一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

民主主義とは民衆の一人一人が「君主」である/~書物としての諌議大夫『貞観政要』とは~

以前の記事『「安心病」と詐欺師の関係/曽野綾子のコラム~「安心病」の特効薬は~』をUPしたところ、dj19さんと言う左翼の方から、「あなたは民主主義というものをまったく理解できていない」というお叱り(?)のコメントを頂きました。

というのも、彼から「民主主義の定義は何か」と問われ、「民が『君主』である制度である」と答えたからなんですね。

これは山本七平の受け売りそのまんまの答えなんですが、どうやら誤解されたらしい。
確かにこれだけでは何のことかわからないのも無理はないと思う。
そこで、今日は民主主義について書かれた山本七平の記述を、「帝王学[貞観政要]の読み方」の中から紹介していきましょう。
ちょっと長めの引用になりますが、よろしくどうぞ。

帝王学―「貞観政要」の読み方 (文春文庫)帝王学―「貞観政要」の読み方 (文春文庫)
(1990/09)
山本 七平

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◆はしがき

「帝王学」

そんなものは現代には関係ない、『貞観政要』そんな本は聞いたこともない、と人はいうかも知れない。

だが見方を変えれば、現代に最も必要なものは「帝王学」かも知れない
というのは、昔は権力・権限が一人に集中していたから、その一人がこれを学べばよかった。

だが、民主主義は権力を分散する

権力の分散は、権力の集中より安全であろうが、これは、裏返しに見れば、数多くの小帝王を生じうるということである。

それだけでない。
複雑な現代社会は、あらゆる所に「生殺与奪」の権を握る公的ないしは私的な権力をもつ小帝王を生じうる

人事権、許認可権、それにまつわる賄賂や情実、それらが新聞記事などになると、私はときどき、「ウーム、こういう人のもつ権力は、行使しうる範囲が昔の帝王より挟いというだけで、その権力の強さは昔の帝王以上かも知れないな」と思わざるを得ない。

だが同じことは、経営者にもいえるし管理職にもいえる。
それらの権力は、時にはある一家族を他の果てに追放し、ある人間を自殺に追い込むほど強力である。

だが、現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」かも知れない

この点、西部邁氏の『大衆への反逆』は示唆に富む面白い著作だが、「大衆=帝王」にうっかり反逆したら、たちまち抹殺されてしまうであろう。

だが、これは大衆が愚かだと言うことではない。
本書にあるように「嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ」であり、一人ひとりを見れば、大衆こそ賢者なのかも知れない。

しかし、いかなる賢者も権力をもてばおかしくなり「三年でバカになる」という諺もある。

さらにこまったことに、「大衆」という権力は常に責任を負わないですむ
そして、責任を負わないですむことは、自制心の喪失になり、これが最もよく現われるのが群集心理である。

たとえば、見ず知らずの他人の車に、理由もなく、火をつけてひっくりかえせ、などと言われても個人の責任ある行為としてこれをなし得る者はいない。

だが群集はいとも簡単にこれを行ない、それを自己の責任とも思わず、被害者のことも考えない。
その大衆が権力を握り、「大衆=帝王」となったらどうなるか

それは人類史上最大の暴君かも知れず、これは現代が抱えている最もむずかしい問題かも知れぬ。

権力の周辺には、必ず「阿諛追従の徒」が集まる
これが、本書に出てくる「六邪」である。

失脚した政治家、経営者、高級管理職などを見ると、必ず「六邪」という「取りまき」がおり、そのため「十思・九徳」を失い、「兼聴」でなく「偏信」となり、「終わりを全うできない十ヵ条」をそのまま行なっている

こういう点では、人間も社会も、まことに昔と変わらないものだと思わざるを得ない。

「六邪」は権力を握れば必ず出現するのだから、「大衆=帝王」が出現すれば、「マスコミ」という名の「六邪」が出現しても不思議ではない

そして「六邪」の言葉は常に耳に楽しく、潜在的願望をくすぐり、それに耳を傾けていれば破滅だとわかっていても、ついそれだけに耳を傾け、「偏信」となり「兼聴」を失う。
そして失脚する。

