私がいままでなんとなく抱いていた「飢餓」に対するイメージというものを、決定的に壊したのが今回紹介した記述です。
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
山本 七平
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(前回の続き)
人間が農耕・牧畜で、自分の食物を”生産”するようになってからどれくらいたつのであろうか。
一万年か?二万年か?
それは諸説があって私にはわからないが、いずれにしても「種の進化」が行われうるほどの長い時間ではあるまい。
人間は、基本的には、採集経済時代の人間と変らないはずであり、そのことは、未だにその水準にある未開の人びとを見れば明らかである。
同時にそのことは、文明人という名の現代人の日本人も、食糧の給付という現在の「生物学的社会機構」が崩壊すれば、すぐさまその状態に還ってしまうことを示している。
だが、問題はこの還るという点にある。
私のいたのは、人跡未踏、絶対に人が往めず、その生活環境では「三か月以上の生存はおそらく不可能」といわれた場所である。
それはルソンの東海岸の近くで、この海岸は、台湾の東海岸同様、断崖絶壁であって、その上が、人間が通過できぬほど樹木が密生したジャングルである。
空は見えず、二十四時間水滴が落ちつづけ、湿度百パーセントで、山ビルが棲んでいる。
しかしそういう環境にも、人が住んでいた。
ネグリート族である。
だがその毒矢で命を落した者はいたが、彼らの姿を見た者はいなかった。
おそらく、生活の大部分は、屋根のように頭上を圧している木々の上で行われるのであろうが、われわれは、そういった形の、その状態での「生存の基本的訓練」を受けていないので、生存は不可能になる。
それは、裸でエスキモーの氷の村にほうり出されたに等しい状態といえよう。
それは、またその人たちが、そのままの状態では東京での生活が不可能なのと同じことである。
ここに、「未完成の生物」といわれる人間の弱点がある。
だが不可能とわかっても人はそのとき、本能的に、農耕・牧畜以前と同じような行動をはじめ、その行動のために自滅してしまう。
「坐して餓死を待つ」という言葉があるが、人はこういうとき絶対に「坐して」いない。
全く理由もなく、理由もない方向へ、ふらふらと歩き出し、ふらふらと歩きつづけて、行き倒れになる。
おそらく採集経済時代の「生への希求の基本方式」すなわち「食の採集」がそのままに出てきて、「坐して」いられなくなるであろう。
そしてこの状態は、きわめてわずかの、支給された量以外に食物があるはずのない収容所に入ってもなおつづくのである。
従ってそれはもう、本能としか言いようがない。
■栄養失調
山の生活で、糧株は欠乏し、過労、長雨、食塩不足、栄養不良、それに加えて脚気、下痢、アミーバ赤痢、マラリヤ等により、体力が消耗しつくし、何を食べても一向に回復せず、いや養分を吸収する力が無くなり、というより八十才位の老人の如く機能が低下している。
いわゆる栄養失調者が相当数このストッケード(註1)にもいる。
(註1)…戦犯容疑者収容所を指す。
所内をカゲロウの如く、フラフラと歩き回っている様は、悲惨なものだった。
食欲だけは常に猛烈だった。
これは食べねば回復しないという意志の力も手伝っているようだが、少し多く食べればすぐ下痢をおこし、また衰弱する。
それでも食べるので下痢も治らない。
常にガツガツしている様は、餓鬼そのものだ。
自制心の余程強い人は良いが、そうでない人は同情を強要し、食物は優先的に食べるものと一人決めしているのが多い。
軍医氏の話によれば、「栄養失調者は、身体の総ての細飽が老化するので、いくら食べても回復しない。それに脳細胞も老化しているので、非常識なことを平気でやるのも無理はない」という。
なるほどと思われる解説だ。
この栄養失調者の群が、ゴミ捨場に膨脹缶を、炊事場に残飯をあさる様は、惨めなものだ。
後に彼等だけに二倍の食が給与されるようになった。
若い兵隊等はそれでも回復していったが、年の多い将校等の中には、いつまでも回復しない人が沢山いた。
いずれにせよ、この栄養失調者の群は、同情されぬ人が多かった。
この記述は、飢えについて人びとがもっている奇妙な錯覚を打ちくだくに十分であろう。
飢えは胃袋の問題ではない。
人間は、胃袋が空でありつづけても、頭脳の方は空にならず無変化だと人びとは錯覚しているから、飢えの恐ろしさがわからない。
といえば、「とんでもない、西アフリカやビアフラ(註2)の写真を見れば、飢えの恐ろしさはわかります」という人がいるかもしれないが、それが私のいう「わからない」の証拠に過ぎない。
