一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その3】

前回前々回のつづき。
今回は、戦後育った世代が、どのような思考図式を叩き込まれたのか、そしてそれがどのような結果をもたらしかねないか、について話が展開していきます。

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(1986/12)
山本 七平

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前回のつづき)

「やがてまた、マスコミ指導の”国民精神総動員”が来るだろうなあ」とそのときは半ば冗談のように考えていたが、それがほんとうにやってきた――否、少なくともやってきたように見えた。

見えたというのは、確かにリーダーは、上記の二元論的確信論者のような発想でやっていたし、マスコミの戦意高揚記事も同じ発想だったが、参加している戦後生まれの若い人たちの発想は、これとは別だったと思われるからである。

これも正確な日時は忘れたが、新宿でべ平連のデモを見ていたとき、明らかに戦後生まれと思われる一団から、ごく自然発生的に「アメリカは弱い者いじめをヤメロー!」という声があがったからである。

「なるほど、同じようにデモをしていても、戦後生まれの人たちは、戦時中に幼少年が叩き込まれたような思考図式はもう持っていないのだな」と私は思った。

というのは「弱い者いじめをヤメローッ」という声は戦場にはない。

玉砕直前の兵士ですら、この声を敵に対してあげることはない。
否それどころか、彼らは、十数倍の敵を引き受けて、死を覚悟してそこに踏みとどまっている強者であっても、弱者ではない

そして彼が強者でありうるのは、前記の二元論の確信論者として、自己が最後の勝利者の側にいることを信じているからである。

そしてそれに連帯する”国民精神総動員”はこれと同じ精神状態を要請しているから、たとえB29が爆弾の雨を降らせても、また徹底的北爆を行っても、この声は出てこない。

したがってそれに連帯するはずの者が、連帯している対象を「弱い者」と規定することはあり得ない。

したがってこの叫びをあげた者の思考図式はやはり戦後平和時代のものであって、戦時下に叩き込まれた思考図式ではないのである。

もちろん指導者の意識は別であったろう。

北ベトナムパリ協定を無視してサイゴンに突入すれば、それは「歴史の流れ」であり、最初に記した二元論的図式において「歴史の側」に立つと称した人びとには予定の成就だから、双手をあげて歓迎して当然である。

ただ私は当時、表面には表われないが、あの「弱い者いじめをヤメローッ」と叫んでいた青年たちの内心の反応はどうであろうかと思った。

というのは強大なアメリカが北ベトナムを叩くのが弱い者いじめなら、弱体化した南ベトナムヘ協定を無視して進撃するのもまた弱い者いじめだからである。

そして前者の考え方は北ベトナムに精神的に連帯しているが、後者はけっしてそうではなく、戦時中型の二元論的図式はすでにないからである。

となると後者はこのことを、自己の内心の問題としては処理できないはずであり、それが一種の嫌悪――自己嫌悪にもなるであろうし、ベトナム嫌悪にもなるであろう――となることは当然に予測された。

というのは、この世代の受けた教育はまず平等の立場に立つ無条件の話合いであり、そのことは強者や優者の否定であって、同時に弱者の権利の保証であり、最終的にはそれによってもたらされる「結果の平等」の追究だからである。

そしてこれらの前提とされるものが「無条件の話合いに基づく合意」であることは当然で、これが否定されれば、その思考図式自体が成り立たないはずであり、これが何としても排除しなければならぬものは、「弱い者いじめ」乃至は「弱い者いじめ」と見られる現象である。

この発想からいえば「ベトナム政府はボート・ピープルと話合え」ということになるであろうし、そうならずに現出したこの状態自体に一種の嫌悪を感ずるであろう。

おそらくそれが現代の”国民感情”であり、それに対応してマスコミの論理もほぼ二元論的発想を脱却して、この考え方を正当化しているように思われるが――さて、事態の進展は、この図式の固定化より早いのではないかと思われる。

というのは、この発想は最初に記したような考え方にも発展するだけでなく、平等の立場による話合いは結果の平等を招来せず、逆に排除を生み出すからである。

これはキブツにも見られる。
すなわち成員間の完全な平等を指向すれば、能力に応じた収入の格差を認めることはできない

となるとこれは能力の平均した人間で構成されねばならず、その水準を維持しないとキブツ自体が倒産してしまう。

となるとキブツ内ではあくまでも結果の平等が保証されるかわりに、不適格者は除名されるという結果にならざるを得ない。

同じことが同期の平等を指向する官僚社会にもあるということを、堺屋太一氏から聞いたが、これらが全員の話合いで行われ、これのみが絶対とされてそれを外的に規制する法がないと――またあってもマスコミがしばしば主張するように「話合い」絶対で法を無視してよいとなると――法によって自らを守るということは不可能になるからである。