では、「六正・六邪」をどうやって見分けるか。
これは情報の選択、社員の採用、抜擢等における最も重要な「基準」だが、これをペーパー・テストで計ることはできない。

中国もペーパー・テストの国だったから、この点には大変に苦労したらしいが、本書に記されているように、「六正・六邪」にもやはり判定の基準はあるのであって、それをわれわれが忘れているだけである。

さらに、平和な「守成の時代」に、どのようにしたら組織を活性化できるかという問題もある。
組織が同じなら、同じように機能するなどということは決していえない。

人びとが「相惜顔面」すなわち互いに面子を立て、相手の感情を害すまいとすれば、問題は見えなくなり機能を失う。
それを上がそのまま承認すれば、「上下雷同」となる


だが、こういう状態はその組織内にどっぷりつかっていると、何の衝突も生じないから、逆に安全な状態のような錯覚になる
だがそれは、組織が現実から遊離して全く機能しなくなり、いずれは崩壊するということにすぎない。

それをどうやって防ぐか、こういう問題も論じられている。
本書を読んでいけば、いま話題になっているすべての問題は、すでに論じつくされていると言っても過言ではない。

~中略~

では、『貞観政要』とはどのような本なのか。

~中略~

この本は実に、平安時代から一貫して、日本人の「帝王学」というより「リーダー学」の教科書であった
日本は中国と違って、鎌倉時代以降は、権力分散の時代であったから、さまざまなリーダーが、本書によって、リーダーはいかにあるべきか、どのようにしなければ終わりを全うできないかを学んだわけである。

おそらく日本で、最も長く読みつがれて来た本であろう。
だが、本書もまた戦後に消え、今では『貞観政要』という書名を知る人もほとんどいないようになった。

~中略~

私が『貞観政要』を読んだのはもうずいぶん昔のことで、さらにそれは、今回利用させていただいた原田種成博士の校訂本文(一章参照)のような、立派な版本ではなかった。

それでも、「草創(創業)と守文(守成)といずれが難き」とか「六正・六邪」「相惜顔面」「上下雷同」などは、自己の戦争体験との関連で、強く印象に残っていた

今回、読みかえしてみて、私自身、忘れたようでいて、実は、ずいぶん深く本書の影響を受けていたと思わざるを得なかった。
本書を傍らに置くことは、常に、遠慮なく厳しく注意してくれる人を傍らに置くようなものである。

何となく皆が、周囲にさからうことや、マスコミに叩かれそうなことは言わなくなった現代は、まさに「相惜顔面」の時代かも知れぬ
こういう時代こそ、諌言・直言・苦言を傍らに置くことは、各人にとって、特に権力・権限のあるものにとって、必要不可欠のことであろう――特に、終わりを全うするために。

~中略~

◆いま、なぜ『貞観政要』なのか

■権力者の落とし穴

「守文」とは、簡単にいえば、「組織ができてしまった」状態である。

当然に、上はさまざまな権限をもち、時には下の運命を左右する権力をもちうる。
これはトップだけでなく、一部門の担当者でもいえる。
そして、ある人間をどこかへ「とばす」こともできれば「引きあげる」こともできる。

組織である以上、一定の権限をもつことは必要不可欠だが、しばしばこれがプラス・マイナスさまざまに作用する。

今は自由主義・民主主義だから、そうはいえないな。昔の中国の帝王なら別だろうが……」といった錯覚をもっている人は意外に多い。
だが独裁者とは、近代になってはじめて出て来たことを忘れてはなるまい。

伝統的社会の帝王は決して無限の権力を振るい得なかった。

たとえば『旧約聖書』に記されたイスラエルでは、王とは神との契約に基づいて王なのだから、その契約の内容である「律法」をおかすことができず、もしも犯したら、預言者に糾弾された。
これは有名なダビデ王でも同じで、預言者ナタンに糾弾され、荒布をまとい、灰の中に座し、断食して悔い改めねばならなかった。

中国では、皇帝は「徳」があるゆえに天命によって皇帝になったのだから、「聖人」と呼ばれる。
朱子は『近思録』で、聖人(孔子)に学んで聖人の通りにすればだれでも聖人になれると言っており、従って皇帝は、聖人(孔子)に学んで定められた通りに行わねばならない。

