、私にとっては一評論家に過ぎず(※管理人さんには大変申し訳ありません)、先に紹介したようにユダヤ人からも「近視眼的な学者ぶったやり方」と批判されていたのは苦笑しました。

 サムエルがサウルやダビデを認めたのも聖書的には神の声を聞いたから。聖書を読まれたならご存知のはずですが、消極的な賛成であり、神自身もまた王の必要は感じたとなります。サムエルも神に無断で認めたのではない。異教徒的解釈ですが、強い政治力を持つ王がいなければ、宿敵ペリシテ人に滅ぼされてしまったでしょう。理想が現実に追随した結果だし、それを聖書的粉飾で書いた。

 モーセが選ばれたといえ、選んだのは人ではなく神なので、人間に対する「ノブレス・オブリージュ」とは意味合いが異なるのでは?そして、モーセにより滅ぼされた異民族はもっと悲惨です。金の子牛像を拝んだ同胞3千人を粛正するほどだから、まして異教徒は。あなたの引用した申命記の「主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう」こそ、選民思想が凝縮されている。要するに最たる自民族絶対主義のご託宣。聖絶という民族浄化の聖句を実現する。
 異教徒の私からすれば、サウルがどうあれ、「男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない…」の聖絶命令など、到底容認できるものではありません。所詮あなたと私では理解が異なりますし、己がそう理解するから他人も同じとは限らないことをお忘れなく。

 確かに日本人の伝統思想は「人の性は本来善」です。ただし変わり者もいるし、それが全てとは限らない。私個人は「人の性は本来悪」が自論だし、宗教人や団体には拭いきれない不信感がある。西欧にも「宗教は賢い者は利用し、愚かな者は信じる」の諺があります。
 中世欧州の暗黒もキリスト教が原因だし、その宣教師が植民地の先兵だった事実は否定できない。17世紀後半となれば流刑で済ませた日本と異なり、19世紀になっても激しい弾圧を行っていた儒教圏もまた「政治的陰謀」と見なしたし、それは当然です。

 いかに信者が多数といえ、全世界全てがキリスト教徒ではないという事実をお忘れではありませんね?「人生には「罪の意識」は付きもの」と考える人ばかりではありません。これは日本人に限らず、原罪の見られないイスラム、ユダヤ教徒も「罪の意識」はさほどではない。ヒンドゥー、ゾロアスター教も同様で、これらアーリア系民族宗教は非常に前向きの教義で好感が持てます。私自身も「罪の意識」など、まず感じません。「罪の許しの思想」を掲げながら、聖絶を正当化する宗教こそ願い下げです。

「個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません」と以前あなたは言われましたが、その言葉をお返しします。私はいわしの頭を崇めようが結構だと思っているし、信仰の対象を選べない方が恐ろしい。やはり、己の信仰しか認めない一神教思想が感じられます。異教徒から見れば、十戒全て人間の作った法に過ぎませんが、それを聖法とするのこそ問題でしょう。

>>あなたはクリスチャン?そうではありませんが余計なお世話です。

 私の予想通り感情露なご返答、有難うございました!「そうではありません」と否定されても、へそ曲がりの私は信用しませんので、あしからず。これだけ聖書への好意的解釈のコメントから、自称非信者はまず通じないでしょう。
 ちなみに私がキリスト教に根強い不信感があるのは、小学三年の頃、外国人宣教師に「キリストを信じないと地獄に落ちる」と脅されたことが始まりです。全く「余計なお世話」で、その体験を記事にしましたが、これまたキリスト教的には正しい行為です。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/49eebeb580b12b5758a6f8b9f150f664

  • 2009/07/29(水) 21:33:44 |
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教科書問題など

一知半解さんへ
itti 教科書を有償にして、選ばせるのは小学生程度なら問題なさそうですが、中高校生ともなると、イデオロギーがらみでひと悶着ありそうですね。ただ、有償にすれば、親の関心やチェックが強くなり、教科書の内容も良くなると思います。

tiku いわゆる「自虐史観」のような史観が幅を利かしてきましたからね。そのために教科書の記述があたらずさわらず無味乾燥なものになりました。でも、歴史は面白くないとつまらない。それを補う提案が谷沢氏らの提案であるように思うのですが。まあ、プロの教師なら教科書ぐらい自分で選びたい、と思うのが本当ですね。ただし「教育」と「教化」の違いが分からないようでは教師失格です。
 それから教科書無償の問題ですが、民主党の高校の授業料の無償化は税金の無駄遣いですね。だって、それに数十倍する教育費を支払っている家庭になんで教科書を無償配布する必要がありますか。教育扶助費に教科書費用を算入するだけでいいと思います。また、義務教育についてこれを無償にするなら、現在の「教科書無償給与法」を改めて、もっと面白くて内容のある教科書づくりが自由に出来るようにすべきです。となると教科書の値段も上がるから、全員無償はやめようという話になるかもしれませんね。

>これに文科省は徹底して反対しているのです。これも政治の官僚統制の一端です。

itti確かに役人は権限を失うことには抵抗しますが、この問題でも、そのことが悪影響を及ぼしているのでしょうか?それを打破するのが、政治家の役割なんですけどねぇ。

tiku 現行法では市町村教育委員会が地域の学校経営機関になっています。だが経営機関とは名ばかりで教員の人事権(異動や昇任昇格を含む)も給与決定権も持っていません。いわばダミーなのです。ではどこにその権限があるかというと都道府県教育委員会です。しかし、それは教員閥(義務制・県立)、組合閥、行政閥の力関係で動いている。しかし、これは制度ではありませんから一切外には見えない。そしてこの組織を文科省が補助金でコントロールしているのです。
 つまり、この単位学校から文科省までの教育行政組織における最大の問題は、特に義務教育学校の場合、その経営の最終的な責任主体が不明確だということです。そういう意味で私は地域自治体(全国に約300、昔の藩と同じ、藩は教育も含めた殖産興業の基本的な経営単位だったのです)に学校経営権を一本化すべきだと言っているのです。霞ヶ関がこれに反対するのは他の地方分権に関する議論と同じです。
 それから先生の問題ですが、基本的な問題はその資格基準が不明確なこと。大学の単位取得のみで取れる教員資格があてにならないから採用試験がそれにとって代わっている。従って情実採用が危惧される。基本資格さえしっかりしていれば、どういう人を採用するかは採用する側の経営判断です。また、それを公正に行うためには、経営責任が明確にされなければいけません。

