一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

石原都知事の天罰発言と関東大震災の天譴説/~旧約聖書の「ヨブ記」と日本人の因果応報論の関連性~

(ツイッター以外では)久しぶりのブログ更新です。
遅まきながら、まず初めに、このたびの大震災にて不幸にもお亡くなりになられた方々のご冥福を祈念するとともに、被災され今現在も救助を求めるなど苦難の状況が続いておられる方々が一刻も早く普通の生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。
また、救助や原発事故対応にあたっておられる方々のご活躍とご無事を心より願っております。

さて、チョット前の話になってしまいましたが、今回の東北地方関東大震災についての石原都知事の天罰発言がかなりの反響を呼びました。

石原都知事の言いたい事もわからなくはありませんでしたが、このニュースを聞いたとき「随分と不適切な発言をしたものだなぁ、かなりの反発を喰らうだろう」ととっさに思いました。
案の定、悪評プンプンでしたね。
結局のところ、発言撤回に追い込まれてしまいました。

もちろん、あのような発言は撤回するのが当然だと思います。
しかし、私がちょっと納得行かなかったのは、石原都知事を「人として許せない!」などと声高に糾弾している当のご本人たち自身が、「天罰」とか「前世の報い」とか「親の因果」という”発想”に全く捉われることはないのか??という疑問を抱いたからです。

何の罪科のない人たちが、突然の天災に襲われる。
その不条理に直面した時、その理由を天罰や前世の報い、親の因果というフレーズを思い浮かべ、理由付ける日本人は意外に多いのではないでしょうか。
石原都知事は、それを自分の主張に合わせて都合よく解釈し、思うままにしゃべってしまった。

私は石原都知事の「我欲が日本をダメにした」という考え自体には共感できなくもありませんが、それを天災と結び付けるのはまったく論理的ではないと思う。
しかしながら、彼がそう思ってしまった気持ち自体は理解できなくもありません。

ところが、それを「人として許せない」とか「コイツは人間じゃない」とまで罵る人達がたくさん現われた。

そこで私は問いたい。

そういうあなた方自身、口に出さずとも心の中では同じような発想を思い浮かべたことはないのか!と。
あなた方は、石原都知事の不適切発言をなじる事で、単に自らが正義漢であることをアピールしたいだけじゃないのか!と。
今回の騒動を見ていて、どうにもそうした人たちに対して、偽善の匂いを感じてならないのです。

それはさておき、本題に進みましょう。

今回の石原都知事の天罰発言は、いわゆる関東大震災後に流行した「天譴論」と同じ類いではないでしょうか。
というのも、山本七平の著書「禁忌の聖書学」で見かけた「天譴論」とそれに関する菊池寛の主張を思い出したからなのです。

山本七平が本書の一章を設けて、旧約聖書ヨブ記について書いているのですが、その中においてこの「天譴論」が触れられています。

なんの罪科もない善人ヨブが神とサタンの実験台とされ不条理な災難に遭う、というのが、いわゆる「ヨブ記」なのですが、山本七平ヨブ記のテーマを日本人に根強くある応報論と絡めて論じております。
現代においても非常に考えるべきテーマだと思いますし、それを考える上で非常に参考になると思いますので、以下長くなりますが(また、大変読みにくいと思いますが)抜粋しながらご紹介していきたいと思います。


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■結末なきヨブの嘆き

幼時の強烈な印象は一生残る。

五つか六つの時、母に手を引かれてある神社の境内を通った。
祭りだったのであろうか、狭い参道の両側には見世物の仮小屋が並び、毒々しい色彩の看板を掲げ、盛んに呼び込みをやっていた。
その一枚の看板の前で、私の足はすくみ、呪縛にかかったように動けなくなった。

さあ、お代は見てのお帰り、親の因果が子に報い、頭が二つに足が四本……
看板にはその通りの絵が掲かれ、腰のあたりだけが布で隠してあった。

見てはいけません
叱責に近い口調で母はいい、強く私の手をひいた。

私は母に質問をしたかった。
しかし母は、質問を受けつけないような厳しい顔をしていた。

小学生になり、一人で行動をするようになると似たような見世物の看板と、「親の因果が子に報い……」という呼び込みに出会った。
児童福祉法などなかった時代の、ありふれた情景だったのかも知れぬ。

最初のこの経験から二十年ほど経った。
私はマニラ南方のカンルバン収容所の、戦犯容疑者収容所にいた。

何の容疑か自分でもわからない。
また周囲の人から見れば、学窓をポッと出て、いきなり戦場に連れて来られたような、全く世聞知のない私が戦争犯罪の容疑者になっていることが不思議らしかった。

あなたのようなボンボンが何でこんな所になあ、前世でよっぽど悪いことでもしたのかなあ。ここに入れられちまえば、もうどうもならんよな。ピリ公(フィリピン人)に、首実検で、あの男だといわれりや、これさ