それをしないと、諌臣が遠慮なく皇帝に諌言する。
預言者のかわりに、諌議大夫などというそれが専門の職がある

こういう点から見ると、今の社長や大学の医学部教授の方が「独裁者的傾向」が強く、「こりゃ、諌議大夫が必要だな」と思われる社長も教授もいる。

そういう人は新聞に話題を提供して失脚し、「守文」に失敗しているが、こういう点では、自由主義の時代の方が、昔以上に無規範なリーダーがいるし、また無規範な社員もいるのである。

といっても昔が決して理想的だったのではなく、神との契約が絶対なはずの同じ『旧約聖書』の「伝道の書」に次のような言葉がある。

貧しくて賢いわらべは、老いて愚かで、もはや、諌めをいれることを知らない王にまさる。たとい、その王が獄屋から出て王位についた者でも、また自分の国に貧しく生まれて王位についた者でも、同じである」と。

困ったことに権力はしばしば人を、わきまえのない子供以下にし、善悪の判断さえつかなくしてしまう

通俗史家ウェルズは、ネロやカリグラのような史上有名な暴君は、一見まことに異常人間のように見えるが、絶対的権力を握ればだれでもそうなりうると述べている。

権力を握れば三年でバカになる」という言葉があるが、まさにその通り、むしろそれが普通であって、これは中国の代表的暴君、殷の紂王や隋の煬帝でも同じことであろう。

ということは、われわれもそうなりうるということである。

問題は、この「なりうる」という自覚をもって、自らを制御すること、同時に魏徴のような諌議大夫を置いて、その人の言葉に謙虚に耳を傾けうるか否かにあると言ってよい。

■危険な「阿諛追従の徒」

こういえば、あるいは人は言うかも知れない。

それは昔の話であって、今ではそんな権力をもっている人間はいないから、今日のわれわれには関係ない。確かに政治家や社長や医学部教授などには、絶対的権力を握っている人もいるだろう。だが多くの人はそうでない。第一、どんな小さな部門に対しても私は権力などもっていない」と。

だが、そう簡単に片付けるわけにはいかない。
社会が複雑になると、まず、さまざまな部門に小権力を生ずる

そして権力とはいずれの場合もまことに魔物であって、昔の帝王以上にその人を「貧しくて賢いわらべ」以下にしてしまい、是非善悪の判断がつかなくしてしまう

預言者もいなければ、諌議大夫もいないから、人事権という権力を握れば医大の教授が五百万円を受け取ったり、気に入らなければどこかへ飛ばしたりする。

また許認可権という権力もある。
新聞に「新薬の許認可にからみ製薬メーカーの生殺与奪の強権を握っている」と記されていた中央薬事審議会の汚職もある。
また、被告と情を通じようとした裁判官もいる。

いやこういう例を日々の新聞でひろって行けば際限ないほどで、まことに近代社会とは、あらゆる所に「権力」を生ずる組織だなと思わざるを得ない。

確かに、権力が一人に集中しているより分散している方が安全だが、これは「権力」という魔物のとりこになる人が、それだけ多いということである。

そういう位置にいる人は、まず「諌議大夫」を雇ったつもりで本書を読む必要がある。

もちろん中国にも常に魏徴がいたわけでなく、暴君の例は多いが、『貞観政要』その他に反面教師として登場する例もあるから、それにゆずろう。
だが、いずれにせよそれらは、ことごとく「守文」に失敗していると言ってよい。

というのは、前述のように創業時代は、大変だといってもその大変さは陽性であり、成果は目に見えるし、また「乱世だから、創業だから、ある程度のことは仕方あるまい。何しろあの能力はかけがえがないから」ということにもなりうる。
太宗にも創業時代にはそれがある。

だが、「守文」となると、陰性で「シンドイ」大変さだから、上であれ、下であれ、無規範な横暴さは耐えがたいものとなる

と同時に、権力の固定は必ず「阿諛追従の徒」とはいえないまでも、「イエス・マン」を生じ、陰性の横暴な権力を振るう

それが取り巻きになると、ますます無規範がひどくなり、同時に「情報遮断」を生ずる

個人の破滅、事業の失敗、一国の破滅はまずこのあたりからはじまる。

だが、現在では諌議大夫が直言してくれない。
そこで、われわれはそうならないため、「書物の諌議大夫」の言葉を聞くことが必要であろう。

■「民」が「主」の時代

だが、「自分はそういった一切の権限に無関係で、小権力さえもっていないから関係ない」という人がいるかも知れない。

だが、そういう人は、今が民主主義の時代であることを忘れている

「君」「主」はいうまでもなく「君」に権力が集中して絶対権があり、そこで諌議大夫がしっかりしていないと「民」が被害をうける。

この歴史は長いから、何となく図式化されて固定観念となっているが、民主主義とは「民」が「主」の時代であり、オルテガ・イ・ガセットに従えば、大衆が権力をもつ時代である。