ittiただ、義務教育というものに、「経営」という概念を導入するのは、かなり抵抗があるような気がするんですよね。それが必要だとは思うものの…。

tiku 「経営」とは、事業目的に従って組織の運営計画・実行・評価をすることです。そのために、ひと、もの、かねの経営の三要素を、どう組み合わせて組織化し機能させるかが問われます。しかし、義務学校教育の場合は、まず、肝心の人の組織管理体制が出来ていないのです。そこからすべての問題が起こっているのです。大阪の橋本知事などが活躍する所以です。

itti 学力はともかく、義務教育では、最低、社会規範や日本の歴史などをきっちり教えて欲しいです。自らがどういう社会に属しているのかを知らない日本人があまりにも多すぎるような気がしてなりません。
 
tiku 同感ですね。そのためにも自国の伝統文化の長所と短所をしっかり掴まないといけない。民族の生き残りがかかっていますから。

  • 2009/07/28(火) 22:08:46 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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mugiさんへ

mugiさん、レスありがとうございます。返事が遅れてすみません。

異教徒が他宗教を理解することの難しさ、mugiさんのご指摘のとおりだと思います。
いろいろな例を挙げていただき、大変参考になりました。

また、聖書に関するサイトの御紹介もありがとうございました。
ちょっと拝見しただけですが、日本人から見ると凄い記述があるものですね。
おいおい、じっくり見ていきたいと思います。

  • 2009/07/27(月) 19:14:03 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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mugiさんへ

mugi さんへ

mugi あなたの提案ですが、問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないでしょうか?

tiku 「歴史記述の古典的名作・・・」は私の提案ではありません。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』谷沢永一、からの引用(もとは前中教審会長の山崎正和氏の提案)と断っています。また、その主旨も「歴史記述の古典的名作を教室で読ませ、同時に後世それがどのように批判されたかを生徒に教えることで、認識された事実ではなく、認識の方法の面白さを教えるべき」としています。私はそのための教材(『日本古典文芸要約集成』など)があったらいいなあ、といっているだけです。反論なさるなら、対手の論旨をしっかり掴んでからにして下さいね。

 その他、mugiさんのブログで「山本七平信者との対話」を読まさせていただきましたが、いずれの論についても反論の必要を感じませんでした。私は「信者」ではなく「学習者」であり、学習内容についての議論には関心がありますが、お説教には関心はありません。

 ところで、サムエルの「権力の怖さ」の指摘は「反権力」ではありませんよ。もしそうならなぜサムエルはサウルやダビデを認めたのです?
 「ユダヤ教のせまい考え方」というのはmugiさんはこれを”自民族中心の選民思想、神権政治と解釈”し、その上で、サムエル記15:3節を引用し、万軍の主が「一切、滅ぼし尽くせ」と指令を発するのは恐ろしい、とおっしゃっています。

 要するに「選民思想」を”自民族を他民族より優れたものと見なす考え方”と解釈して、それを批判しているのでしょうが、私はそのようには理解していません。
 「選民」とは神との契約の対象として一方的に選ばれた、ということで、モーセなどを見ても一面では大変な災難ですよね。そのことは民族についてもいえるのではないでしょうか。(『聖書思想辞典』三省堂の「選び」の項目を参照)

 申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:14 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。

 選ばれることはホントに大変!mugiさんの言われるノブレス・オブリージかも。

 それから、mugiさんが引用されたサムエル記15:3節は、15:2節の「イスラエルがエジプトから上ってくる途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する」をうけたものです。さらに、3節の主旨は、サウルを否定しダビデを王として選ぶための布石で、サウルが神の命を無視し「ぶんどりものに心を奪われた」ことを非難しているのです。(『旧約聖書略解』日本基督教団出版局p277)

 mugi私は罪の意識を植え付け、懺悔に持ち込むシステムには全く共感しません・・・

 tiku 日本人の伝統思想は「人の性は本来善」(貝原益軒『大和俗訓』)ですからね。また、キリシタン禁制時(1614)に日本人がカトリックの「罪の告白」を危険視したのは、それが聖職者に対してなされるものだったからで、要するにそれは組織の秘密を外のばらすことと誤解されたのです。今はやりの「内部告発」ですね。それは懺悔告解の本来の意味(罪の許し)ではありませんが、日本では否応なしに、mugiさんが指摘する様な政治的陰謀とみなされてしまいます。

 で「内部告発」についてですが、これは組織の論理よりより高次の法規範に従うということで、いわゆるコンプライアンスですが、日本の組織がこれに堪えられるようになることは、私は大変いいことだと思っています。

 確かに、「あるブロガー氏は欧米人の怖いところは、異教徒に何か犯罪行為をしても、懺悔告解で帳消しになると考えている節がある」らしく、かって山本も同様の指摘をしていました。

 しかし、大切なことは、そうした考え方の背後に「罪の許しの思想」があるということで、それを否定するのではなくそれを相対的に認知することではないでしょうか。いずれにしろ、人生には「罪の意識」は付きものですから・・・。

 mugi 私が引用したヨハネ福音書3-18は「戒律放棄」のためではなく、「信心中心」の言葉として引用しました。これは他の宗教も同じですが、宗教とはまず信じることが第一歩。第一条「あなたは私以外の何者をも神としてはならない」こそ、唯一絶対神への帰依を説いています。それがなければ信者ではなくなりますから。やはり、あなたはクリスチャンですね?

 tiku 日本人の信心は「いわしの頭も信心から」になりやすい。つまり、信心する人が信仰の対象を選ぶのです。一方、十戒第一条は、唯一絶対神からの一方的命令です。その違いを問題にしているのです。あなたはクリスチャン?そうではありませんが余計なお世話です。