といってその人は、揃えた指先で自分の喉をすっとかすった。

何かあっても、前世の因果と思って諦めるんだな

何とも納得できない不条理に陥ったとき、その理由を前世に求めるか前の世代に求める
これが大体日本の伝統的な考え方であろう。

前に中村元氏と対談したとき、「前世の因果」と「親の因果」という、全く違う原理を徳川時代はもちろん、現代でもごく普通に併用しているのはなぜであろうかと私は質問した。

輪廻転生の世界には「前世の因果」しかないはず、それともインドにもやはり「親の因果」という考え方があるのでしょうかと。
先生は「原則的にいえばない」といわれた。

すると「親の因果」の方は、儒教の影響であろうか。
では日本に「死後の法廷」における「正しい裁き」という考え方があったのであろうか。

全然なかったわけではなく、これは道教の影響だとする学者もいる。

だが親の罪がこの世で免れても、死後の裁きで峻厳に処罰されているなら、子が親の責を負うのはおかしい

「後世」という考え方はあっても、この「死後の神の裁き」という考え方が明確にないことを、日本人のキリシタン伝道師不干斎ハビヤンがすでに『妙貞問答』の中で指摘している。

以上のさまざまな考え方は、今では完全になくなっているとはいえないまでも、影の薄いものとなった。
もっとも理由なく絞首台に立たされたとき、その人がどう考えるか、これはわからないが――。

一体人はなぜ、以上のようなことを執拗に信じようとしたのであろう。
その前提はこの世の中は、義が支配し、これに違反した不義なる者は罰せられ、これに従った義なる者は報われるはず、と固く信じているからに外ならない。

この信仰は今も変わらず、変わったのは、その義が現世において、すなわち各人の出生から死亡までの間に、人間の力によって確立される、否、確立されねばならぬと信ずるようになった点だけであろう。

そう考えたとき、前世の因果も親の因果もまた死後の裁きも否定されねばならない
それはこの世の不義・不正を黙認させ、義の追究を麻卑させる手段にすぎないことになる

宗教がアヘンとされる理由であろうが、後述するように現代にも別なアヘンがある

事実、不正な収奪に会って餓死しそうになりつつも、肥え太った不正な富者を見て、「来世では自分はああなるのだ、あいつは前世で餓死したに相違ない」と考えれば、それは不合理でもなければ不義でもない。

また偽証によって罪なくして絞首台に立たされても、死後には神の裁きがあり、そこでは自分は無罪で偽証した者が処刑されると思えば、何とかその苦しみに耐えられるであろう。
だが人間がそのすべてを信じなくなったとき、一体どうなるのであろう

人間は自らの知性に絶対的な信を措き、それに基づいて義なる世界を打ち立てることができるであろうか。
また自らの信ずる義に基づく規範に生きつつ、それを神の義、簡単にいえば宇宙の秩序に即応しているものと信じていれば間違いないのであろうか。

旧約聖書の『ヨブ記』とソポクレスの『オイディプス王』は、以上の点で似た前提に立っており、こう考えると『ヨブ記』は果して俗にいう「宗教書」なのか私は疑問に思う。
というのは、簡単にいえば、故なき苦難に呻く全き善人ヨブに一言「前世の因果さ」といえばそれで終りであり、オイディプスには「親の因果が子に報いたのさ」で終りとなる。

いずれも劇が成立しない。

旧約聖書には「前世」という概念はないが、古い時代には『出エジプト記』に「父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者〈神〉」(三四7)とあるように、その罪が四代までは及ぶという考え方があった。

これをはっきりと否定したのが預言者エレミヤエゼキエルである。

エレミヤの有名な「……その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子供の歯がうく』とはいわない。人はめいめい自分の罪によって死ぬ」(三一29以下)という言葉は、「親の因果が子に報い」的な考え方を否定した最初のものであろう。

エゼキエルはさらにはっきりとこれを否定している。
面白いことに当時「親の因果が……」と同じような定型化された言い方が「父がすっぱいぶどうを食べたので……」であったらしく、エゼキエルもこれを用いて次のように言っている。

主の言葉がわたしに臨んだ、『あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、「父たちが酢いぷどうを食べたので子供たちの歯がうく」というのはどんなわけか』。
主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ
」(一八1以下)と。

だが当時の人びとはなかなかこれを納得しなかった。

エレミヤはイスラエル滅亡の時の預言者、エゼキエルはバビロン捕囚の時の預言者である。
人びとはみな、滅亡や捕囚の苦しみを受けるのは自らの罪でなく三、四代前の罪が自分に及んできたのだと考えたがった。

そこでエゼキエルに反論する。
だが彼はこれに対してはっきりと次のように言った。

……あなたがたは、『なぜ、子は父の悪を負わないのか』と言う。子は公道と正義とを行い、わたしのすべての定めを守っておこなったので、必ず生きるのである。罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する」(一八19以下)。