(註2)…ビアフラ戦争(wiki)参照のこと。
人はそれらの写真を見て「恐ろしい」「かわいそう」といった感情をもつであろう。
だがそれはその人が飢えていないという証拠にすぎない。
同じように飢えれば、そういう感情はいっさいなくなる。
そして本当に恐ろしい点は、この「なくなる」ということなのである。
小松さんは末尾にはっきりと記している。
「いずれにせよ、この栄養失調者の群は、同情されぬ人が多かった」と。
ここは収容所であって、ジャングルのような極限状態でなく、他の人びとはそれほどひどく飢えていない。
しかし、写真のような姿を現実に目にしても、人びとは、ビアフラや西アフリカの写真を見るようには同情しない。
逆に恐怖に似た嫌悪感さえ抱くのである。
飢えが、自分に関係ない遠い異境のことだと思える間は、そして写真等でそれを眺めるにすぎない間は、人は同情する。
しかし、この小松氏の絵に対してすら、人びとはそれほどの同情を感じまい。
たとえそれが同じ日本人であっても――。
そのはずであって、それが自然なのである。
飢え乃至はそれを象徴する姿は、遠くて無関係な間は同情できる。
しかしそれが身近に迫れば、人びとは逆に嫌悪する、さらにそれが、本当の自分に迫って来れば、本能的な恐怖から、それに触れまい、見まいとして、その人を逆にしりぞける。
そしてそれは、その人がふだん声高に「人道的言辞」を弄していたとて、所詮、同じことなのである。
(次回へ続く)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第九章 生物としての人間/P229~】
特に、「飢えは胃袋の問題ではない」という指摘には、今読み返してみてもハッとさせられます。
山本七平は著書「ある異常体験者の偏見」の中でも、この指摘に似た記述をしております。
過去記事にて紹介済みですが、該当部分を一部抜粋して引用しておきます。
上記の引用を読み返せば返すほど、「生物学的常識」という視点は、以外に(といっては語弊がありますが)重要なのではないかと思います。
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
商品詳細を見る
・名文章ご紹介シリーズ【その3】~飢餓における人間と動物の違い~
(~前略)
「人間は被造物である」などという言葉の、哲学的・宗教的意味は私は知らないし、知る気もしない。
だが人間は、「一定量の食物を絶えず注入していない限り正気ではいられないという点では、麻薬中毒患者のような一面があり、『食物の禁断症状』を起すと、『麻薬の禁断症状』以上に狂い出し、麻薬中毒患者同様に動き出すように造られてしまった生物なのだ」と私は思わざるを得ない。
その人が、どういう思想・信条をもとうと、どういう社会制度の下で生きていようと、このことには差がない。
私は、医原性麻薬中毒の体験から、特にこの感が深い。
人間が傲慢になれるのは、飢えていないときだけである。
飢えてさえいなければ、神の如き気分になって、正義の旗印を高くかかげて全世界を糾弾できる。
従ってそういう格調の高い(?)、時には居丈高な論説などを読むたびに、私は「ハハァ、この人は満腹しているな」と思わざるを得ず、従って何の感動も受けないが、しかし決定的ともいえる「飢え」の中にあって、なお人が口にする鋭い言葉の中には、やはり「人間は人間であって動物ではない」と感じ、生涯忘れられないほどの強い感銘をうける非常に崇高な言葉もある。
(後略~)
【引用元:ある異常体験者の偏見/アパリの地獄船/153頁~】
飽食の時代にあっては、この重要性についてなかなか思いを至すことは難しいのでしょうが、この重要性を全く忘れてしまえば、いずれまた飢餓という状況に陥る可能性は否定できない。
この重要性を忘れないこと。
これも戦前から得た一つの教訓でしょうが、平和を声高に唱える人びとがその重要性をわきまえているかといえば、非常に怪しいものですね。
また、飢えれば同情心が一切無くなるという”恐ろしさ”についても、指摘されて初めて想像することができるのではないでしょうか。
「同情できる」というのは、自らが飢えていないことの証拠に過ぎないという山本七平の指摘は、非常に鋭いものがありますね。
これも、飢えを体験した「異常体験者」ならではの視点といってよいのではないでしょうか。
山本七平のこうした記述を読むと、つくづく「理性信仰」というものは、所詮、人間の傲慢さに基づく「砂上の楼閣」なんじゃないか…と思われてなりません。
次回も、この続きを紹介してまいります。
ではまた。
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