  • 2009/07/27(月) 16:23:36 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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Re:日本古典文芸要約全集

tikurinさん

 仰るとおり何処の国も歴史教育の問題は複雑な事情がありますが、少なくとも政治問題と無関係でいられる国があるとは思えません。学問と政治は切り離せないのは先進国、途上国共に同じです。あなたの提案ですが、問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないでしょうか?私の体験からも、思春期における教育の影響は後まで残りますしね。所謂“愛国教育”を行っているのは隣国に限らず、先進国やインドも似たようなものでしょう。

 最近バルカンの歴史に詳しく、海外生活の長かったブロガーさんからコメントを頂くのですが、このような鋭い指摘を受けました。
-ひとつ気になるmugiさんの言葉は、「それを言い出せばキリがない」という、日本人的な発想。やはり欧米式では、キリがないと思われることでも、しつこく自己主張して行くのが議論というものでしょう。
 バルカン半島の諸民族は、混血が甚だしいので、血液を分析しても意味はないと思われるし、ギリシャ全土にブル人の祖先のスラヴ人達が進出したらしい言語的痕跡(地名論)を小生が述べたとしても、それでギリシャ系の血液が薄まりすぎているというつもりもない。所詮小生は日本人で、ブルガリアの肩を持つ必要もないから。ただし、ブル人の学者はそういう細かい研究をしてでも、中世のブルガリア王国が、ビザンチン(要するに中世ギリシャ)を圧迫するほどの大国だったと証明しようとしているのです。その努力は、少なくとも知って欲しい…
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/ac40d01ab9fcaa58324e5613e1acb1f9#comment-list

 先にあなたが紹介されたベンダサンの書評で踏み絵についての認識に、知らざるとしか思えない箇所があったので、ネタにさせて頂きました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/2a45934c7d68a2dd4408cd9992cece55

 蛇足ですが、イザヤ・ベンダサンについてWikiの脚注に本物のユダヤ人からの批判が載っていますよ。

・ハロルド・R・アイザクスによる批判
もしも「イザヤ・ベンダサン」氏が実際にユダヤ人だとするならば、それなら彼は、同世代の仲間のユダヤ人との接触から驚くほど遮断されて来たユダヤ人である。彼がユダヤ人について書く書き方は、どんな種類であれ生きた本物のユダヤ人について、ほとんど完全に無知である。
「ベンダサン」氏がもっと現代に近いユダヤ人の経験にふれる場合には、そのユダヤ人は時に突如現実味の欠けた感じでわれわれを立ち往生させてしまう。たとえばナチのユダヤ人虐殺に関する言及は、奇妙にも動物および動物の屠殺に関する章の中で行なわれており、しかもユダヤ人が書いたとは想像もしがたい不快な文章の中でなされている。


・B・J・シュラクターによる批判
著者の近視眼的な学者ぶったやり方は、彼が真正の日本人にちがいないことを示している。彼が変装に成功したのは、日本の大衆がユダヤ人と限られた接触しか持っていないためである。原著にあった現代ユダヤ人に関するいくつかの言及のうち大部分は、事実の点でまちがっており、そのため翻訳版の方からは説明もなしに削除された。それらは明らかに、イザヤ・ベンダサンがー彼がだれであるにせよーユダヤ人なのだという悪ふざけを続けるために省かれたのである。

  • 2009/07/26(日) 16:51:04 |
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tikurinさんへ

またも、大変丁重な返答を有難うございました。

 あなたはサムエル記にあるサウル、ヨナタン、ダビデの物語を人間的なリアリズムと教訓に満ちたものであると解釈されていますね。もちろんあなたがそのように解釈するのは自由ですが、あなたの主観と私のそれは違うため、同じ章でも見方が異なってくるのはご了承下さい。

 あなたが引用された箇所は権力の怖さの教訓とも取れるでしょう。しかし、王の権力よりも恐ろしいのは宗教者の独善と私は考えています。神の権威を借りた聖職者は抑えが利かない。権力者なき社会は同時に無秩序、弱肉強食の世界にもなる。ダビデ、ソロモンのような強権を振るう王の時代、安定と繁栄がもたらされた。「権力の怖さ」とは、反権力がスローガンの左翼のようですね(笑)。
 そして、「ユダヤ教のせまい考え方」(私はこれを自民族中心の選民思想、神権政治と解釈します)を否定する内容とは思えません。当時は部族、まして民族が違えば殺しは当り前の時代でしたが、万軍の主が「一切、滅ぼし尽くせ」と指令を発するのは恐ろしいと感じるのが大半の日本教徒ではないでしょうか?クリスチャンはとかく、この「聖絶」となると話をそらすか、ユダヤ教徒に極めて甘い弁明を図りますが、異教徒には詭弁や欺瞞、不誠実としか見えません。

 近代のナショナリズムはやはり欧州発、それが日本も含めアジア諸国にも影響を与えました。ただ、ナショナリズムがないと国民国家が形成されず、いつまでも部族集団程度で終わってしまう。イラスム圏はそれで辛酸を舐めたのですが、オスマン朝は既に政教一体の超国家主義的な帝国だったので、敗戦と革命によってしか打倒できなかった。現代の中東のあり方を見ると、欧米式民主主義が機能するか極めて疑問ですけど。
 一方、「テロとの戦い」など欧米は未だに聖戦のニオイが濃厚ですね。禁酒法、赤狩りなど、キリスト教国家の空気は面白いものがあり、時に自由を掲げながら他の自由を抑圧する超神権国家に豹変する傾向があります。

 イエスはユダヤ教と全く違う新宗教を始めたとの意識はなく、それへの宗教改革という自負があったと私は見ています。だからこそ、旧約も聖典としているし、ムハンマドも旧約、新約聖書を“啓典”としてイスラムを創設した。
 キリスト教の教義に原罪がありますね。同じ一神教でもユダヤ、イスラムにはこれは殆ど見られない(※それがある宗派もあるかも)。私は罪の意識を植え付け、懺悔に持ち込むシステムには全く共感しませんし、イスラムでは何故これが生まれなかったのか、比較すると面白いものがある。イスラムの場合は免罪符ではなく、ザカート(喜捨)がそれに近いかもしれませんが、これは信者の義務でもあるから、やはりカトリックとは違うような。