これはきわめて重要な言葉で、責任はあくまでも個人に帰し、その責任を各人が神に負うという点で、個人主義の出発点だともいえる。
同時に「親の因果だから仕方がない」という逃げ道はなくなってしまった

前置きが大分長くなったが、以上の前提をはっきりしておかないと、『ヨブ記』の問いかけがわからないからである。
この未知の作者は、古い伝承を利用して、まず「罪なき義人ヨブ」を設定する。

神の義がこの世を支配し、エレミヤエゼキエルの言うように、「前世の因果」も「親の因果」もなく、罪はすべてその人に起因してその人に帰するなら、彼は神から祝福されることはあっても、罰せられるはずはない

そして旧約聖書の『箴言』は、この立場に立って人びとによき行いをすすめている。
ヨブはそれを行い、神もまたそれを認める人であった。

ところが、ヨブの知らぬ間に、天上で、神とサタンの間に妙な会話がかわされる。
神がヨブの義を指摘するとサタンは、ヨブはそれによって得る神の御利益があるから、そうしているだけであるという。

簡単にいえばヨブにとって絶対なのは御利益であって、神でも神の義でもない。
その証拠に、もし彼に何らかの大打撃があれば、彼はすぐに神を呪うでしょう、という。

サタンの言葉は確かに社会の現実を指摘しており、このことは、御利益をかかげて信徒を誘う新興宗教に示されている。
そこで神は果してその通りか否かをサタンに示すため、ヨブの身柄をサタンにわたす。

簡単にいえばヨブは御利益が絶対なのか、神が絶対なのかの試験台に使われ、彼にさまざまな災禍が下る。
彼を慰めに三人の友人が来る。

だがこの三人もまた「全能の神は正しき者に報い、悪しき者を罰す」を信じているから、これを裏返すとヨブに「隠された罪」があることになってしまう。
そこでそれをヨブに告白させ懺悔させ、神に赦しを願えという論法になる

だがヨブはそれを認めない。
そのため慰めはいつしか糾弾になり、激論となっていき、ついにヨブは神を呼び出し、直接に対決しようとする。
おれが正しいのか、神が正しいのか」。
神はこれに大声で答える。

これが『ヨブ記』のクライマックスだが、その言葉にわれわれは果して納得できるのか、否、ヨブが納得したのか。
これが『ヨブ記』が問いかけてくる問題であり、前述のように、ある意味では、きわめて現代的な問題である。

そしてこういう考え方をすると、故なき苦難や冤罪に苦しむ者の救済は「死後の神の裁き」しかない

だが、旧約聖書には現代と同様、この考え方が全くないし、もしあれば『ヨブ記』は成り立たない。

一体こういう世界での義の確立はどのように考えればよいのであろうか。
現代人も同じような世界に生きているのだから、ヨブの運命とその結末には、他人事とは思えぬ切実感がある。

(~中略~)

このエリパズ(註)の言葉は、おそらく、常にくりかえされる宗教家なる無神経人の”お説教”の要約であろう。
(註)…ヨブを見舞いに来た三人の友人の一人。

全く、苦しみうめくヨブを前においていい気なもんだという気がするが、重病人の傍らに折伏に来た者も同じようなことをする。

だが言っていることは、常々人びとが口にしていることにすぎない。

すなわち全き人というのはこの世にいない。
人は神の前に完全に潔白とはいえない。
人は土で造られた存在にすぎず、それ自体、不完全なものである。

では旧約聖書に「原罪」という考え方があるのか。
明確に「ある」とはいえないが、不完全な者、欠けた者、全き者ではないという意識は常にある。

だが「人間は完全ではないのだから」という言葉は、神なき現代の世界でも常に使われており、その意味でこれは歴史を超えて万人の持っている意識で、ヨブ自身、もちろんそれを否定はしていないし、あらためてそんなことを言われても意味はない。

というのは、その一般論は、ヨブの苦難の理由の説明とはなり得ない。
もちろんエリパズが本当に言いたいことは、ヨブには隠している罪もしくは忘れている罪があるのではないか、その報いではないか、ということであろう。

それは「……思い起せ、罪なくして滅ぼされた者がいるかを/いつ誠実な者が滅ぼされたかを」に現われている。

もしそうなら、ヨブが外面的にいかに正しく、いかに弱者を助けたとしても、それは「不毛を耕す者」で、その蒔いた種は「悲しみを苅り取る」にすぎないと。

エリパズは内心でおそらくそれに違いあるまいと思っている。
さらに「お前の言葉に一片の誠実があれば/これらの災禍の一つにも見舞われなかっただろう」と。

神は全能である。
私なら神に「赦しと救い」を求め、「全能者の懲戒」を拒むようなことはしない。
そうしたら神は必ずお前を守り、安らかな生涯と子孫の繁栄と平穏なこの世の終りが保証されるであろう、と。