もっともキブツはそれを規約としている任意加入集団だからそれでよいかもしれぬが、日本という国はわれわれにとっては任意加入集団ではない

その状態における「話合い絶対」による「結果の平等」指向が排除の論理を生み出した場合、「話合い」絶対はたいへんな結果を生み出すであろう

それは高校生売春の比ではあるまい。
私はこの事態はすでに始まっていると思っている。

その排除は「話合い」絶対から始まっているのだから、マスコミがいかに「話合え」と強調しても解決にはならず、それは「ベトナム政府はボート・ピープルと話合え」と主張するに等しいであろう。

というのも、ここも結果の平等を目指す社会が生み出している排除だからである。

以上の問題にいかに対処するか。

それは結局は、自己がその幼時に叩き込まれた思考図式との戦いなのであって、この図式を全員が絶対化し、国民精神総動員的に対処しようとすれば、何も解決できないということである。

人が幼時の思考図式から脱却しにくいのはあたりまえのことである。

だが、それが「あたりまえ」と考えるときに、それに対処する方法が出てくるのであって、それはけっして絶対的ではないのである。

【引用元:「あたりまえ」の研究/Ⅰ指導者の条件/話合いの恐怖/P79~】


以下、私なりの解釈・感想を述べていきます。

まず、面白いとおもったのが、戦中の思考図式と、戦後のそれとが異なっていること。
ただ、戦中の思考図式(善悪二元論)というのが、戦後世代から完全に消え去っているとはとても思えないなぁ…。

戦前のように善悪二元論が「絶対視」されなくなったものの、戦後も日本人の思考図式の中には、依然として根強く生きつづけているとしか思えないのですよね。

また、「国民精神総動員」の具体例としては、別著「ある異常体験者の偏見」の中の記述を思い出したので、以下引用紹介しておきます。

(~前略)

軍部が支配したときも同じで、旧憲法でも信教の自由は一応保証されている。

しかし、宣撫班(註…マスコミのこと)は、この「不磨の大典」といわれた明治憲法の保証ですら、「国民精神総動員」の音頭をとって、実質的になくしてしまうのである。

さらにそれが一億総背番号制と合体したらどうなるか。

一億総背番号制などというと何か新しいことのように思う人がいるが、戦争中の「米穀配給通帳」はまさにそれであった。
この登録を消されたらその人間は餓死してしまう。

K市のY牧師は大詔奉戴日に式典に出て行かなかったので、配給所長である町会長に「通帳」を没収されてしまった。
そのままでは餓死する。

彼は、明治大帝の発布された憲法に信教の自由は認められており、従ってこういう処置で人を餓死さすことは「陛下の意思に反し、憲法に反する」と訴えつづけ、全新聞に投書したがもちろんだれも取り合ってくれず、完全に黙殺された

宣撫班がとりあってくれないのは当然といえば当然である。
彼は、鉄道線路の土手の野草と友人たちのわずかな小包(その人たちも飢えていた)でやっと終戦にたどりついた。
餓死一歩手前であった。

この体制は戦争が終っても形を変えて、マック制(註…マッカーサーによる日本占領統治のこと)の下で生きつづける。

当時も今も、人は最高裁が何と判決を下そうと新開が「憲法に違反し……」と書けば憲法違反だと信じているから、憲法にこうあるから、新聞判決の方がおかしいではないかといってもダメなのである。

それはちょうどY牧師が、みんな「天皇」「天皇」といいながら、その「天皇」が発布した憲法に違反しているではないかといくら言ってもだめで、餓死に追いこまれていくのと同じなのである。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の偏見/洗脳された日本原住民/P236~】


”国民精神総動員”状態が、任意加入団体ではない日本において出現したら、憲法であれ天皇であれ当たり前のように無視されてしまい、その状態に従わない「異分子」は排除されてしまう。
「法の保護」が働かない社会というのは、弱者・マイノリティにとっては非常に厳しい社会ですね。
日本社会って同質的な社会であるせいか、このような性向が非常に強いと感じます。

戦後の思考図式「話し合い絶対」と「結果の平等」が、再び「国民精神総動員」状態と結合したら、上記のような状態が再現するのでは…という山本七平の危惧を、我々は真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