こうなると「主」がもつ問題点を「民=大衆」がもつということになる。

それは各人が自覚せずに、実に強力な一種の権力をもつ結果となる。
そして自覚なき権力がもっとも恐ろしい

もっとも「主権を行使できるのは四年に一度だけ」、いわば選挙のときだけだと言う人がいるかも知れない。

だが、四年ごとに「国権の最高機関」のある人を罷免し、ある人を任命するというのは大変な権限であり、こういう強権を自由に行使し得た君主は必ずしも多くはないし、それぞれの機関でこれだけの権限を行使している人も決して多くはない

ということは、この権力に対して当然に「阿諛追従」が起こり、民衆の耳ざわりにならないことだけをいって、真の情報を遮断してしまう者が、いわば民衆の「佞臣」ともいうべきものが発生する

そして、それは発生して当然なのである。

こうなると今後は「民」が、「老いて愚かで、もはや、諌めをいれることを知らない王」になってしまい、「賢いわらべ」に劣る状態、いわば子供にもわかることがわからない存在になってしまう。

貞観の初、太宗、侍臣に謂いて曰く、君たるの道は、必ずすべからく先ず百姓(人民)に存すべし。もし百姓を損じてその身に奉ぜば、猶お脛(はぎ)を割きて以て腹に啖わずか如し。腹飽きて、身斃る」と。

これは『貞観政要』の「君道第一・第一章」の冒頭の章の言葉だが、確かに、君主が苛斂誅求で人民を苦しめて疲弊さすことは、自分の足の肉を食って満腹するような状態であり、満腹したときに「身斃る」となって不思議ではない

「スネをかじる」という言葉はこれから生じたのかも知れないが、親のスネならともかく、自分のスネをかじればどうなるか。
もちろん「身斃る」だが、そうならないためにどうするか、という問題は、実に、民主主義の時代になっても変わらないだけでなく、さらにむずかしい問題となる

というのは、前記の場合は、「民」が「君」を倒せば問題は一応解決する。

だが、「民=大衆」が「王」である社会は、民がそれぞれ自らの「脛を割きて以て腹に啖わすが如し」といった現象を呈する
そうなると、一国が破産し破滅することがわかっているのに、煬帝のような浪費をする

これは、敵が自分の中にいるような一種の自殺行為だから、何かを倒すことでは解決できない
いわば、国民全部が「明君」になるよう自らを正す以外にないわけだが、しかし、直言して諌める者もない。

言論はすべて商品化するから、もしいればこれを黙殺するか、遠ざけるか、沈黙さすかすればよい

だがそうなると、やがて自分か斃れる。
理屈ではそれがわかっているが、やめられない

だが、これは暴君も同じだったらしい。

後述するように、煬帝にはそれがわかっていたし、ネロやカリグラにも予感があった。
だがやめられない。
これも、また権力の魔力であろう。

こう見ていくと、全く同じことが「民」という「主」に生じて、同じ運命をたどっても少しも不思議ではないのである。
というのは、ウェルズのいうように、ネロやカリグラは別に異常な人間でなく、権力という魔力のとりこになれば、だれでもそうなる可能性があるからである。

ということは、「民=大衆」が「主」の時代には「民」がそうなる可能性があり、こんなことしていればいずれは破滅だとわかっていても、「脛(はぎ)を割きて以て腹に啖わすが如し」がやめられない。

日本国が破産するのではないかという危惧を感じつつも、あらゆる要求をして一歩もゆずらないという結果にもなる。

さらに、そこに「阿諛追従」の「佞臣」ともいうべきマスコミが民衆にゴマをすると救いがたい状態になる
「佞臣」は必ず「断固おやりなさい」とすすめても、諌議大夫のように、死を賭してもそれを思いとどまらせることはしないからである。