不思議なことだが、いや当然なのかも知れぬが、人間は不条理を信ぜず、あくまで応報思想を信じたがる
その点ではすべての人はまことに宗教的で、新興宗教の隆盛は当然であろう

そのため常にどこかで「善因は善果を生み、悪因は悪果を生む」と信じたがり、そうならないのは、この世のどこかに「悪」があるからだと信じている

「社会が悪い」「世の中が悪い」「政治が悪い」「環境が悪い」「友人が悪い」等々、この「悪い」には際限がなく、世の中には「悪」が満ち満ちているらしい
そしてこの言葉の背後にあるのは「しかし私は正しい」であろう

この「正しい私」が、悪の誘惑によって転落した者を見たとき、「悪の誘惑に負けたのだから当然だ」と思う。
そして何かの災難が「正しい私」によりかかって来たときは、「社会の悪」の犠牲者だと思えばよい

これも一つの逃げ道、「前世の因果」も「親の因果」もなくなったとき、人は「社会が悪い」に逃れる

では「社会が悪い」も封じられた場合どうなるか

それこそ逃げ場はなくなる。
そこで、「社会の悪」という「悪」を生存させねばならず、そうなると、その犠牲者にならぬためには、ひたすらその悪を避けて善行を積めとなる。
そしてその善因の善果を得られぬ者は「社会の悪」というサタンの誘惑に陥ったことになる。

こういったすべての「善因、善果」論を要約したのがエリパズの言葉である。

(~中略~)

ビルダデ(註)の主張は完全な応報思想で、義なる全能の神は、正しき者を必ず報われるという。
(註)…ヨブを見舞いに来た三人の友人の一人。

「正義は必ず勝つ」とか「正直者は必ず報われる」とかいった言葉を人間は常に信じたがっており、これは、人間が最も好きな言葉かも知れない

だがこの言葉を裏返すと恐しい

というのは、「敗れた者は必ず不義」で「報われなかった者は不正直」となる

ビルダデの言葉はこの考え方を端的に現わし、報われなかったヨブは不義で不正なはずである。
彼が日々神に祈り、敬虔な生活をしていたことをビルダデも知っている。

だが彼には隠された罪があるに相違ない

確かにお前は朝早く起きて全能の主に祈っている」であろう、だが潔白でもなく誠実でもない者の祈りはきかれない。
義なる神は「不信仰な者の捧げ物を受けることはない
」と彼はいう。

それならヨブには隠された罪があり、今の状態は不敬虔者の末路を示していることになろう。
これは苦しむヨブを、さらに苦しめる言葉だが、ヨブはむしろ、その相も変らぬお説教にうんざりして答える。

ヨブ (ビルダデに答えて)全く仰せの通りさ、
どうして人が神の前に正しくあり得るか。
たとえ主と論争しても、
千の訴えに一つの答も得まい。
主は心に知恵があり、力に秀でた大きなお方、
だれが抵抗してなお耐え得たか。
主が私に耳を傾けてくれたなら、
私の言葉を判断してくれたなら。
だが、たとえ私が正しくても、主は聞かれない。
たとえ私が叫んで主の耳に入っても、
主が私の言い分を聞かれたとは思えない。
主が暗黒をもって私を潰されないように。
だが主は理由もなく私の傷を増し加えた。
私は息つく暇も与えられず、
苦しみだらけにされる。


以上につづく部分は相当にヘブル語原文と違っており、一部脱落があるので、ヘブル語原文の方が意味がはっきりわかる。
そこで次に中沢治樹氏の『ヨブ記のモチーフ』の訳を引用しよう。

どっちだって同じだ。だから、あえて言おう、
罪有る者も無い者も、彼はいっしょに滅ぼすのだ。
突然大水で人が死ぬと、
彼は無辜の災難を嘲笑う。
世は悪人の手中にあり、
裁判官は目隠しされている。


このあとに、これが「彼のゆえでなくて誰のゆえか」という後代の付加が一行ある。
おそらく、読者が記した感想であろう。

私はこの部分を読むと、菊池寛氏の「地震の影響」を思い出す。

関東大震災の後で、一時、「天譴説」が流行した。
第一次世界大戦による「成金輩出」と「軽佻浮薄」といわれた当時の世相と、「こんな状態が長続きするはずがない、いつかは……」といった危惧から来る不安が、大震災を契機に生み出した考え方であろう。

内村鑑三の弟子の藤井武は、「天譴」という言葉が、何か人に訴えるものがあったと記している。
また電車の中で、派手な着物を着た女性を面詰し「こんな派手な恰好をするから天譴が起ったのだ」といって、その袖を引きちぎるようなことも起った。
私の母がしばしば語った思い出である。