 ただ、罪を告白することにより罪が許され、免罪符で罪が贖われるのは、聖職者絶対主義に陥ってしまう危険が発生します。海外生活の長かったあるブロガー氏は欧米人の怖いところは、異教徒に何か犯罪行為をしても、懺悔告解で帳消しになると考えている節があると言っていました。そして金になる免罪符はどうしても宗教人の堕落を引起したのは確かです。
 イスラムが聖職者の職業を認めないのは、キリスト教の特権階級と化した聖職者への反動もあります。これも全くの建前で、現代キリスト教圏より聖職者が強大な権力を持っているのがイスラム社会というのも皮肉ですが。

 なお、私が引用したヨハネ福音書3-18は「戒律放棄」のためではなく、「信心中心」の言葉として引用しました。これは他の宗教も同じですが、宗教とはまず信じることが第一歩。十戒の第一条「あなたは私以外の何者をも神としてはならない」こそ、唯一絶対神への帰依を説いています。それがなければ信者ではなくなりますから。やはり、あなたはクリスチャンですね?

  • 2009/07/26(日) 16:48:24 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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日本古典文芸要約全集

 歴史教育の問題は難しいですね。前中教審会長の山崎正和氏は、初中等学校では歴史的事実認識と事実評価を行う「歴史教育」は廃止すべきだといっていますね。その代わり、歴史記述の古典的名作を教室で読ませ、同時に後世それがどのように批判されたかを生徒に教えることで、認識された事実ではなく、認識の方法の面白さを教えるべきだ、そして、その対象となる時代や歴史事実の選定は教師に任せ、国家はただ、それについて意見の異なる複数の論考を教材に選ぶことを義務づけておけばよい、といっています。
 谷沢永一氏は、そのためには、読者の要望さえあれば、標記のような「日本古典文芸要約全集」「世界古典文芸要約全集」も実現可能だといっています(これほんとに氏にやってもらいたいです)。旧約聖書の中の、ものすごい「古典文芸」作品群を見ていると、日本にもそのようなものがあるといいなあ、とつくづく思います。歴史教育を政治問題の桎梏から解き放ち、その本来の面白さを回復すと同時に、山本七平が指摘する様な歴史教科書の問題点(「知らざるに劣る人間」の大量生産)も解消することができますから。
 なお、私の教育改革に関する議論については、私HP「竹林の国から」の教育改革のページを参考にして下さい。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/frame_kaikaku.html

  • 2009/07/25(土) 12:22:53 |
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mugiさんへ

mugiさんへ ご意見ありがとうございます。以下私が理解している範囲でお答えします。

mugi サムエル記はユダヤ教の狭量さを否定する内容というより、見事に読ませる人間ドラマだと私は思います。ダビデも“聖絶”とは無縁ではなかったけど、教訓は如何でしょうか。

tiku ”教訓”を使おうかどうしようか、と一瞬迷いましたが、例えば、イスラエルの民がサムエルに対して”王”を求めたのに対して、次のように警告したことなど、立派な”権力の怖さ”について教訓だと思いましたので採用しました。

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

>>日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的世界家族思想」

magi 私はこれには疑問に感じます。明治以降はこれらが伝統となりましたが、それ以前に果たしてこのような考え方はあったでしょうか?国家神道も一神教の影響が結構あると私は考えています。あと「信心中心」も、キリスト教にも似たような面はあるのではないでしょうか?特にカトリックの懺悔すれば許される、免罪符で罪はチャラなど、救済の即席化は巧みであり、これぞ世界宗教には効果的。

-御子(イエス)を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既に裁かれている(ヨハネの福音書3-18)

tiku 「一君万民的平等思想」は明治になって急に出来たものではありません。それは徳川幕府が体制思想として輸入した中国朱子学の政権の正統論と、日本の記紀神話を掘り起こした国学の天皇の萬世一系論が習合したことによって、天皇こそ日本の正統政権であり幕府はその非合法簒奪政権だ、とする考えが生まれ、それが幕末の尊皇討幕運動に発展したのです。
 その時の、天皇を中心とする国家イメージが、ひとりの天皇の下に万民が暮らす平等社会=「一君万民」天皇親政の国体イメージとなったのです。「八紘一宇」はそのイメージを世界国家に拡大したものです。国家神道は平田篤胤が本家で、これは国学の多神教「国生み神話」に、キリスト教的な一神教「創造神話」を組み込んだもの、つまり国学とキリスト教が習合したもの、と見ることができます。(これが昭和の超国家主義の母体となった)

 キリスト教の「信仰のみ」という考え方は、親鸞のいう「信心中心」=「戒律放棄」とはまったく異なるということは『日本人とユダヤ人』でも指摘され、聖書学者の関根正雄もこうした日本人のキリスト教信仰の機微に触れた問題指摘に驚愕すると共に高く評価していました。キリスト教が旧約を聖書に加えている理由もそこにあるのではないでしょうか。

 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(マタイ5:17)

 免罪符の問題は、告白(懺悔告解)は信徒の権利で、過去に犯した罪を告白することにより罪が許され天国に行ける、という考え方が基本にあるのです。そのために、お金を出してでも免罪符を買って「罪の告白」をしたのです。日本人で、自分の金を出してまで罪の告白をする人がいるでしょうか。カトリックの懺悔を笑うのではなく、そういう「罪の許しの思想」があるということに想像を及ぼすべきです。遠藤周作(カトリック)もこの懺悔告解の「救い」について語っていましたね。(以上は山本七平より学んだものです。)
  
 最後に引用されたヨハネ福音書の一節は必ずしも「戒律放棄」を意味する言葉ではないように思われますが。


  • 2009/07/25(土) 03:16:28 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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宗教の理解