■書物としての諌議大夫

民主主義の破産は、民の無制限の要求にはじまることは、プラトンの指導下のディオンの民主主義革命が失敗して以来、常に起こってきたことである。

そして「君主」は一人だが、民は全員であるだけに、こうなるとまことに始末が悪い。

それを克服する道は、「民主主義とは、民衆の一人一人が君主なのだ」という自覚をもつ以外にないということである。

その一人一人が、明君にもなりうれば暗君にも暴君にもなりうる。
そう考えれば、民主主義の「守成」とは、一人一人に、諌議大夫が必要だということになる。

それが不可能なら、「書物としての諌議大夫」の言葉を続行以外に方法がないであろう。
その意味で『貞観政要』は、少なくとも現在では、国民の一人一人に無関係の書とはいえないのである。

こういう点で、『貞観政要』はさまざまな示唆を与えてくれる。
それは主権者である国民の一人一人にも、政治家にも、また社長にも、さらにさまざまな権限をもつ者にも、もし今の状態すなわち「民主主義」と「経済的繁栄」を維持しようと思うなら、何をすべきか、また何をしてならないかの、基本的な心構えを知らせてくれるのである。

【引用元:帝王学「貞観政要」の読み方/はしがき・いま、なぜ『貞観政要』なのか/P3~】


上記の記述を読むと、今の民主党政権もあきらかに、「六邪」という「取りまき」がいて、そのため「十思・九徳」を失い、「兼聴」でなく「偏信」となり、「終わりを全うできない」状態に陥ってますね。
普通の人間ですら、権力の位置に座ればわらべに劣るのですから、菅チョクトさんのような市民活動家あがりの能無しなら尚更でしょう。
我々は一国の破滅を現在形で見ているのかも知れません。

それはそうと、「民主主義を知る」とはどういうことでしょうか。

私が思うに、「自らが権力によってバカになりうるという自覚を持ち、自らを制御」して初めて知ったといえるのではないでしょうか?

山本七平は「そろそろ民主主義亡国論」というコラムにて次のようにも言っています。

「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない。
そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう、
と。

こうした意識を持って初めて民主主義が上手くいく「前提」にたどり着ける、というべきでしょう。
ただ単に「国民みんなが参加すれば済むものではない」ということです。

しかしながら、こうした意識を持って、政治的主張を行なっている人がどれだけいることでしょう。
特に「権利ばかり主張して、義務については知らん振り」という姿勢が目立つ左翼に、どれだけ民主主義が理解できているのか?
非常に疑わしく思う次第です。


【関連記事】
◆贅沢な民主主義体制/それを支える「前提」について考える。
◆護憲派が主張する「立憲主義」が民主主義にもたらす影響とは/北大教授永田先生の記事を基に考える
◆言葉と秩序と暴力【その6】~日本的ファシズムの特徴とは「はじめに言葉なし」~


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コメント

>こういう視点に立てば、今回の事故は未完成の技術のリスクを日本が取らされたということで、世界はこれによって、多くのリスク回避の技術を手にすることができると思います。

福島の被害は甚大ですが、菅首相がいうような「東日本はつぶれる。ニ・三十年人は住めない」という事態には至っていないと思います。

tikurinさんが仰るように、この災害から教訓を得て、原発を諦めてしまうのではなく、更なる安全向上に努めるべきでしょうね。

  • 2011/06/26(日) 23:09:49 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

技術は絶対ではなくリスクを伴う

>>今後、そうした核技術開発の可能性はないのでしょうか。もしあれば、研究開発は継続すべきだと思うのですが。

>私はあると思います。
とりあえず、トリウム融塩炉とか有望ではないでしょうか。
私は北大教授の永田先生の唱える設計思想の原子炉など良いと思うのですが。未読でしたらご参考↓にしてください。

 鉄腕アトムによって描かれた夢は原子力エネルギーによって支えられていたわけですからね。夢に終わらせないように研究開発を続けてもらいたいと思います。
 永田先生のリスク分散という考え方は、技術は絶対ではなく必ずリスクを伴うという当たり前のことを踏まえてリスク管理をすべきだということで、完成した技術ばかりを取り入れてきた日本人が忘れがちな視点ですね。
 こういう視点に立てば、今回の事故は未完成の技術のリスクを日本が取らされたということで、世界はこれによって、多くのリスク回避の技術を手にすることができると思います。永田先生のこの視点は、山本七平の視点と同じだと思いました。

