「常識」の落とし穴 (文春文庫)
(1994/07)
山本 七平
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◆「人種的憎悪」について
何気なくぱらぱらと『ニューズウィーク』誌を見ていたら、ジョン・ダワーの『非情な戦い――太平洋戦争における人種と勢力』の紹介が目についた。
理由は、戦後にフィリピンの収容所で目にした、醜悪に戯画化された日本兵のマンガが冒頭に掲げられていたからである。
われわれの世代はこのマンガだけで、その中で日本人がどのように描写されているか、ある程度は想像がつく。
もちろんダワーが、それを、戦争という異常な状態における人種的偏見として紹介しているにしても――。
従って紹介の内容のうち、「出っ歯で、近視で、チビザル」の「ジャップ」は人間以下だと言ったようなものには少しも驚きを感じなかったし、次の紹介文ぐらいの程度なら、不思議とも思わない。
「人類学者は、日本人は幼くて、野蛮で半ば狂っていて、子どものころの排泄のしつけが原因で大人に十分なりきれず、彼らが何かにつけ劣等意識をもつのも当然、と解説した」と。
マッカーサーの日本人十二歳説はおそらく、こういった”人類学者”の影響であり、彼自身は、本当にそう信じていたのであろう。
だが、次の紹介文には、自己の経験から戦時中のことにはあまり驚かない私も、少々驚いた。
「……あと八センチ背が高かったら、日本人は真珠湾を攻撃しなかったはず、という報告書があるかと思えば『現代に生き残った一種の奇形』と言ってのける雑誌もあった。
スミソニアン研究所のある科学者はルーズベルト大統領に、『日本人の頭蓋骨はわれわれよりおよそ二千年発達が遅れている』と報告している。
この生物学的遅れを取り返すためには、戦争が終わったら日本人は他の人種と結婚すればよい、とルーズベルトは言った」
日本にも確かに「鬼畜米英」という言葉はあった。
しかしこれはいわば一種の誇大表現であることを、この言葉を口にする者も聞く者も暗黙のうちに了解しており、米英人を本当に、人間でない「鬼」と「畜生」であると思っている日本人はいなかった。
そしておそらく当時の日本のどの記録を探しても「アメリカ人は生物学的に日本人より二千年遅れている」といった”人類学者”はいなかったであろうし、「幼くて、野蛮で半ば狂っている」といった”人類学者”もいなかったであろう。
いわば戦時中の日本人の反米的表現は、アメリカ人のように、はっきりした具体性をもち、一見、科学的ないし学問的な裏づけをもつようなものではなかったといえる。
もちろん日本側にも米英への憎悪はあり、これは戦争にはつきものだといえるが、日本人にあるのは「敵への憎悪」であっても「人種的憎悪」ではなかったといえる。
このことは、自らが人種的憎悪の対象であったヘブル大学の日本学教授ペン・アミ・シロニー博士も別の表現で記している。
いわば同じドイツ国民でもユダヤ人であれば抹殺したのは、敵への憎悪というより人種的憎悪というべきであろう。
だがアメリカ人にも同じ傾向があったことは、この本の紹介をみるとわかる。
コンセントレーション・キャンプに入れられた日系人を「どこで卵がかえろうが、毒蛇は毒蛇」とロサンゼルス・タイムズが記したと。
以上のように見ていくと、「敵への憎悪」と「人種的憎悪」とは、はっきり分けて考えるべき問題である。
もちろん憎悪とは一種の感情であるから、その感情を抱きえないものには理解できない。
そして日本人には、「敵への憎悪」は理解できても、「人種的憎悪」は本当には理解できないものであろう。
これはおそらく、われわれがその歴史において、多人種国家を経験したこともなく、例外があるとはいえ、少数民族を抱え込むことも、少数民族として抱え込まれたこともないからであろうが、人類の世界に「人種的憎悪」というものがあることは、残念なことだが、認めざるをえまい。
戦争が終われば敵への憎悪はやがて消える。
しかし人種的憎悪は戦争・平和に関係なく存在する。
ただ、人種的憎悪はもちろんのこと人種的偏見も表面的には「悪」と規定され、それゆえに世界は南アフリカ政府を非難し制裁しているわけだが、しかし非難している側にも同じものが潜在し、それが別の表現、いわば「正義」や「公正」の仮面をかぶって作用して来ないという保証はない。
たとえば東京裁判の「文明に対する罪」や「人道に対する罪」は、日本人は「野蛮で残酷、無慈悲で狂信的」だから原爆を落とすのを当然としたトルーマンの日記と、前に引用した”人類学者”や、”生物学者”の意見と対応してみるとその真意がよくわかる。
そして戦後、日本人の中にさえこれを継承し、自虐的な自己憎悪、すなわち日本人による日本民族への憎悪が一種の「正義」としてまかり通ってきたこともまた事実である。
こうなると「いわんや、他国に於いてをや」という気もする。
この問題は、日本側でも深く研究すべき問題であろう。
【引用元:「常識」の落とし穴/国際社会を読む/P26~】
確かに人種的憎悪というものは、日本人にはあまり馴染みがないですね。
でも、世界には厳然として存在している。
ある意味、このことについて考えるほうが、さきの大戦を反省することにつながるような気がするのですが…。
例えば、広島への原爆投下の際の爆撃機の行動などを見ると、その背景には、人種的憎悪があるような気がしてなりません。
【参考HP↓】
・『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』──「反転爆撃」説の紹介
日本人の「話せばわかる」という通念は、「相手も同じ人間だ」という前提があるからなのでしょうが、そうした「前提」が、世界では果たして当然の「前提」たりうるであろうか?
このコラムを読むと非常に疑問に思います。
ここからは余談になりますが、「日本人の中にさえこれを継承し、自虐的な自己憎悪、すなわち日本人による日本民族への憎悪が一種の「正義」としてまかり通ってきた」という山本七平の指摘を読むと、思い出しますね。
「Apes! Not Monkeys! はてな別館」のApeman先生や、「村野瀬玲奈の秘書課広報室」の村野瀬女史のことを。
彼らは、正義を振り回して日本を糾弾しているつもりでしょうが、ハタから見れば、「糾弾する自分は正しい」と吹聴しているだけなんですよね。
そういう彼らの視点というものは、なにやら欧米人が日本人を差別するのと似ているような気がします。
彼らこそ、トーキング・マイノリティさんの秀逸な記事「バナナとレモン」に出てくる「肌は黄色くても中身は白いバナナ」なのではないでしょうか。
彼らがそうなってしまったのは、もともと「出羽の守」的要素を多分にもっていたこともあるのでしょうが、戦後教育もその一因ではないかと…。
自らの属する社会の歴史を自らの視点で把握できず、”欧米的視点”からしか判断できないというのも、彼らが自らのアイデンティティを喪失した”根無し草”であるからではないでしょうか。
彼らがいくら”人道的な言辞”を振りまいても、所詮は「バナナ」ですから、普通の日本人からは、どんどん相手にされなくなるとは思いますが…。
なんだかんだ言って、彼らの悪口になってしまった…orz
あまり悪口は言いたくありませんが、やっぱり彼らに対するどうしようもない嫌悪感というものが私にはあって、書かずにはいられませんね。
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