一瞬にして数十万の人が死に、東京は焼野が原となる。
その理由はだれにもわからず、だれの責任を問うこともできない。

そのとき人びとは、何らかの不義があったので天罰が下ったとしか思えない。
これが「天譴説」が発生した理由であろう。
だがこのとき菊池寛氏は次のように記している。

……あの地震を天譴と解した人などいたが、私はあの地震で、天譴など絶対にないことを知った。若し天譴があるならば、地震前栄耀栄華をしていた連中が、やられそうな筈が、結果はその正反対であった。……私自身、あの地震を境として、人間が少し悪くなったような気がする……

ヨブの言葉は、大震災で圧死されようとしている人が、何でオレはこのような目に合うのだ、まじめに今まで暮していた人間に、なぜこんな災難が降りかかるのだ、と言っているのに似ている

その彼の言葉はやがて神の告発、神への抗議へと変わっていく。

(~中略~)

菊池寛氏の、大震災のため天譴を信じないようになり人間が少し悪くなったという言葉と、ヨブの「主に向って私はいう。教えないで下さい/不信仰になることを」を対比してみると面白い。

余りにも不条理な災厄は、人に、義の感覚を失わせる。
そうなると人が求めるのは、休息だけになる。

だが旧約には「来世」という観念はない。
ややそれに似たものが出てくるのは「旧約の終り、新約のはじまり」の書といわれる最後期の『ダニエル書』だけだが、これとて厳密にいえば来世ではない。

人は土から造られて土にもどるとは『創世記』以来、ほぼ一貫した考え方である。
旧約に明確に「物質」という概念があるかどうかは疑問だが、「土」と表現される物質的世界は神の倫理的支配はうけていないと見ている。

簡単にいえば物質には善悪も生死もなく、この考え方はきわめて現代的だが、こう考えると神の義はこの世だけを支配していることになり、そこで「全能にして義なる神」がいるなら、なぜこの世に悪や不条理があるのだ、という問題すなわち「神義論」になっていく。

(~中略~)

『ヨブ記』は何を書こうとしたのか。

善因善果・悪因悪果などという応報思想は何の根拠もない、その法則が神を拘束しているわけではないということであろうか。
そうかも知れぬ。

善とか義とかは、旧約聖書においてはそれ自体が絶対なものだから、報われようと報われまいと関係ないということになろう。

義なるがゆえの拷問・殉教という悲惨きわまりない道があるなら、サタンの挑戦への道具に使われて亡びるのも、これまた意義あることかも知れぬ――その人が「義」を絶対化しているなら。

だがそうまで徹底できるのは超人的人間だけかも知れない。
凡人は結局、応報思想に逃げ込んでそこに安眠したくなる

(~中略~)

結局、凡人は応報思想から抜け出せないのであろうか。
この最も安直な考え方、お祭りの見世物の呼び込みの台詞に等しい思想は、すべての思想も宗教も殺してしまう

では一体どういう解決があるのであろう。
「神の義」は「人の義」でなく、『ヨブ記』はこの二つの「義」の相剋と中沢治樹氏は前掲書で記されている。

ではこの二つの「義」の相剋は永遠に終らないのであろうか

人はそう信じたくない。
そこで歴史的未来に相剋の終りがあリ得ると信じ、その社会を招来するために働くことが真の義であると信ずるようになる。
『ダニエル書』はそれが主題であろう。

そうなると応報思想への新しい逃げ道ができ、それに”科学的”という衣裳を着せると、因果論的応報思想が新しい装いで現われる

「親の因果」のように、「資本主義という時代」の因果は必然的に社会主義社会さらに共産主義社会を生み出していく。

そして人は応報を未来に求めて動く。
ではその時代が来れば、「新しい神」の創造した世界の秩序すなわちその「義」と、そこに住む各個人の「義」に相剋はないのであろうか。

あるであろう。
処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。

そしてこの”復活”は『ダニエル書』を思わす。
だがその人自身は「塵と灰」に帰しており、ヨブの嘆きの如く、土に帰って戻ることはない。

『ヨブ記』は結局、断ち切られたように終る以外に、結末はあり得ない。

(「新潮」一九八七年十一月号)

(終)

【引用元:禁忌の聖書学/終末なきヨブの嘆き/P180~】



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コメント

tikurinさんへ

tikurinさん、今晩は。
レスが遅くなってすみません。
コメントありがとうございます。
お褒めのお言葉をいただけて嬉しいですv-290

しかし、ご指摘いただいた「名誉回復」のくだりの意味は、私もそこまで思いが至りませんでした。
確かに仰るとおりですね。

>そこで「天罰」などというと、この「自然」が何らかの意思を持っているように受け止められ、これが現代の日本人の無意識の宗教意識を刺激するのですね。

なるほど。
何らかの意味づけをせずには納得できない人も多いから応報思想に逃げ込む現象が往々にして起こるわけですね。
応報思想にとらわれる人が多いのをみると、日本人はよく無宗教だと思われていますが、実際本当に無宗教な人間なんて居ないように思いますね。