  • 2011/06/23(木) 04:59:33 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

tikurinさんへ

>原子力発電は、今回の事故を教訓に安全対策を徹底して、自然エネルギーの開発状況や発電コストなどを総合的に勘案しながら、今後の適切な運転計画を立てていただきたいと思っています。

まったく仰る通りだと思います。

>今後、そうした核技術開発の可能性はないのでしょうか。もしあれば、研究開発は継続すべきだと思うのですが。

私はあると思います。
とりあえず、トリウム融塩炉とか有望ではないでしょうか。
私は北大教授の永田先生の唱える設計思想の原子炉など良いと思うのですが。未読でしたらご参考↓にしてください。

■原発の安全管理(永田)
http://blog.camuispaceworks.com/?eid=129

将来的には核分裂じゃなくて(放射能廃棄物が出ない)核融合が開発できればエネルギー問題は解決すると思います。

>私は、山本七平を日本教徒にとっての「預言者」だと思っています。だからその言は厳しく、なかなか受け入れられないのでしょう。

たしかに「存亡の条件」とか「一つの教訓・ユダヤの興亡」とか見ていると、山本七平の指摘は預言めいてますね。

>なお、一知半解さんの「山本七平ネタ」の過去ログも、将来利用させていただきたいと思っています。

私の記事は丸ごと紹介してるだけなので、ちょっと後ろめたいものがありますが、こんなのでも利用していただけると嬉しいです。
よろしくどうぞ。

  • 2011/06/21(火) 22:59:39 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

山本七平による「預言」

一知半解さんへ
>私などはまだ錬金術に執着していると言えますね。

 原子力発電は、今回の事故を教訓に安全対策を徹底して、自然エネルギーの開発状況や発電コストなどを総合的に勘案しながら、今後の適切な運転計画を立てていただきたいと思っています。

 いずれにしても、人間にとって、科学技術が錬金術であることは間違いありませんね。その点核エネルギーは、かってアトムがそうだったように夢のエネルギーと期待されてきたわけで、まあ、あんな風に日常的に安全に使えれば良かったのですが・・・。今後、そうした核技術開発の可能性はないのでしょうか。もしあれば、研究開発は継続すべきだと思うのですが。

>今現在こそ、貞観政要や山本七平の叡智が求められている時は、無いのではないでしょうか。

 私は、山本七平を日本教徒にとっての「預言者」だと思っています。だからその言は厳しく、なかなか受け入れられないのでしょう。

 教材として用いれば、きっと、サンデル教授よりはるかにおもしろい、生徒との対話ができると思うのですが。何とか実現したいものですね。

 なお、一知半解さんの「山本七平ネタ」の過去ログも、将来利用させていただきたいと思っています。よろしく!

  • 2011/06/20(月) 02:45:19 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
  • [編集]

tikurinさんへ

tikurinさん、ご無沙汰しております。
コメントありがとうございます。

>表題、「民主主義とは民衆の一人一人が『君主』である」は、「君主」でなく「主」であれば誤解されなかったかも知れませんね。

確かにそうだったかも知れません。

>おそらく、現在の日本は、「外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手」の出現に直面すると同時に、「核」というエネルギーの錬金術が地震によって崩壊した時であろうかと思います。それによって「人々の意識」がどのように変わるか・・・。

なるほど、そう考えると、私などはまだ錬金術に執着していると言えますね。
競争相手もいるし、錬金術に頼れないとなると、かなりのピンチかも。

そのような状況を踏まえた上で、人びとの意識が変わるのであれば仕方ないようにも思いますが、一体、そのような問題の捉え方をしている人がどれだけいるのでしょうか?