そもそも、考えてみれば、ネット上での事例を考えてみても、「話し合い絶対」を唱える人たち(護憲派・平和主義者)ほど、異論者を排除する傾向が強いですよね。
こうした傾向をもつ人たちって、いざ「国民精神総動員」状態となれば、率先して協力しそうな気がして仕方がないのですが…。

それはさておき、よく言われる「同調圧力」や「KY(空気読め)」の背後には、「話し合いが絶対なんだ」とか、「結果の平等が大切なんだ」とか、「合意した事が最優先なんだ」という”意識”が作用しているのかもしれません。

最後になりますが、「幼時の思考図式から脱却しにくい」ということを「あたりまえ」だと捉える”意識”というのは本当に重要だと思います。

この意識がなければ、自分がそのような思考図式に捉われていることすら自覚できず、一生、「子供のまま」過ごすことになってしまう。

そうなると、自らの思考図式に何の疑問も抱かずに、「話し合いを絶対視」し、何ら解決も出来ないばかりか、「結果の平等」を重視するあまり、「排除すること」もなんら厭わなくなってしまうのですから。

こう考えてみると、「オトナになる」というのは、意外と難しいのかも知れませんネ。

取りとめのない感想になってしまいましたが、今日はこれまで。
ではまた。

【関連記事】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その2】


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コメント

tikurinさんへ

tikurinさん、コメントありがとうございます。

読んでいて頭をスッキリ整理することができるコメントですね。毎度思うのですが、本当にtikurinさんの文章は素晴らしく非常に参考になります。私にはとてもまねが出来ない…。

私自身、自分の思想を言葉として明確に把握しているか、あまり自信がないのですが、その大切さというのは、山本七平の著作を読み続けていくことで、気づくことが出来たと考えています。

自己をしっかりと把握し、それを他者に伝達する能力を獲得しない限り、日本はいつかまた、暴力に基づく秩序という状態に陥るかもしれない…という危惧は今現在も存在するのでしょうし、これは克服すべき課題なのですね。きっと。

  • 2009/10/05(月) 00:31:06 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

思想信条の自由とコンプライアンス

 一知半解さんしばらくです。
日本人の”話し合い絶対”の根底には、人間性信仰に基づく平等主義があります。(きっと8,000年に及ぶ縄文時代の平和がもたらしたのでしょう)しかし、その弱点は、個人倫理においては他者の「思想信条の自由」を認めない自己絶対化に、社会面においては個別利害に終始する派閥主義に陥りやすいことです。
 といっても、人間性信仰に基づく平等主義自体は貴重な伝統だと思いますので、その弱点をいかに克服するか、ということになりますが、問題は思想信条の異なる他者とどう付き合うかということで、当然はげしい議論になりますが、その場合のフェアネスをどう身につけると言うことでしょうね。
 それから、社会面においては、談合社会をいかに卒業するか、ということでしょうね。コンプライアンスということがいわれますが、個別利害を超えた全体のウェルフェアにつながる法規範を作るとともに、それを遵守する態度をどう育てていくか、ということだと思います。
 ところで、先のフェアネスですが、ネット上の議論には、その匿名性の故に、折角のコミュニケーションの場を、他者の思想信条を罵倒することで自己満足の場にしようとする人がいますね。つまりはじめからコミュニケーションの可能性を放棄しているわけです。
 その思想は大抵、建前と本音のダブルスタンダードで、いわゆる「てんびんの論理」に支配されている場合が多い。つまり、自分の思想的基軸を明確に自覚しないまま議論に参加するために、自分の意見と異なる意見に遭遇すると、不安になり、そこで、建前と本音を巧妙に使い分けて相手を罵倒し、自己の不安を解消しようとする。
 自分の思想をしっかり把握していさえすれば、自分の考えの長所や欠点を自己把握することもできるし、コミュニケーションを通じて対手を説得することもできるし、自らの意見を補強したり修正したりすることもできる。その結果、そうした議論を楽しむことさえできるのです。
 それができない原因は、繰り返しになりますが、私たちが、自分の思想を言葉として明確に把握していないと言うこと。それを他者に判るように説明できないと言うこと。そして、思想信条を異にする者の間のコミュニケーション技術及びモラルに習熟していない、ということだと思います。
 従って、私たちにまず必要なことは、私たちを拘束しているこの強力な伝統的思想=”てんびんの論理”を対象化し、それを思想として客観的に把握することではないでしょうか。その上で、日本人のコミュニケーション技術とモラルを高めていく必要があります。お互い、辛抱強く問題提起していきましょう。
 

  • 2009/10/03(土) 12:43:57 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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