>問題は、この不条理な自然の力は人間の中にも宿っているということです。
>こちらの本性をリアルに認識すること。その引き起こす厄災をコントロールするしたたかな思想をもつこと。


仰りたいことは、自然の災厄に意味づけをして、応報思想を背景に自己正当化行為を働く人間が居るということでしょうか?
確かに天災より人災の方が明確な意思がありますから、その被害は天災と違って特定の人に集中しやすいでしょうし、より恐ろしい面がありますね。

>簡単に「しかたがない」で諦めないこと。それが日本人の思想の課題なのではないでしょうか。「応報を求めない」言論こそが大切だと思ったことでした。

「自然を畏れつつ、あなどらずに対策を講じ続ける」「応報思想に逃げず、かつ、諦めない」ということは凡人には難しいかもしれません。
山本七平の思想に触れて、少しでもそのことの難しさを理解していけたらな…と思いますね。

なんだか上手くまとまらないレスになってしまいました。乱文失礼しました。
これからもご教授よろしくお願いいたします。

  • 2011/04/07(木) 00:18:51 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

 石原知事の「天罰発言」を考えるのに、山本七平の『禁忌の聖書学』の「結末なきヨブの嘆き」を丁寧に紹介されたことは、事の本質を突くものであり、誠にすばらしいと思いました。

 石原発言の妥当性については、この本の中の紹介されている菊池寛の、関東大震災の時に出てきた「天譴論」に対して発された言葉、「……あの地震を天譴と解した人などいたが、私はあの地震で、天譴など絶対にないことを知った。若し天譴があるならば、地震前栄耀栄華をしていた連中が、やられそうな筈が、結果はその正反対であった。……私自身、あの地震を境として、人間が少し悪くなったような気がする……」
 が最も妥当な批評ではないかと思います。

 石原氏は本来、自由な発想をもって身上としているはずですが、年を取ったせいか最近は「観念固着」が見られるようになった、というのが私の感想でした。

 ところで、ご紹介いただいた山本七平の次の言葉、

 「親の因果」のように、「資本主義という時代」の因果は必然的に社会主義社会さらに共産主義社会を生み出していく。

 そして人は応報を未来に求めて動く。
ではその時代が来れば、「新しい神」の創造した世界の秩序すなわちその「義」と、そこに住む各個人の「義」に相剋はないのであろうか。

 あるであろう。

処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。」

 こ文の末尾、「処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。」は一体何のことを言っているのでしょうか。

 私は、これは、氏自身が、百人切り競争虚報報道のために有罪となり処刑された、向井敏明氏と野田毅氏の二人の冤罪を晴らしたこと、及び、フィリピンの捕虜収容所における捕虜虐待の罪で処刑された韓国人の洪思翊中将の冤罪を証明しようとしたこと、を指していると思います。

 とすると、罪なくして滅ぼされたものを救うことも、この世に生きる人間の「義」となるわけで、ただし、それによって山本七平は激しい攻撃を受けることにもなったわけですが、これは氏自身の応報思想を超えた思想の現れであったと思います。

 日本人にとって「神」の位置に在るのは「自然」です。だから人災も含めて天災=自然災害のように受けとめ「仕方がない」であきらめ・・・つつ、その不条理を「もののあわれ」で「慰め」そして「平安」を得る・・・。

 そこで「天罰」などというと、この「自然」が何らかの意思を持っているように受け止められ、これが現代の日本人の無意識の宗教意識を刺激するのですね。石原氏は確か法華経の信者ですから、この辺りから「天罰」という言葉が出てきたのだとは思いますが・・・。

 不条理な自然の力、それを克服しようとする人間の営為、自然と折れ合う中で自然と調和して生きようとする日本人の心・・・、対象が自然だけなら、おそらくこの両者のバランスさえ考えれば良い、ということになるのでしょうが、問題は、この不条理な自然の力は人間の中にも宿っているということです。

 こちらの本性をリアルに認識すること。その引き起こす厄災をコントロールするしたたかな思想をもつこと。簡単に「しかたがない」で諦めないこと。それが日本人の思想の課題なのではないでしょうか。「応報を求めない」言論こそが大切だと思ったことでした。

  • 2011/04/05(火) 15:18:38 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

YSJournalさんへ

YSJournalさん、こんばんは。
レスが大変遅くなり済みませんでした。

聖書には現代英語版があるのですね。
ちょっと考えてみればわかりそうなものでした。現代人も聖書読むんですからね。
愚問をしてしまい失礼しました。

  • 2011/04/03(日) 23:45:48 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

一知半解さん
私が読むのは現代英語版です。

個人主義、口幅ったいのですが、同じ様な考えだと思います。

  • 2011/03/29(火) 01:59:42 |
  • URL |
  • YSJournal #-
  • [編集]

YSJournalさん、花春さんへ

こんばんは。
レスありがとうございます。
お返事が遅くなってすみません。

>YSJournalさん

>私は、まず英語の教材として時々、聖書をめくります。

英語の教材として聖書をお読みになっていたのですね。
素人の想像では、聖書の記述って現代英語と大幅に違っているようなイメージがあるのですが、教材になるのですね。古文を習うようなものでしょうか?