>一知半解さん

 同じ宗教信者同士でも解釈や理解は様々分かれていますからね。一部にせよ、超保守派ユダヤ教徒の中にはイスラエル国家そのものを認めず、国旗を焼く者さえいます。政教一体の律法に反する民主主義国家だから、という理由で。
 まして、異教徒が他宗教を理解するのはさらに難しいと思います。理解の前に認識が不可欠ですが、それすらも容易ではないでしょう。基本的に一神教側が他宗教、ことに多神教を理解するという姿勢はまずないですよ。ヒンドゥー教、他国の仏教にしたところで己の宗教が絶対、異教を理解しようといるのは至って少ない。やけに理解への強迫観念に憑かれている日本の方がむしろおかしいのでは?『日本人とユダヤ人』の最終章にも異民族は簡単に理解し合えないとありましたが、現代でもこのようなことを言う文化人は少ないですよね。

 欧米人もそうですが、ムスリムも多神教徒などバカにしきってますよ。以前、在日パキスタン人の夫を持つ女性からコメントがありましたが、金目当てで滞在、周囲の多神教徒の日本人を見下している者もいるとか。日本人改宗者もその傾向もありますね。
 あと、無神論者は実は欧米でも軽蔑されがちなのを、何故か我国の識者は言いたがりませんが、イスラム圏ならば人間扱いされなくなる可能性もあるそうです。欧州人からすれば、聖書にアブラハムの子孫とあるからアラブ人は黄色人種とは違うと考えていると思います。ただ、アブラハムとエジプト人奴隷との間に生まれた子の子孫となっているので、蔑視もあるはず。

「聖書の間違い」という面白いサイトがありますよ。気が向いたらご覧下さい。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html

特にお勧めは宗教殺人についての文書ですが、絶句させられます。
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kami.htm
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html


>tikurinさん

>>例えばサムエル記なら、そこにおけるサウル、ヨナタン、ダビデの物語が、どれだけ人間的なリアリズムと教訓に満ちたものであるか…

 聖書が第一級の宗教文学なのは私も認めます。コーランは退屈だし、他の教典も同じ文句の繰り返しが続いたりで聖書のような面白味はあまりありません。私個人は「伝道の書(コヘレトの言葉)」や「雅歌」が面白いと思いますし、「日本人とユダヤ人」の末尾で後者が引用されてましたね。
 サムエル記はユダヤ教の狭量さを否定する内容というより、見事に読ませる人間ドラマだと私は思います。ダビデも“聖絶”とは無縁ではなかったけど、教訓は如何でしょうか。

>>日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的世界家族思想」

 私はこれには疑問に感じます。明治以降はこれらが伝統となりましたが、それ以前に果たしてこのような考え方はあったでしょうか?国家神道も一神教の影響が結構あると私は考えています。あと「信心中心」も、キリスト教にも似たような面はあるのではないでしょうか?特にカトリックの懺悔すれば許される、免罪符で罪はチャラなど、救済の即席化は巧みであり、これぞ世界宗教には効果的。
-御子(イエス)を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既に裁かれている(ヨハネの福音書3-18)

  • 2009/07/24(金) 22:41:40 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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tikurinさんへ

tikurinさん、いつも為になるコメントをありがとうございます。

>私は教科書の無償は「教育の無料化」という観点より「教科書の内容統制」の面のほうが強いと思っています。

なるほど。内容統制のための無料化ですか。それは思いつかなかった。
確かにそういう面があるのかもしれません。
教科書を有償にして、選ばせるのは小学生程度なら問題なさそうですが、中高校生ともなると、イデオロギーがらみでひと悶着ありそうですね。ただ、有償にすれば、親の関心やチェックが強くなり、教科書の内容も良くなると思います。

>これに文科省は徹底して反対しているのです。これも政治の官僚統制の一端です。

確かに役人は権限を失うことには抵抗しますが、この問題でも、そのことが悪影響を及ぼしているのでしょうか?
それを打破するのが、政治家の役割なんですけどねぇ。

>あてがいぶちの教育サービスでなく、もっと学校設置基準を緩和して、多くの人が学校経営に参加し競い合えるような教育システムにするべきだ

仰ることはわかりますが、これを実行するのは難しそうですね。
とにかく先生たちは、「競争」というものに拒否反応を示しますから。

学力テストの公開を嫌がるのは、子供たちを競争させたくないというのはタテマエで、本音は自分達の仕事ぶりがあからさまになるのが嫌だからでしょう。

これをどう解決していけばよいのか?
自分は具体案はあまり思いつかないのですが(汗)、tikurinさんのご提案(国家試験化)なども一案ですね。

ただ、義務教育というものに、「経営」という概念を導入するのは、かなり抵抗があるような気がするんですよね。
それが必要だとは思うものの…。

学力はともかく、義務教育では、最低、社会規範や日本の歴史などをきっちり教えて欲しいです。
自らがどういう社会に属しているのかを知らない日本人があまりにも多すぎるような気がしてなりません。

私自身、教えられた記憶も無く、山本七平の本などで初めて知ったくらいですから。

あとはやはり教師の人材だと思います。
何度かこのブログでも紹介しているのですが、カムイスペースワークスブログの植松社長さんや永田教授のような教育者が、たくさんいてくれればなぁ…と思います。

tikurinさん、もしまだこのブログ拝見されてなかったら是非どうぞ。
お勧めの記事のリンク↓貼っておきます。

・6月18日 ユーラシア大陸の上で(植松)
http://myhome.cururu.jp/camuispaceworks/blog/article/81002104648

・子供と人権(永田)
http://myhome.cururu.jp/camuispaceworks/blog/article/81001600510

  • 2009/07/23(木) 21:46:07 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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kuronekoさんへ

kuronekoさん、コメントありがとうございます。
今回の件につきましては、岡目八目のアドバイスありがとうございました。
当事者というものは、第三者から指摘されないとなかなか気付かないものですね。
以後、気をつけたいと思ってます。

>山本夏彦さんとの対談などは面白かった。

ほ~、そうですか。それは未読なので一度読んでみたいですね。単行本で出ているのかな?
今度探してみます。

それはさておき、山本七平とベンダサンの関係は、いろいろと取り沙汰されていますね。
kuronekoさんのご指摘も、確かに頷けるものがあります。
まぁ、私は元来無節操なので、面白くて納得できる主張であれば誰が書いていようとあまり気にならないのですが。