>日本人に、この「法」による「民衆の無限の要求」の制御ができるか、それが、日本の「転落」を食い止める唯一の方法なのですが・・・。

法の遵守に加え、民衆一人一人が帝王学を学ばねばならないというのはかなり厳しいものがありますね。
それが出来るかどうか…非常に危うく思います。

>その昭和が、関東大震災後に始まっていることに、私たちは十分の注意を払うべきだと思っています。

そう考えると、まさしく今は時代の転換期なのでしょうね。
今現在こそ、貞観政要や山本七平の叡智が求められている時は、無いのではないでしょうか。

余談ですが、こういう「教材」こそ、教育の場で活用すべきだと思うのです。
高校生ぐらいになれば、教えればある程度はわかると思うんですけどね。
政治色が強いからダメなのかな~。
だとしたら残念ですね。

  • 2011/06/19(日) 22:57:59 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

一知半解さん、お久しぶりです。

 表題、「民主主義とは民衆の一人一人が『君主』である」は、「君主」でなく「主」であれば誤解されなかったかも知れませんね。

 今、私たちの目にしている日本の政治情況ですが、現代の政治家達がいかに帝王学を身につけていないか、権力のためにバカになっているか、なんとも情けない姿ばかりが目に付きます。それに、「無限の要求をする民衆」その「要求に迎合するしかない」政治家たちの群れ・・・。

以下、ご紹介いただいた山本七平の言葉をまとめてみました。( )内は筆者の補足

 「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない。
そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう。

 かってプラトンは、この「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかない、と考えた。

 だが、「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか、となるとこれはだれが考えてもむずかしい。

 現代にたとえれば、「税金は払いたくない、しかし社会保障はあらゆる面で十分に享受したい」という民衆の要求を、民衆が選出した代議士に制定させようとしても、少々無理ということ。

 この無理を(何とか続けようとして)、かつては植民地を搾取することで何とかやりくりをして来た国もあった。

 (それができないとなれば、その無理を続けるためには、科学技術による富の創出という、かっての「錬金術」に頼るしかない。)

 そして現代の「民」という「主」は、科学技術が新しい富を創出し、それが自分たちの無限の欲望を次々に充足してくれると信じて疑わない。

 だがその「信じて疑わない」は果たして根拠があるのか。

 それは非常に危い基盤の上に立っているのではないか。どこが危いのか。

 まず、その状態が人をどう変えてしまうかであり、次に、錬金術の独占が果たしてつづくか否かである。

 まずあらゆる欲望が充足されるような状態は、人びとの意識を変えて錬金術への情熱を失わせるかもしれぬ。

 そしてこの内部的変化が起こったとき、外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手が現われたとき、どうなるか。

 (その時、今まで信じてきたものが)一挙に転落して不思議でない。

 そのとき「貧しき民主主義」を頑として維持するには宗教的信仰に近い強固な思想が必要なのだが、ではそれがあるのか――。」
(以上) 

 おそらく、現在の日本は、「外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手」の出現に直面すると同時に、「核」というエネルギーの錬金術が地震によって崩壊した時であろうかと思います。それによって「人々の意識」がどのように変わるか・・・。

 日本人は「貧しき民主主義」を頑として維持することができるか?かってプラトンは、この民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかないと考えた。では、日本人に、この「法」による「民衆の無限の要求」の制御ができるか、それが、日本の「転落」を食い止める唯一の方法なのですが・・・。

 戦前の日本人は、この「法」思想よりも「純粋」思想を選択し「転落」しました。その昭和が、関東大震災後に始まっていることに、私たちは十分の注意を払うべきだと思っています。

  • 2011/06/19(日) 20:27:04 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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★★コメント欄運営方針★★
・基本的にどんなコメント(管理人批判も含め)でも一度は公開します。
・事前承認制ではありませんので、投稿するとすぐ表示されてしまいます。投稿前に、内容の再確認をお願いします。
・エロコメント及び勧誘サイトへ誘導するようなコメントは気付き次第、削除します。
・管理人宛てのコメントには、出来る限り対応していきたいと思います。ただ、あまりにも多連投コメント及び悪質・粘質なコメントは放置する場合があります。
・管理人はコメント欄の運営については自由放任という立場です。当面は、たとえ議論が荒れてしまっても不介入の方針でいきます。議論はとことんやっていただいてかまいませんが、できるだけ節度やマナーを保って議論していただきたいと”切に”希望します。
・本人よりコメント削除要求があり、管理人から見て、明らかに事実無根の中傷・名誉毀損と判断した場合は警告の上、当該コメントを削除することがあります。

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