>「凡庸な」日本人的宗教観と聖書の宗教観にそんなに差がないのではないかと思い始めております。

荒ぶる神という点では変わらないということでしょうか?
確かにそういう解釈ならば、共通しているのかも…。

>日本で困るのは、「我」が強い人がいて、これを「個」が確立していると勘違いされる事が多い事です。

上記のコメント部分を読んで、以前拙記事でご紹介した岸田秀と山本七平の対談(下記抜粋)を思い出しましたが、YSJournalさんが考えている事は同じでしょうか?
私は結構、下記の説明は、自分にとって理解し易くて納得しているのですが。

岸田:いわゆる近代的自我には、神という歯止めがあるわけです。

ところが、神のいないところで近代的自我をつくろうとしますとね、神という歯止めがないものだから、いわゆる近代的・個人主義的な自我と、単なる利己主義との区別がつかないんですよ。

山本:うん、区別がありませんね。

岸田:戦争中、「個人主義はいけない」としきりに言いましたが、神を持たない日本人に個人主義がどう映るかというと、利己主義に映る。

実際、神という歯止めがないんだから、近代的自我はそのままエゴイズムになってしまうんですね。

とにかく自分ひとりのため、ほかの人がどんなに傷つこうが損しようが、自分の快楽や利益さえ確保できればいいという主義になってしまう。

個人主義を日本人が嫌うというのは、そこです。

必然的にエゴイズムに移行する個人主義を無制限に認めていたら、秩序が成り立たない。集団にとって危険なんですね。



>花春さん

非常に納得できるご指摘でした。
どうも左翼って花春さんがご指摘するような性向が強いですよね。
理論倒れで独善的なイメージがぬぐえない。
理想主義的で現実を捉えられず、現実的解決より心的解決で満足してしまうように思います。
実務家向きではないと言う人種なのかも知れません。
こういうのは実務に就くのではなく、学者で居るのが本人にとっても社会にとっても幸せなのかも…。

  • 2011/03/29(火) 00:03:40 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

本邦の左翼は功利主義を否定してカント主義の倫理観道徳観で動くので「結果」についてあまり気にしない傾向があるように見えます

かのブログのかたにしても現首相にしても物事の「動機」を重視しすぎて「日本全体としていちばんいいことは何か?やらなきゃいけないことは何なのだろうか?」の視点がないので無責任な態度に見えてしまうのではないでしょうか?
わかりやすい例は被災地に送る千羽鶴の話だと思います

  • 2011/03/26(土) 07:38:28 |
  • URL |
  • 花春 #-
  • [編集]

英語教材としての聖書

一知半解さん
ジョン万次郎を書いた本(司馬遼太郎だったかなー?)で、ジョン万次郎を引き取った(育てた)船長夫婦が、船の中では、聖書を英語教材(船だからそれくらいしか無いでしょうけど)として使ったとあった記憶があります。しかし、聖書は彼の「凡庸な」日本人的宗教観に影響を与えなかったともありました。

私は、まず英語の教材として時々、聖書をめくります。

自分自身が「凡庸な」日本人的宗教観であり、聖書を読む事で余り影響は受けなかったと思っているのですが、その考えは少しづつ変わってきつつあります。「凡庸な」日本人的宗教観と聖書の宗教観にそんなに差がないのではないかと思い始めております。

日本人でも「個」の確立している人は、日本的な宗教観は悪影響を及ぼしません。日本で困るのは、「我」が強い人がいて、これを「個」が確立していると勘違いされる事が多い事です。「我」が強い人が日本的な宗教観(儒教的な面で)を悪用しているケースが多い様に思います。

さて、「ヨブ記」ですが、これは自分の中でちょっと特殊な意味合いを持っております。出会ったタイミングが自分の一番苦しかった時とダブっているので、知らぬ間に心の拠り所みたいになりました。

  • 2011/03/26(土) 00:17:25 |
  • URL |
  • YSJournal #-
  • [編集]

南溟さん、YSJournalさんへ

コメントありがとうございます。
毎度レスが遅くてすみません。

>南溟さん

村野瀬氏の最新エントリーには、正直笑ってしまいました。小学生の感想文じゃあるまいし、夢想を通り越して妄想の域ですね。
読んでいて思わず西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら…」のメロディが頭に浮かんでしまいました(苦笑)。