  • 2009/07/23(木) 21:03:24 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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mugiさんへ

mugiさん、レスありがとうございます。返事が遅くなって申し訳ございません。

聖書のご紹介、ありがとうございます。聖書もいろいろと加筆されているでしょうから、矛盾も多そうですし、本当にイエスが言っていたのかどうか見極めが難しそうですね。ご教授ありがとうございました。

>結局は一神教徒の“啓典の民”なので、多神教徒などよりも信頼している。

なるほど、いがみ合っていても、多神教の人間よりは信頼できるというのは、仰せの通りかも知れませんね。
多神教も馬鹿にされそうですが、無神論者などはもっとも軽蔑されてしまうかも。

考えてみれば、日本への留学が少ないのも、mugiさんが指摘するとおりでしょう。
指摘されてみれば、なるほど納得なのですが、残念ながら自分で思いつかなかったです。

>中東のイスラム圏で、日本人を同じアジア人と見ている者など殆どおりません。

ワールドカップアジア予選で、イエメンとかサウジとか同じアジア枠ですけれど、日本人から見ても彼らは同じアジア人とはとても思えませんよね。
でも、ヨーロッパ人からみれば、同じようなものなんでしょうかねぇ。

  • 2009/07/23(木) 20:50:12 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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無知の知

 一知半解さん、いつも解りやすい問題提起ありがとうございます。

「イエスは、ユダヤ教のせまい考え方を乗りこえ、身分や民族の差別なく、信じる者はだれでも救われるとする教えを説いた。これがキリスト教である」。

 山本七平がこの中学教科書のキリスト教の説明に「驚いて跳びあがりそうになった」というのは、こうした考え方の背後に、日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的世界家族思想」を見たからではないかと思います。「信じるものはだれでも救われる」という言葉も、「信心中心」の親鸞の思想に似ていますよね。

 つまり、山本は、そのような手っ取い理解の仕方で解ったつもりになるのでなくて、聖書(旧約・新約という分け方はキリスト教のもので、ユダヤ教は前者の部分を律法、預言・諸書に分け聖典としている)の本文を少しでも読んで欲しいといっているのです。(例えばサムエル記なら、そこにおけるサウル、ヨナタン、ダビデの物語が、どれだけ人間的なリアリズムと教訓に満ちたものであるか、これだけでも、とても「ユダヤ教のせまい考え方」とは言えなくなります)

要するに、早わかりするな、自分の無知を知る人間になれ、と言っているのです。

 それから、「教育無料化」についてですが、義務教育は授業料と教科書は無償になっていますが、私は教科書の無償は「教育の無料化」という観点より「教科書の内容統制」の面のほうが強いと思っています。というのも教科書の金額よりはるかに高い補助教材費を支払わされているのですから。だから私は、教科書(検定制度は必要)は有償にして、どんな教科書を採用するかは学校経営の責任とすべきだと思っています。経済的に困っている家庭に対しては、就学援助制度で対応すればいいのです。もちろん、そのためには学校経営の責任主体を確立することが必要ですが、これに文科省は徹底して反対しているのです。これも政治の官僚統制の一端です。

 山本七平が教育制度の見直しについて言及しているのは、このことに関わっているのです。塾の勉強のほうが面白く為になった、という経験は多くの人がしていますが、要するに、あてがいぶちの教育サービスでなく、もっと学校設置基準を緩和して、多くの人が学校経営に参加し競い合えるような教育システムにするべきだ、といっているのです。現在、教員免許は更新制になりましたが、これも効果の程は怪しく、私はそれより教員免許を国家試験とし、その資格基準を明確にすることのほうがはるかに効果的だと思います。その後の教員管理は各学校の経営責任の問題ですから。

  • 2009/07/22(水) 15:53:34 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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TBのお礼

トラックバック、ありがとうございました。
山本七平さんの本は、いくつかは読んだことがあります。山本夏彦さんとの対談などは面白かった。

山本氏は日本人とユダヤ人」という本の筆者と推定されているけど、そりゃ違うだろうというのが、わたしの意見です。山本七平氏って東京生まれの人でしょ。江戸時代の昔から、江戸の町民は水屋から水を買っていたわけで、「日本人は水と安全はタダだと思っている」なんて与太話を、江戸・東京生まれの教養人が言うわけないと思うのですね。

地方だって、水争いで激しく隣村と対決する例はいくらもあるから、イザヤ・ベンダサンなる人物は日本史に無知だという第一印象が抜けません。

  • 2009/07/22(水) 12:40:41 |
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  • kuroneko #ABTeZo0E
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矛盾

 聖書にも様々矛盾はありますし、イエスの生きた時代は奴隷制や人種、女性差別は当り前でした。山本が矛盾を感じていたイエスの言葉は不明ですが、以下がそれに近いように思えます。

異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい…(マタイによる福音書10章5-6節)

わたし(イエス)が来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのだ。敵対させるために来たのだ(マタイによる福音書10章34-35節)。コワ~

-奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります…(テトスへの手紙2章9-10節 ※ただ、イエスでなくパウロの言葉)

 イスラム圏で日本留学が振るわないのは、元から接触がないし、近代の支配時代から上層階級が欧米留学し、それで欧米の要人との関係を築き、ステータスとする習慣が続いているからです(これはインドも同じ)。さらにムスリムはユダヤ、キリスト教を敵視しても、結局は一神教徒の“啓典の民”なので、多神教徒などよりも信頼している。イスラムなど、ユダヤ、キリスト教がなければ誕生しない宗教ですし、多神教徒との激しい戦いで生まれたので、コーランには多神教への憎悪と敵意に満ちた文句がありますよ。

 中東のイスラム圏で、日本人を同じアジア人と見ている者など殆どおりません。彼らは人種的に西欧人に近いと考えており、“アジア人”と呼ばれるのをむしろ嫌がっています。同じアジア人との馬鹿げたファンタジーを煽ったのこそ、左翼“親アラブ”連中であり、彼らにこのような事実を指摘すれば、屈米スパイ扱いとなりますね。

  • 2009/07/20(月) 17:04:41 |
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仮)山田二郎さんへ

仮)山田二郎さん、コメントありがとうございます。

>なんせ小中校の公立教師が、自分の子には私立を選ばせているようでは…

ご指摘の状況が、公教育のひどさを物語ってますよね。

思うのですが、やはり無料ということで、責任が曖昧になっていることも、こうした惨状を招いているのではないでしょうか?