かの御仁がどんな身分の人か知りませんが、裕福で生活に困ってはいなさそう。
そういう人がなまじ政治に関心を持つとロクなことが無いような…。
ルーピー鳩山なんかその典型。
おままごと気分で人の命を救う政治を行ないたいなんて考える時点で失格ですよ。

しかし、陰謀論に取り付かれる人ってのは、何かを諸悪の根源にして、自らは全く無関係な善人だと思い込んでいる人が多いですよね。
こういう「善人」ほど始末に困るのはいない。

>いったい村野瀬氏はこの1年半の政治から何を学んだのでしょうか。

転向したとか、権力に取り込まれたぐらいしか受け取ってないでしょうね。
左翼ってのは進歩がないとつくづく思います。

>YSJournalさん

YSJournalさんは、旧約聖書をお読みになるのですか?
私は、山本七平の解説やミュージカルを通じて、旧約聖書をかじり始めた程度で、全然旧約聖書そのものを読んだことが無いのです。
旧約聖書をメジャーにしたのはユダヤ戦記を書いたヨセフスだと山本七平は指摘していたので、最近は、ヨセフスに興味津々です。

  • 2011/03/25(金) 23:08:16 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

ヨブ記

一知半解さん
読んだはずなのに、ヨブ記の事が書いてある事に気が付いていませんでした。

先週末、心を落ち着かせるためにヨブ記を再読したので、さっきこのエントリーに気が付いて驚きました。(石原の事はどうでも良いのですが)

旧約聖書の荒々しい神は、自然の事だという解釈もあるようです。

  • 2011/03/23(水) 06:35:33 |
  • URL |
  • YSJournal #-
  • [編集]

連投失礼。

投稿してからあらためて気がついたのですが、民主党は一昨年、ちょうどここで村野瀬氏が言っているように、「見直すべき予算はある」からその予算をもっと国民のためになることに使えば日本はいい国になると主張して政権を取ったわけですね。いったい村野瀬氏はこの1年半の政治から何を学んだのでしょうか。

  • 2011/03/23(水) 00:27:34 |
  • URL |
  • 南溟 #-
  • [編集]

結局村野瀬氏や秋原氏のような人は、いかなる状況におかれても「政治が悪い」「社会が悪い」と愚痴を垂れるしか能がないのでしょうな。こんな心持で生活していては幸福になれるはずがないでしょうが、そうなるとますますかたくなに「政治が悪い」「社会が悪い」と思い込んでいくという負のスパイラルに陥るわけですね。
そんなに今の日本に対して不満なら、パソコンにかじりついて、バーチャルな革命ごっこ、正義の味方ごっこに酔いしれてばかりいないで、少しは何かしろと言いたいですが。
それにしても、彼らが信奉する「今の日本が悪いのは、みんな政界や財界の中枢にいる悪いやつらのせいだ」というものの見方は、一種の陰謀論と言えないでしょうかね。その「やつら」の正体がフリーメーソンとか宇宙人だとか言わないだけで。

そういうわけで、村野瀬氏の最新エントリー。

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2382.html

だから、あんたの言う通りに政治をやって世の中が良くなるようだったら、誰も苦労なんかしないって。はっきり言って、内容は小学生に「大人になったら何になる?」ときくのと同じレベルですが、いい歳してこんなことを書くとは、この人は実生活で苦労なんかしてないんじゃないかと思いたくなりますね。

  • 2011/03/22(火) 23:04:56 |
  • URL |
  • 南溟 #-
  • [編集]

南溟さんへ

南溟さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。

コピペしていただいたコメントは私も見て、禿同でした。
所詮、左翼にとっての「助け合い」というのは、意味合いが違うのだという事が良く判りますよね。

>しかし秋原氏は、このコメントを読んでいるんでしょうかね。

読んだとしても、意味がわからないのでは?
ああいう手合いは指摘されてもたぶん自覚できないでしょう。救いようが無いレベルだと思います。

  • 2011/03/21(月) 23:22:59 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

たしかに石原知事の発言はもってのほかですが、だからといって、自分は「我欲」と無縁だとでも思っているらしい、この人のカマトトぶりも見ていてイヤになりますね。(↓)

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2372.html

あと、blogosの秋原氏の記事に、このようなコメントがあったのには深く同感しました。

>これまでのあんたのブログで「他人を助けるために自分が
>何かしなければ」という発言は一度として見たことがない。
>「自分を助けるために他人は何かをしろ」という発言はいつもの
>ことだがな。助け合い精神が皆無なのはあんただろう。

しかし秋原氏は、このコメントを読んでいるんでしょうかね。

  • 2011/03/21(月) 21:00:54 |
  • URL |
  • 南溟 #-
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Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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