公立の教師は、頑張ろうが頑張るまいが給料を貰えるし、親も無料では仕方ないと無関心になる。税金で賄うとどうしても責任の所在が曖昧になる。

山田さんは、無料化推進論者ということですが、私はこの点がどうも気になるので「無料化」にはいまいち賛成できないですねぇ。

義務教育は、無料化維持で内容を改善し、高等教育は、適正な対価の元、学ぶ機会を提供するというのがやはりいいような気がします。
(もっとも、内容の改善とか、その適正な対価とは何ぞや、とか、そういう環境をどうやって達成するかという難しい問題がありますけどね。)

  • 2009/07/20(月) 00:58:30 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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mugiさんへ

mugiさん、コメントありがとうございます。

引用していただいた旧約聖書の記述は確かに凄いですね。こういうところは「せまい」と表現されてもある意味仕方のないような気もします。
(この記述については山本七平も別コラムで言及していたようなので、いずれご紹介したいなと思ってます。)

新約聖書の記述を読むと、仰るように世界宗教になるのも理解できます。
ただ、山本七平が指摘した「明確に矛盾するイエスの言葉」と言うのが、一体何を指しているのでしょうかね?私は聖書に疎いので、わからないのがちょっと残念です。

>イスラム圏の聖職者や日本の左翼も似たようなもので、口先では反米を言いつつ、子弟は欧米に留学させている。

そうなんですよね。
結局、なんだかんだ言っても欧米の教育の質が高いのは否定できない。

日本が留学先の対象にならないのは、質が悪いのか?それとも、他の要因なのか?何ともわかりませんが、少なくとも「質」がよいとは言えなさそうです。

しかし、mugiさんの今回のご指摘、相変わらず鋭いですね。
最後のオチの鋭さには感心してしまいました。

  • 2009/07/20(月) 00:43:02 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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一応無料化推進論者なんですが

現在の崩壊気味の公教育は問題外ですね。
なんせ小中校の公立教師が、自分の子には私立を選ばせているようでは…

まあ、自分の思っているような教育の無料化と言うのは、子供の教育無料化だけではなく、誰でも学びたい時には、いつでも無料で学べるようになるべきって物なんですけどね。(当然、全体での税金のアップは当然だと考えてますが)

  • 2009/07/19(日) 22:11:20 |
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  • 仮)山田二郎 #-
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せまい考え方

 山本は「ユダヤ教のせまい考え方」の文句に憤慨しているようですが、旧約聖書を見れば、やはりユダヤ人中心の記述なのは否めません。唯一絶対神もユダヤ民族のことばかり考えており(神の長子なので)、反抗すればこう命じる。

万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、私は罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない…(サムエル記上15:2-3)

 一方、新約聖書にはこのような言葉がある。やはり世界宗教となったのは当然です。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆イエス・キリストにおいて一つだからです…(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)

 まるで山本はクリスチャンらしくないですね(笑)。一部にせよ、クリスチャンにはユダヤ教に改宗する人もいるそうですよ。逆にユダヤ教徒が改宗するのはキリスト、イスラム教が殆ど。

「タダくらい怖いものはない」と昔から言いますからね。共産圏での無料教育もどのようなものだったのか、書くまでもないでしょう。共産党の高級幹部も影で子弟をこっそり欧米で学ばせたりしていたから、実態が知れる。イスラム圏の聖職者や日本の左翼も似たようなもので、口先では反米を言いつつ、子弟は欧米に留学させている。
「中卒じゃ学歴社会の日本では幸せになれないから可哀想」など、傲慢無礼もいいところ。大学院を出ても使い物にならない落伍者もいるし、高校中退でも家庭を築き、幸福に暮らしている人もいます。低学歴者に対する差別意識がむき出しであり、ここに左派の本性が見える。共産圏こそ凄まじい格差社会だったことを無視したいのでしょうねぇ。もっとも、共産圏でこの手の知識人は労働矯正収容所にぶち込まれるでしょうけど。

  • 2009/07/19(日) 16:45:33 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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sirokazeさん、通りすがり-0さんへ

>sirokazeさん

コメントありがとうございます。

>どこかで誰かが負担しなければならないという発想がまるで抜けている。

そのとおり抜けてますね。
それに、思うのですが、無料のモノに関心を抱く人がいるでしょうか?

有料だからこそ、その内容がお金を払う価値があるかどうかしっかり見極めるのが人間のサガであると考えるならば、無料化したならばそうしたチェックが甘くなるのは避けられない。所詮無料だから仕方ない…とか、言われてオシマイでしょう。

本来の教育の目的は、学位を与えることじゃない。人間を育てることのはずです。
どうも「無料化」の議論には、そうした視点が欠けているようで、好きになれませんね。

>通りすがり-0さん

コメントありがとうございます。
ご自身の体験談、興味深く拝読しました。
ほんと「タダより高いものはない」というのは、この問題にも当てはまりますね。

>今はアメリカにいて、自然科学系に関しては日本で受けた教育レベルの高さに、『日本って、すごく教育レベルの高い国なんだ』と改めて感心しているという

確かに日本の教育にもレベルが高い分野があるのだろうと思いますが、実際のところ、どうなんでしょうね。
直接関係ありませんが、ふと過去にupした記事↓を連想してしまいました。

・物量ではなく思想の違いで敗れた日本
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-196.html

  • 2009/07/18(土) 23:04:46 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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今日の記事は自分の育った環境は、記事の内容のような経験だったなと思います。

今から20数年前までは、国立大学の授業料は、それこそタダのように安かった時期がありました。そこからまた6-7年遡りますが、私は中学校受験に失敗し、学校教育は全て公立で済ますことになりました。私が小学生であったころには、既に首都圏の公立学校の内容はオソマツで、私の親は子供を大学まで行かそうと思うのなら『塾』に行かさなくてはならないという考えでした。そこで私は小学校の4-5年生ぐらいから、結局、中学、高校、1年間の浪人生活を含め、大学入学まで記事で述べられているフルコースを体験するハメになった訳です。私には姉がおり、こちらは中高一貫の私立学校に受かり、中学・高校の間、塾に通う必要はほとんどなく大学まで行きました。反対に、中学高校と塾や予備校にでも行かせなければ大学までは到底進めまいという私に対しては、「全く、タダ(公立学校の学費)ほど高いものはない(塾代は私立の中高一貫校の授業料よりよほど高かった)。」と、今でも母が度々私にこぼしたことを良く覚えています。私は家計をひっ迫していたのでしょう。学校というのは私にとっては勉強する所ではなく、友達付き合いをするところ、社交のためにのみ存在し、それとは切り離されて“塾”が知識を学ぶ場でした。

さて、地方の国立大学に入ってみると、地方の学生というのは、正規の学校教育が大学入学まで面倒をみてくれたようで、その勤勉な学校での生活習慣は大学でも継続し、“学校で勉強した体験のない”私は、大学で学生として期待される行動とは何なのかわからず浮いてしまい、落ちこぼれでした。

正直言うと、塾での勉強のほうが、大学も含めた正規の“勉強”よりよほど楽しかったです。大学は理系だったのですが、予備校(駿台)の授業のほうが受験勉強ということを超えて、よほど科学の本質、その発展の歴史に及ぶまで素晴らしい内容だったので、大学の教養課程は本当にタイクツで苦痛でした。これは人文系の科目についても同様でした。大学には何だか最高学府としての知的教育に対する憧れのようなものを抱いていたので、大変がっかりしました。単に地方大学だったからかもしれませんが。ところが今はアメリカにいて、自然科学系に関しては日本で受けた教育レベルの高さに、『日本って、すごく教育レベルの高い国なんだ』と改めて感心しているという、全く支離滅裂な感慨を抱いています。

  • 2009/07/18(土) 13:04:30 |
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  • 通りすがり-0 #qMROBYQM
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気に食わない意見だからって削除するなよな

 すでに削除ってるあたりで、卑怯じゃねえかと。俺は思う次第。
 apeman先生くらいに清清しく、スルーしたり逃げたりしないだけ、さらに最低。
 なんだ、宣言すればいいってか?
 そうじゃないだろ?
 って思うんだがね。
 さてさて。オレッチも教育無料化には反対でね。
 それは元ね、塾教師だから分かるんだよな。 教師だって、生活しなければいけないんでね。生徒数=売上なんだわな。
 慈善事業でやっているわけじゃない。
 良い教育をするための対価をもらうのは悪いことじゃないし、これは当たり前のこと。
 知恵というのは、無料では手に入らないのだよと、きちんと分からないとね。
 そも孔子にしろ、キリストにしろ、布教(教育)して、信者からお布施(対価)をもらう。これは無料ではできないことが、昔からわかっていることだからな。
 どこかで誰かが負担しなければならないという発想がまるで抜けている。
 だから、共産党でさえ言わないよ。
 基本、「教育無料化」とか「福祉行政絶対化」を言っている連中に限って、まず自分の給料や小遣いの中で6割を赤十字などに寄付してずっと生活しているることなどやってない。
 やってないにも関わらず、誰かに負担を押し付けて、自分はいいことを言っているつもりでいる。
 それは偽善以外のなにもんでもないぜ。

 それとある程度の豊かさはやはり人間のモチベーションを上げるのに必要なんだよ。だから、無料って言葉で好い気になっているのは、俺は好かんよ。

  • 2009/07/17(金) 23:57:57 |
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  • sirokaze #-
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BLOG-BLUESさんへ

BLOG-BLUESさん、コメントどうもです。
トラバを受け付けてくれたことについては、感謝いたします。少なくともトラバを受け付けるということは、異論を認めるという態度と考えていますのでありがたく思ってます。(村野瀬玲奈の秘書課広報室などは、それすら出来ていませんので)

ただ、貴方が削除した私のコメントは、違う(携帯からの)IPアドレスから投稿したものです。
パソコンのIPアドレスは、その時点で禁止されていて投稿不可になっていたので、コメ削除だけでなくアク禁(スパム扱い)と判断させていただきました。

私も、kuronekoさんから指摘を受けて、コメントがちょっと断定的だったと反省はしておりますが、そうだとしても、貴方の措置に納得はしておりません。

コメ削除は仕方ないと思うものの、アク禁だけはいかがなものか?
まあ、それも最終的にはブログ主の裁量なので、押し付ける気はありませんけどね。

  • 2009/07/17(金) 22:40:39 |
  • URL |
  • 一知半解 #dKPqC7Tc
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コメントが届いたので予告通り削除しました

こんにちは。TB、どうもです。「次からは、ソッコー削除する」と予告し、あなたから、コメントが送られてきたので、その通り削除しました。その旨のコメント(2009-07-07 22:23)もしておりますぞ。おかしいじゃないですか。僕を貶めようという薄汚い魂胆なら、バレバレですぞ。僕は、嘘と卑怯は大っ嫌いと広言しております。それに背いたら、信頼を一気に失う。当たり前だのクラッカー。ただ、僕が好色であるとどこから嗅ぎ付けたのか、エロスパムがドッピュンと来るので、片端から禁止ワードを設定しているうちに、僕も「BLOG BLUES」に投稿できないことが、ままあります。このことも再三申し上げ、読者は周知しています。その場合は、システムの不具合だと思って、ご容赦を。

  • 2009/07/17(金) 17:21:28 |
  • URL |
  • BLOG BLUES #-
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Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

http://yamamoto7hei.blog.fc2.com/

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